「わかったよ!」
光が弾けた。薄暗い調光の家の中から、晴天の騎士団訓練場へすべてが舞い戻ってくる。
あたしはまっしろな瞼を下ろしたユールを見下ろし、その骨張った手に魔法陣とともに右手を重ねていた。風が吹き始めている。内へと向かい続けるユールの魔力を、逆のほうへと引っ張る風。
窓の外の青い影を持つ雪景色を思う。ユールの記憶は、いまやあたし自身の記憶でもある。そこに吹き荒れる風を思い描くのは簡単だった。
「ねえユール、起きないの? 起きないなら、勝手するよ……!」
ごう、と空を振るわせて竜巻が起き上がる。吹き上げるのは重く冷たい雪の粒。ユールの魔力を雪にして、それをあたしの魔力が吹き上げ、巻き上げ、はるか上空で消し飛ばす。
雪は、思うままに風を吹かせているのと同じ感覚で、いくらでも好きに生み出すことができた。この量の魔力が自分に向かえば、そりゃあ苦しいに決まってる。
アクアの魔法陣のちからも借りて、歌姫の魔法のおかげで余りまくっていた魔力はあっという間に吹雪にかたちを変えていく。これ、どこまでやったらいいんだろう。あたしが使いすぎで倒れちゃカッコつかないな。
と、気にし始めたそのとき、ぱち、とユールが目を開けた。
真っ青な、果てなく厚い氷の色。いまはすこし消耗した、それでも膨大な魔力に内からひかる瞳。
急に、引っ張られるような感覚があった。腕でも髪でもない、魔力だ。途端に吹雪は鳴りを潜め、つられて風も止み、はっ、と。
目を見張るだけの刹那に、氷の壁があたしたちを取り囲んだ。氷は音を通さずしんとして、けれど冷たくはない。ユールは触ったことがないから、冷たいかどうかのイメージを持たない。
気づいたときにはユールは半身を起こしていた。あたしは握りしめたままの手を解く。
「ユール」
「…………」
「……ユール?」
「…………」
待てども返事はない。
「……はあー」
自然にため息が出た。なんだかどっと疲れた気がする。
反対に、ユールはさっきまで声もなく苦しんでいたとは思えないほど涼しく平然とした顔で、もう完全に魔力の制御を取り戻したと表明するみたいに、背景になっていた氷の壁を瞬時に砕き、かき消してみせた。
「ユール!」
魔力の霧散する青いひかりの向こうから、ヒュナさんが駆け寄る。
「ごめんなさい、姉上」
「……いいから。それよりルビィちゃんにお礼を言いなさい」
高い声が抑揚なく言うのを、ヒュナさんは鼻を鳴らしてはねつけた。
「ありがとう」
記憶どおりの几帳面なまでの素直さで、ユールは指示されたとおりのことを言った。なんの感謝も伝わらない平坦な声音で。どういたしまして、って気分にはならない。
「いいよ別に。ずいぶん立派な走馬灯じゃん」
だいぶ意外なものを見たせいか、言っても仕方ないことがくちをついた。ユールはやっぱりなんの反応もせず、
「なんか見たのか? 見えるよなそりゃ。力移しだもんな」
いつの間にか傍らにいたゴッドからそんな言葉。そして、
「まあそれはあとで聞くとして。本題に戻るか」
視線はまだおとなしく拘束されている天界軍人へ向かう。そうだった。まだこっちがあるんだ。
数年とは言わないまでも、何日かは経ったみたいな錯覚を振り払って、あたしはグロウたちのほうへ足を向けた。
◇
ルビィが魔法陣を挟んでユールに触れた瞬間、アクアのなかにあったのは不安と満足という相反する感情だった。
これでほんとうにうまくいくだろうか、ほんとうに魔法陣を差し出してよかったのかと、線を引いたときにあった確信がすうっと冷えていく。それと同時に、ルビィが一分のためらいもなくアクアの陣を取ったことが、いつの間にか空いた胸の空虚を埋めるような充足もある。
そんな、アクア自身説明できないような気持ちを吹き飛ばすように、風が立ち上がった。
「アクア、避けちょき」
グロウに肩を叩かれ、竜巻の中心、ルビィとユールから距離を取る。風は地表を削るだけでなく、雪を巻き込んで吹雪となっていた。
ルビィが何事か叫んでいる、ような気がする。暴風は音をかき消し、吹雪は姿をくらませる。それでもアクアは、手がけた魔法陣の結果を、その中心で風に暴れるマントを背負うルビィを、じっと見つめる。
唐突に風が止んだ。次の瞬間には、竜巻より一回り大きく、ルビィとユールを氷の壁が取り囲んだ。
「ユール!」
ヒュナがクルスの腕を振りほどいて駆け出した。クルスもそれを追い、グロウの目配せを受けてゴッドも続く。
氷の壁は、ヒュナを通すためかのように、たどり着いた途端に砕けた。粉々になった青い光をくぐって弟のもとへ向かう。
動き出すタイミングを逃したアクアは、天界軍の男を見張るグロウとともにそれを見守るしかなかった。
なんの話をしているんだろう。ユールは起き上がっているし、ルビィも元気そうだけれど、魔法陣はうまく機能したのだろうか。ユールの魔力の暴走を導いて正す、それだけをきちんと果たしたのだろうか。
いっぱいの不安を、けれどくちにして訴えることはできないでいるアクアの方へ、ルビィたちが歩いてくる。魔法によるものとは違う、穏やかな風にマントを揺らして先頭を切るルビィは、やったよ、というふうに破顔して、わずかだけアクアの不安を軽くした。