=風の精霊ウィンディ=

管理人 2

「ふー! 間に合ったわー!」
 そんな声とともにドアが音を立てて開き、アクアの意識は写本作業から引き戻された。もう十枚は仕上がっているが、時計を見るとそれほど時間は経っていない。
 同時に奥の廊下からのしのしと所長が姿を現して怒鳴る。
「どこが間に合ってるんだ! どこが!」
 今し方駆け込んできたばかりのヒルダは、額の汗を袖で拭きつつアクアの隣の椅子を引いた。今日はうなじにかかる髪もさらりと流れ、インク染みのないシャツをぴしっと着込んでいる。
 アクアが呼び出された時間はもう二十分ほど過ぎているし、ニーさんや始末係さんといった他の陣書きも各々のテーブルで作業に取りかかっているが、ヒルダはどこ吹く風で糊の効いた黒いエプロンをつけながら、アクアの手元を覗き込んでくる。
「あら、もう書いてくれてるの。助かるわー。でも贅沢ね。水の精霊に写しやらせてる事務所なんか他にないわよ」
 自分で言って自分で笑うヒルダに、アクアは何と返せばいいか分からず曖昧に「はあ」としか言えない。
 が、
「はあ!?」
 事務所中に声を響かせ、カウンターを叩くようにして所長が立ち上がった。気づけばニーさんも消しカスさんも椅子から身を乗り出し、始末係さんでさえ手を止めてアクアを見ている。
「…………え?」
 何事が起きたのか理解できないでいるアクアを飛ばして、ニーさんの目がヒルダに向かう。
「オカマさん、いまなんて言った?」
「ふー、間に合った?」
「そこなわけないだろ! いま、つい、さっきだよ!」
「なによ、怖い顔して。水の精霊に写しやらせてる――」
「そこだよ!」
 アクアの正面の席で消しカスさんが飛び上がった。
「水の精霊? なのか? 新入りくんが?」
「えっ、あっ、はい、あ、でもおれまだここで働くかどうかは」
「オカマさん」
 答えきる前に始末係さんが背筋を真っ直ぐにして立つ。スキンヘッドが照明を艶やかに跳ね返す。
「どういうこと? 説明してもらえる?」
「もしかして私、言ってなかったかしら? 彼、アクア・ウォーティくん。水の精霊……らしいわよ」
「聞いてない! 聞いてないっすよオカマさん!」
「せっ、精霊なんてどこで拾ってきた!? しかも精霊ってこんな子供なのかよ!」
「……おっさん」
 怒号だかなんだか分からない叫びの飛び交うなか、始末係さんが所長の立つカウンター前へと歩み寄る。
「若くて、技術もあって、おまけに精霊よ。おっさんの経営者判断に期待します」
 難しい顔でアクアを見つめていたおっさんこと所長は、その太い腕を振り上げて、叫んだ。
「採用!」
 このときのアクアはいまいち理解していなかったが、この瞬間を持ってアクアはうらろ事務所に正式に採用された、らしい。この日、日が暮れるまで写本を手伝って、とりあえずの原稿料として初めて給与なるものをもらいながら――ニーさんとオカマさんが二人して「多めに渡しとけ!」「最初が肝心よ!」などと囃していた――説明を受け、アクアはやっと、自分が仕事を始めたことを知った。

 初めてもらったお給料を使うというアクアに付き添って、放課後に城下を歩く道すがら、あたしはアクアのうらろ事務所採用の経緯を聞いていた。
「じゃ、事務所に通って魔法陣書くんだ」
「うん。でも、学校があるから毎日は行けなくて、行ける日だけになりそう」
「結構自由なんだね。まあいいじゃん、ちょっとでも仕事して生活費とか稼いだほうがいいんでしょ」
 歩きながら振り返ると、アクアは困ったように首を傾げた。甘ったれた声がためらうみたいに言う。
「よくわからないけど、うん、たぶん」
 その手に提げている小さな紙袋は、事務所のひとに薦められたという筆記具店のものだ。とりあえず、事務所でいちばん流行っているインクを買ってみたらしい。この買い物が人生何回目の買い物か、あたしは知らないけどアクア本人ならまだ数えられる範囲に収まってるだろう。つくづくとんでもない箱入りだ。
「今日って、ユールも魔界にいるんだよな」
 アクアがあたしたちの通り過ぎてきた方角を見やった。お兄ちゃんのお店のほう、つまりは城下北魔法訓練校のほうだ。ユールは今日も訓練校で魔力感覚を教えている、らしい。
「なんか校長先生に新入生のお世話頼まれたんだってさ。信じらんないよね、あのユールが子供に魔法教えてるなんて」
「でも、ユール真面目だし、学校って似合うかも」
「そうかなあ~?」
 ユールの思い出を覗いたあのとき以来、あたしから見るユールはうっとうしいくらいぼーっとしている。あ、それは前からか。でもほんとのほんとにぼーっとしたお子様だったのを見ちゃったからなあ。
「教える側には頼りない気がするけどなあ」
 無駄話をしているうちに、もうお城に着いてしまった。
「さて、あっちは頼りがいのある職員さんしてるかな?」

 城にいくつもある塔のひとつ、その根元に当たる一室が封印の間だ。さまざまな理由で外に出せない物や、封印刑で誰か封じられた品が雑多に山をなす、石積みの壁がむき出しの倉庫のような部屋。
 その隅っこに物を避けて作った小さな机と椅子だけのスペースで、エメリアはあたしたちにお茶を入れてくれた。
「もう軍人じゃないんだ。私を頼りにする者はいないさ。それになるべく目立たない仕事を見つけてもらったんだ。誰にも当てにされず、誰にも迷惑をかけずに静かに生活するつもりだ」
「……それは、いいんだけどさあ」
 お茶を吹いて冷ましながら、あたしは脚を組んで微笑むエメリアの頭に視線釘付けだった。きっちりとした編み込みを全部解いて肩を流れるしなやかなストレートヘア、それはいい。広がりすぎないよう耳の上あたりで地味な髪留めをしてるのも、全然、なんともない。
 けど、
「その、髪の色。どうしたの?」
 天界軍の軍服に縫い込まれた銀糸のような銀髪が、全部、歌姫カナリャーナーミ顔負けのきらっきらの金髪に様変わりしている。
「変装のために染めた。あんたたちもそういう偽装をしてただろう。あれほど大がかりなものじゃない」
「魔力を隠す魔法陣のこと、ですか?」
 尋ねるアクアに、エメリアはカップを置いて頷いた。落ち着いた仕草と、どこかさっぱりした表情と、明るすぎる金髪がどうもミスマッチだ。
「ずっと染め続けるの? たいへんじゃない?」
「しばらくの間だけだ。止めたときは染め続けるのが面倒になったとでも言えばいい。ほとぼりが冷めるまでは城から一歩も出ないでいられる手筈だ。城に馴染んで、もう誰もエメリアという元軍人を探さなくなったら、城下の近辺で住むところを見つけるつもりだ」
「それまでここにずっと?」
 部屋を見回す。何度見たって景色は倉庫だ。置いてある物はどれもとんでもなく古く見え、鉄製の棚からしてとっくに錆びている。ただ、窓はそれなりに大きくて部屋は明るい。
 あたしはそれを、まあ引きこもっててもそれほど気が滅入る感じじゃないか、と思った。けど、アクアの目の付け所は違った。
「この環境にしては傷んでないんですね。本とか」
「そうなの?」
 あたしにはよくわからないけど、エメリアはその見解に感心したようだった。
「よく気づいたな。それこそが封印という魔法の効果だ。時を止める、変化から切り離す。人が操らない純粋な魔力は変化への抵抗力を持つというが、それに近い、ある意味で究極にシンプルな魔法だな。魔法の性質としては死神をやっていたころの仕事に似たところがあってやりやすそうだが、まあ、現在は新規で封印を要するものはほとんどない。当分は、ここにある物品の目録作りが主な仕事だ」
「えっ、目録ないの? 前も管理人いたんでしょ」
「聞いていないか? 地下の移動陣管理室と、朝晩の清掃の業務前後の取り仕切りと、搬入品の点検かなにかが兼業で、前任はここではほとんど寝るだけだったらしい。だから、本当は泊まりまでする必要もないが、泊まれる備品は揃っていてな。まだない目録を作るという業務もあるし、居場所もある。私にはこれ以上なく好都合だ」
 エメリアの口振りは終始穏やかだった。騎士団の訓練場で対峙したときのぴりついた雰囲気はどこにもない。姿勢や言葉遣いの堅苦しい感じはそのままか、もっと強調された感じがする。ちょっとユールに似てるかも。でもユールより全然話しやすいな。
 話しやすいついでに、あたしは別のところではぐらかされたことを聞いてみることにした。
「ね、グロウにはなんか渡した? 冥界軍から警備の報酬もらうことになってたけど、たぶんあれなくなっちゃったでしょ」
「ああ。歌姫に託すはずだった荷物を渡したよ。これまで大戦賭博で得てきた金の一部と、今後も大戦賭博で使える情報だ。あんたたちの年齢を聞くと教えるのもどうかと思うが、精霊だし、精霊狩りがそういった界隈に潜伏している可能性があるというのでな。あの社長なら活かしてくれるだろう。それより……」
 エメリアがカップのなかの水面に視線を落とす。青と緑の混じり合ったような瞳で光が揺れる。
「歌姫はどうしているだろう、と考えてしまう。何も持たないで行ってしまったから。いま思えば、彼女はそんな天冥のしがらみを人間界に持っていくつもりなど端からなかったようにも思うが、分からないな。私と彼女はいっとき、同じ目的を持っただけの他人同士だった、そう割り切るしかないのかもしれないな」
 しみじみと言うエメリアの表情があっという間に暗くなっていく。さっきまで平和な新生活を喜んでたのに。
 ちらっとアクアを見ると、いかにも大人が落ち込んでるのを見て困ってます、という顔をしている。だめだ。
「あー、カナリャなら大丈夫じゃない? なんか転んでもタダでは起きないって感じだし。それに人間界にいるなら、あたしたちどっかで会うことあるかも! 会ったら報告するね! だからまた来るね! それじゃ!」
 無理矢理明るい話に持っていき、もう一度なにかの弾みで暗い方へ転ばれても困るので会話を切り上げ、あたしは「それでいいの……?」みたいな目で見てくるアクアを引っ張って封印の間を退散した。
 やっぱり、エメリアもユールと変わらないぐらいめんどくさいかもしれないなあ。

2024/8/19