=風の精霊ウィンディ=

精霊 3

 移動陣をいくつか経由し、雪原のなかの家に逃げ込んで、暖房を効かせ続けているリビングでようやく、ヒュナさんは止まった。振り返った白い顔には困惑と驚愕のほかに、複雑で否定的な表情が浮かんでいる。ユールはまだ丸みのある指先でその頬に触れた。傷ひとつない、白く冷たい頬。
「ケガしなくてよかった」
「なにもよくないわよ!」
 びくっ、と気圧された手が引っ込む。
 ユールは、ヒュナさんが泣いているのではないかと心配していた。自分のしたことはまるでわかっていない。騎士団員たちの狙いもわかっていない。ヒュナさんがあの場で考えていたことも、いまどんな気持ちでいるかも、なにもわかっていない。ユールはただ、あのとき、ヒュナさんと一緒にいられなくなるのではないかと恐れ、同じことをヒュナさんも恐れていると信じた。だからそうなりたくなくて行動した。
 いまのあたしなら、バカだなあ、と言える。ヒュナさんは魔法の手ほどきを受けているし、胆力とプライドがある。ユールを守らなきゃという決意があり、それは半年も二人暮らしを支えるほど強い。きっとあの場でじゅうぶんに戦えた。別に刃物で刺されたわけじゃないのだ。身体が押さえ込まれていたって魔法は使える。ユールが手を出さなくても、たぶんふたりは無事に帰れた。
 だけどそんなの、このユールに訴えたってしょうがない。そして、それがしょうがないことだなんて、このときのヒュナさんに受け入れられるわけがない。
「なにも……なんにも、よくなんか、ないわ」
 細い声を吐き出し、ヒュナさんはユールを残して自分の部屋へ引っ込んだ。
 そこから、急激にユールの記憶は曖昧になる。
 鍵の掛けられた扉へ、ユールは何度もおねえちゃんと呼びかけ、何日かは無視された。仕方がないから隣の父の部屋へ行って、本棚の目の高さにあった本をひとりで読んだ。いつ眠ったのか、食事は取ったのか、よくわからない。記憶にある場面と時間が結びつかない。尽きたはずの気力や体力をありあまる魔力が勝手に補ってしまう奇妙な感覚がおぼろに残っている。
 あるときヒュナさんが復活した。かつてノージアと魔法の練習をしていたときの、防寒の魔法陣を全身に装備して、ヒュナさんはユールを外へ連れ出した。ユールは相変わらずなのかこのために出したのか、精霊服姿だ。
 意外と落ち着いた様子で、ヒュナさんはユールに魔法の稽古をつけてくれた。稽古と言っても、剣を出すとか使える魔法をざっと使ってみるとか、そんな簡単なことだった、ような気がする。ユールはとっくに呼吸をするように魔法を使いこなしていたので、さほど記憶に残らなかったようだ。
 あたしはここでも氷の壁ばかり作り出す様子をユールの目で見て、ようやく納得する。ユールにとって雪の精霊の魔法は氷なのだ。父と見た氷の壁、ヒュナさんを守った氷の壁、あれが原点。
 精霊の魔法がどんなかたちを取るかはイメージ次第だ。グロウの魔法だって自然の雷とはだいぶ違うし、ゴッドも魔法の炎に熱を持たせていない。あのふたりは技術としてそうしてるんだろうけど、ユールの場合は強烈なイメージがあって氷しか使えないようだった。
 なるほどなあ、とか思っていられたのは束の間だった。家に帰ってヒュナさんは豹変した。いつもの明るさはないながらも、練習中は普通の態度だったのに、急にキレた。きっかけは、ユールがわかってないもんだからあたしにもわからない。
 突然胸倉を掴まれたかと思うとカーペットに突き飛ばされ、泣き喚きながらめちゃくちゃに殴られた。痛みと混乱で、ユールにはヒュナさんの言っていることがまるで聞き取れない。ついでにあたしも痛い。さすがに顔はぶたれなかったけど、どすどすと胸に拳を落とされると息が詰まる。ヒュナさんがどうしてここまで荒れるのか、あたしにはちょっとわかるけど、これはきつい。
 ヒュナさんが何年もかけて、いつか手にするべく積み上げてきたものを、ユールはただの一瞬で我が物にしていた。そのことを、さっきの、ユールにはたいした印象もない魔法の練習で、ヒュナさんは嫌というほど理解してしまったのだ。腹も立つし泣きたくもなるし、正常ではいられないだろう。けど殴られるほうはたまったものじゃない。
 そのうえ、トドメもなかなか、ユールにとっては凄まじかった。
 おねえちゃん、とずっと呼びかけていたのだろう。疲れて息を切らせ、震える拳をほどいたヒュナさんは、
「おねえちゃんて呼ばないで!!」
 悲鳴のように叫んで、ユールがようよう伸ばしていた手を払った。
 このときの恐ろしい喪失感を、ユールははっきりと覚えている。自分がヒュナさんにとって、受け入れられない現実そのものになったことを、理解できないまま刻みつけられている。
 ユールの安らかな日々にはかけらもなかった、力尽くの否定が、それがヒュナさんによってもたらされたことが、ユールにはとうてい耐えがたく、
 バチン! と魔力が破裂するような音をたてて世界が真っ暗に、静寂に、透明になる。魔力感覚も身につけていない、未熟なユールは膨大な魔力でもって、押しつぶすように自分のスイッチを切った。

 似たようなことが何度も続いた、らしい。
 日によって食事があったりなかったり、魔法の練習があったりなかったり、暴力があったりなかったり、無視されたりされなかったり。このあたりは、そういう感じだったということを覚えているだけで具体的な場面はほとんどない。
 ヒュナさんの爆発以来、ユールは相当疲れているようだった。
 昔から言いつけをよく守る子供だったユールは、ここでもおねえちゃん呼び禁止を受け入れて頑張っていたようだが、染みついた習慣をそう簡単には変えられない。思わず「おねえちゃん」と呼びかけては呼ぶなと怒られ、時には暴力もついてきた。これがユールにはなによりショックで、どうすれば元のように接してもらえるか、そればかりが頭を占めた。
 やがてユールは答えにたどり着く。
「姉上、」
 最初は知恵と勇気を振り絞ってくちにした。ヒュナさんが絶対に譲れない、ここいちばんのお願い事をするときの真似。
 この言葉はたしかにヒュナさんに通じた。それから、こう呼びかければ無視されることはほとんどなくなった。この続きでなにを頼んだのかは覚えていないけれど、このときに感じた安心と、もう元には戻れないことへの諦めは記憶に残っている。
 魔力感覚を身につけたのも、実は似たような経緯だった。
 怒っているときのヒュナさんは、ユールが泣くとさらに怒る。もともとユールはちょっと転んだ程度で泣く子供ではなかったけれど、ヒュナさんに向けられる暴力は転んで擦りむく何十倍も痛くて、我慢できたものではない。
 と、ユールは思っている。あたしは一緒に痛めつけられているとはいえ、ユールとまったく同じようには痛くない。おねえちゃん子のユールには、ヒュナさんにつけられる傷が特別痛いのだ。
 その痛みを、ユールは魔力で無理矢理に遮断するようになった。いまもやっている五感を断つ魔法だ。誰に教わるでもなく編み出したやり方はかなり乱暴で、最初はほとんど自力で気絶しているだけのようなものだった。
 それが回数を重ねるうちに洗練されていき、意識を保ったまま感覚だけ断つようになり、無感覚になるとなにも見えないし聞こえないから、それを補って手探りの手を伸ばすように魔力感覚を使い始めた。そして魔力感覚も徐々に高度になっていく。
 目を凝らし、耳を澄ますよりも、魔力感覚ひとつのほうが世界が鮮明に感じ取れた。だけど、感じ取ってうれしいものも楽しいものも、ユールの世界からはなくなっていた。
 ろくでもない瞬間ばっかりが次々に思い返されていく。なにがとも知れず苦しいとか、疲れるほど吐いても気持ち悪いとか、単純にそこらじゅうが痛いとか。あたしとは魔力の燃費が違うらしく、意外と空腹は平気だったけど、そのせいでどんどん痩せた。こうなるとなんにも感じないことの方が安心で、ユールはだんだんあたしの知る反応に乏しいユールに近づいていく。
 もちろん、ヒュナさんの気持ちとかは考える余地もない。それでもヒュナさんの様子だけはよく見ていた。普段は冷たくほったらかして、たまに思い出したように世話を焼いて、よくわからないきっかけで怒り狂う。ユールはそうされることは嫌だったけど、ヒュナさんのように否定して目をそらすことはしなかった。伸びてきた髪を切る乱暴な手つきも、精霊たるものを説く芯のある声も、思い出らしい味わいはなにもなく、ただ事実として覚えている。心を動かさなくなってから、記憶はまた詳細になった。
 その場面は唐突に始まった。
 全身を苛烈な痛みが苛み、倒れたまま指一本思い通りにならない。景色は半分は垂れかかった前髪で、もう半分は片付いたリビングの窓の下。ひどくぼやけて見えるのはとめどなく溢れる涙のためだ。かろうじて続けている呼吸のせいではなく、激しく肩を叩かれることで視界が揺れた。
 痛い。叩かれたからじゃない、どこともなく全部が痛い。どうも名前を呼ばれているようだけど、鼓膜から頭の芯までものすごいちからに襲われていて、聞き取るどころじゃない。
 もしかして、そろそろユールの記憶から目が覚めそうなのかと思った。そのくらい、これまでとは段違いに鮮明に痛い。この痛みは切り傷とも殴られるのとも違う。ヒュナさんが頬を張って、氷色の瞳で覗き込んだ。
「ユール! しっかりなさい! おまえの魔力でしょう!」
 一瞬痛みが遠のく。暴走する魔力にかすかに筋道が立つ。すぐに戻ってきた痛みの向こうから、ヒュナさんは叫び続ける。
「精霊でしょう! しっかりするのよ! ユール! 魔法の使い方、忘れたっていうの!?」
 あたしはやっと気づいた。
 そうだ、このためにユールは記憶を振り返っていたんだ。ユールはこれを思い出そうとしていた。自分の内側に向かって暴れる魔力をどうやって手懐けたか。あたしもそれを知らなくちゃならない。
「あのねユール、魔法はこう、使うのよ!」
 もうなにも見えないけど、力移しに魔力が導かれるのがわかる。ヒュナさんの声にはなけなしの愛情とありったけのプライドがこもっていた。

2023/2/24