=風の精霊ウィンディ=

管理人 1

 昼休み、お弁当を開けもしないうちから、椎矢が興味津々に尋ねた。
「それで、三日後に会ってきたの?」
 ゴールデンウィークというやつも終わり、週が明けて、もう水曜日。休みらしい休みじゃなかったせいであたしは学校行くのがだるいけど、椎羅と椎矢は連休に英気を養ってか元気いっぱいだ。月曜に魔界での出来事を報告してからさらにその傾向が強い気がする。
「昨日が約束の日だったんでしょ。どうなのよ?」
 椎羅もお弁当そっちのけで目を輝かせている。なんでも、謎めいた銀髪の軍人――これは椎矢が言い出したフレーズだ――というのが盛り上がる要素らしい。
 あたしとしてはあの日を乗り切るまでのところが山で、あとはグロウたちにお任せだったから、エメリアがどうなったかという心配はこのときまですっぽ抜けていた。
 冥界軍を黙らせるという仕事は、ゴッドとユールだけでは片付いてなかったのだ。当たり前だけど冥界軍は騒然で、消えた歌姫を捜索すべしという方針はすぐに立ったけど魔界であんまり勝手もできず、そこそこ偉そうなひとたちが右往左往して、しまいに歌姫の補佐だった女性があたしたちに頼み込んできた。女王家の敷地で騒ぎを起こした側であるため、お城の地下の魔法陣を調べる許可はもらったけど条件付きだった、と。
 条件は冥界軍の陣書きを使わないこと。大事な魔法陣をこれ以上よそものに触らせられないのは当然のことだ。じゃあ誰ならいいのかということで、指名されたのがアクアだった。
 けど、アクアはゴッドたちから話を聞いた時点で、たぶん調べても歌姫の行方はわからないだろうと言っていた。
「移動陣に別の魔法陣を繋げて、追加の行き先を設定したんだと思う。元の移動鏡は一切変わらないから、魔法陣が燃やされてるなら行き先は……それにもし陣が残ってても、そこに書かれてる行き先の移動陣を見たことがないと、場所はわからないよ」
 その言葉通り、現地での検証ではなんの手がかりも得られなかった。おまけに、戦闘で一部破損した他の移動陣を修理する流れになり、作業は夜までかかった。
 リハーサルだけやった公演はもちろん中止だし、払い戻しだの損害金だの、政府がどうとか調書がなんとか、勤め人が真っ青になる言葉が飛び交うなか、とりあえずグロウが精霊に話があるときの窓口を引き受けて、解放されたのが夜中のこと。喉はカラカラ、おなかはぺこぺこでお兄ちゃんのお店に駆け込み、やきもきしながら待っていたヒュナさんを見るなりなぜかユールがもう一度倒れて、さすがにもう暴走させる魔力も残ってなかったけど、その介抱にも時間は取られた。結局、全員それぞれの寝床にたどり着いたのは夜明け頃だったと思う。
 次の日、あたしは丸一日寝た。グロウとゴッドは冥界軍とのやり取りを含めてとっくに仕事にかかってたらしいけど、そんなの全部丸投げだ。あたしにできることはない。その晩には人間界の家に戻って、翌朝はアクアとユールとグロウの四人でやっと顔を合わせた。ゴッドは今朝は部屋にいたっぽいけど、まだ会ってない。
 だから、エメリアのその後を聞くのはあたしもいまが初めてだ。月曜の朝には四人分の弁当を詰めていたグロウだけど、夜は出かけて遅くまで戻らなかった。きっとなにか暗躍してきたんだろう。
 その予想通り、グロウはさらりと、
「城に働き口があったき、そこへ行けるようにしちゃったわ」
 と予想の斜め上をいくことを言ってのけた。
「お城!?」
「声が大きい」
 箸箱で額を突かれる。いたっ、とおでこを押さえた手の向こうから、なんてことない世間話のトーンで楓生が説明する。
「地下の移動陣部屋に管理人がおったろ。歌姫に魔法かけられた人。あの職、移動陣の管理人を中心にした兼務ながやと。今回のことで地下の管理人室は専任になって、兼務やった細々した仕事も何人かに割り振るようにするっていうがで、ちょうどえいくに地味な閑職が新設されたがよ。閑職いうたち常勤やし、しまかに生活したら食べていけんことはない条件やったき、そこへうちの会社の推薦つけて押し込んだわ」
「何個かわかんないとこあるんだけど」
 グロウ語でつまづくあたしに対し、
「ニュアンスでわかるでしょ。灯台もと暗しってわけね」
 椎矢は自分だけ納得顔だ。
「その移動陣の問題って、精霊として調査するのよね。だったら苑美たちも元軍人さんに会いに行ったりするの?」
 椎羅が名前を出したのはあたしだったけど、それには楓生が答えた。
「そのうちね。相手の仕事が落ち着いてからみんなあで行ったらえいろうと思いゆう。うちは自分でスケジュールしゆうきなんぼでも都合つくけんど、河音は採用されたばっかりやし、柊もなんぞ頼まれごとしゆうみたいなし」
「あっ、柊さんがボランティアに行ってる児童施設でしょ。わたしも行ってみたいなあ。子供たちと戯れる柊さん……絶対人気者よね」
「え、冬山って子供苦手そうじゃない? ていうか子供のほうがあの仏頂面を恐れて近寄らなさそう」
「そんなわけないでしょ! 柊さんは相手に関係なく対等に話してくれるし、人の嫌がることはしないもの」
「それ、別に子供に好かれる要素じゃないわよ」
 気づいたらまた柊のことで盛り上がっている。けど、あたしは別のことが引っかかっていた。
 アクアって陣書き事務所に入ったんだっけ?

 歌姫公演の波乱から解放されたあと、アクアは付き合いで来てくれたゴッドとともに人間界の家に帰っていた。ルビィとユールはそれぞれ兄と姉を伴って自宅に戻り、グロウの家もクルスの店と同じ城下だからいいが、人間界へは城の移動陣を使って行くほかない。ただでさえ深夜の解散であったのに、そこを通るのにまた一時間ほどを要した。責任者を探し出すために骨を折ってくれたのはゴッドだから、アクアに文句は言えないが、待ち時間に積み上がっていく眠気のすさまじさといったらなく、自室へたどりつくなりベッドへ倒れ込んで、そこから次の昼までは記憶がない。
 なぜか、起きたら家にいるのはゴッドではなくグロウだった。グロウはアクアに伝言と言って、日時の書かれたメモを渡した。言付けられたのは、うらろ事務所へ訪ねる時間。伝言の主は、オカマさんこと、ヒルダ。
 そして、言われたとおりに月曜の放課後、アクアはすでに通常運用に戻っていた移動陣で魔界へ舞い戻って、うらろ事務所の扉を叩いた。
「あのお、ヒルダさんいますか……?」
 まだ二度目の場所で、肩も声も小さくすぼめてしまうアクアを迎え、地味な青年がぱっと笑顔を見せた。
「来てくれたのか、新入りくん! おっさーん、新入りくん来たっす! 今日中にやれます!」
 部屋の奥に向かって叫ぶと、消しカスさんと呼ばれていた青年は、
「まあまあまあ、どうぞどうぞどうぞ」
「え? えっ、あっ、はい」
 戸惑うアクアを無理矢理エスコートして、手近な机へと導く。椅子まで引いてくれて、つい座ってしまったアクアの前に、蓋をずらしたインクの瓶と数本のペンが寝転がったペン皿が並べられる。さらにどん、どん、と紙の山が右と左にひとつづつ築かれた。
「これが見本、でこれに書く、と」
 消しカスさんは向かいの机について紙を一枚投げるように寄越し、自分も鉛筆を握った。
「これを、これに……」
 アクアは見本と呼ばれた紙を見ながら、紙の山から一枚を取った。白紙だ。
 写せという意味なのはすぐにわかった。写本は陣書きの基本として、フィーといたころから練習を積んでいる。見本と同じ配置、同じ文字を意識して書き始めると、すぐに没頭した。

2024/8/19