おねえちゃんの十一歳の誕生日が来た。
半年も前から、おねえちゃんは誕生日に氷の色のケーキが食べたいとねだっていた。料理はお父さんが上手だけど、お菓子作りはお母さんの得意分野だから、「お母様~」を連呼した。
ユールも氷色のケーキは楽しみだった。一度だけ、雪原をこの家が見えなくなるまで行った先にある、氷の壁を見に行ったのだ。お父さんとふたりきりの、ほんとうに珍しいお出かけだった。出かけるときはいつもお母さんと移動陣を使って小さな町まで行き、買い物のお供をするだけだった。町のひとたちは自分たちを精霊の家族だとは知らないらしく、お父さんとその町へ行ったことはついぞなかった。
どういうきっかけだったのか、なにか理由があったのか、なにもわからない。何歳のころの思い出なのか、覚えていることは細部まで覚えているユールにしては、不思議と曖昧な記憶だった。
この地では穏やかなほうだという、それでも凍てつく吹雪のなか、魔法陣を含む防寒具を身につけても手足はちぎれそうに凍えた。お父さんは魔法陣入り手袋に包まれたユールの手を素手で握って、片時も離さなかった。精霊服の細身のシルエットが子供の目には大きく映った。
氷の壁はそれよりずっと大きくそびえていた。吹雪のためにその全容は見通せず、高さは果てしなく思える。目の前のその壁は、吸い込まれそうに深い青色だった。かすかに光のある闇のように、全部の光を飲んでなお残ったきらめきのように、濃く、深い、青。お父さんの横顔に見た瞳が、氷の秘めた光を写し取ったような色をしていたことを覚えている。
その、氷の青のケーキを、お母さんは無理矢理作り上げた。
「身体に悪いものじゃないし、それほどたくさん使ってないから、まあ、きっと、たぶん、大丈夫でしょう」
ケーキのクリームを青くする材料なんてなく、曰く「よく眠れる薬」で代用したのだ。
濃い青に、きれいに塗ったクリームの艶が輝く、すばらしいケーキができあがった。おねえちゃんと手を取り合ってよろこび、普段よりすこし贅沢な晩ご飯のあと、家族四人で切り分ける。
「十一歳おめでとう!」
くちぐちに交わす言葉に、あたしはどうしても考えてしまう。食卓にはさっき姉弟を写したカメラがある。騎士団のエリートらしく、魔界ではかなり高価なカメラだ。スノークス家のアルバムはヒュナさんが十一歳の巻で最後だった。ヒュナさんの誕生日を家族で祝うのはこれが最後。
そんなことも知らずに、ユールはケーキをちびちび食べながら、
「お母さん、ユールの誕生日も同じケーキがいい」
と甘えたことを言っている。次の冬で七歳、アルバムに収められる写真はその日が最後になる。
「それは今夜の結果を見てから決めましょうねー」
お母さんはごまかすように笑った。あたしにはだいたい意味がわかった。
案の定、ケーキを食べ終わったらいきなりお父さんがテーブルに突っ伏して寝始めた。おねえちゃんもうつらうつらして、お母さんもあくびを噛みながら掛けるものを取りに行った。
ユールも眠いなとは感じている。けれどまだ目が開けられないほどではない。お母さんがなかなか帰ってこないな、と心配になって、部屋に様子を見に行く余裕がある。
おかしい。ユールのなかであたしは思う。おかしい。ユールの魔力量はあたしと遜色ない。ケーキを青くした薬は魔力に作用しているはずだ。だったら、どうしてユールよりもヒュナさんが先に眠ってしまうのか。昔のヒュナさんはものすごく魔力が強かった? じゃあノージア・スノークスはそれを超える魔力の持ち主だったってこと?
「……お母さん」
母親はダイニングまであと一歩のところで、全員分の毛布を抱えて眠っていた。ユールはそのなかの一枚を母に掛け、残りを運んでくるとそれぞれ父と姉にも掛けてやり、自分も椅子の上で毛布にくるまった。終始たしかな足どりだった。
眠気の混じる意識のなかであたしは愕然とする。ユールはスノークス家で最も魔力が弱い。だからみんなが次の雪の精霊はヒュナさんだと思っている。最初の精霊狩りでノージア・スノークスとその妻が死亡するまであと一年もないというこのとき、誰もそのことに疑いを持たない。
飲みかけの、子供用に甘く入れてもらったお茶のカップを手に包む。いい匂いがする。瞼越しにもダイニングは明るく、手のなかのコップはあたたかい。時計の針の音と、家族の寝息だけが穏やかに響いている。
幸せだ、なんて思わなかった。これが、幼いユールの当たり前の場所。
「夢のなかで会ったような気がするの、とセセリーが言った。弾んだ声とは対照的に、少年の頬は青ざめて見えた」
「魔法を使わない、いわゆる家庭的な薬というのも一部では使われている。この場合、魔力に干渉する薬剤との併用は大いに危険である。干渉性薬剤の成分は魔力による副作用の増強を見越して調整するものであるが、家庭的な薬にそのような計算はないのだ」
「だからといって怒鳴り散らしても、人はうまく言うことを聞いてはくれない。やる気を引き出す教育には、相手を気持ちよくその気にさせる、おだての技術が必要である」
ほとんど聞いたことのないドアノッカーの音が、相変わらずの読み聞かせ三昧に水を差した。
「誰かしら」
ぱたん、と閉じた本のタイトルを、ユールは覚えていない。小説だったか技術書だったか、そんなことすらも忘れている。
玄関へ向かう姉にはたしかについていった。扉を閉めた玄関で、男の人がふたり、かしこまって佇んでいた。お父さんよりも年上に見えるふたりは、お父さんよりも地味な騎士団の制服を着て、ブーツも脱がずになにかを話した。
ここでの言葉を、ユールはよく理解していない。大人たちが帰ってから、ヒュナさんが噛み砕いた言葉で教えてくれたことも、はっきりとは覚えていない。さっきまで聞いていた本のほうがずっと難しい内容だったに違いないというのに。
それだけ衝撃的だったんだろう。最初の精霊狩りで両親は亡くなった。ただ、このときはまだ精霊狩りという言葉はない。事故でとか何者かに襲われてとか、そんな言い方をされているはずだ。でもユールのなかには、時間をかけて飲み込んだ、両親は騎士団の任務中に精霊狩りに殺された、という結論だけが残っている。
そこに至るまで、ユールはほんとうに、なんならアルサと会ったころのあたしよりずっと、ただの普通の子供だった。切れ切れの記憶のなかで、両親がいつ帰るのか尋ねたり、前触れなく泣き出したり、昨日までできていたことができなくなったりして、ヒュナさんを困らせた。
ショックを受けたのはヒュナさんも同じはずだけれど、ユールがそんな有様だから塞ぎ込む間も与えられず、頼れるおねえちゃんはあくまで現実的に動いた。
手始めに、騎士団と連絡を取って生活の補助を求めた。最初はお金と食料、すこししてからは外出の付き添いを頼んだ。お母さんと行っていた町に自分たちだけで行くのは怖くて、買い物は城下の騎士団近くの地域へ若い団員に付き添われて行くことにした。
資金援助は長くは続かなかった。遺族年金は天冥の軍ほどしっかりしてなくて、ヒュナさんも初めてのやりくりが上手くいかなくて、収入が必要になった。ヒュナさんは城下に薬問屋を見つけ、お母さんの残した道具で薬を作って納めるようになった。
家では、ユールに家事をはじめとする生活に必要な知識と技術を教えてくれた。ひとりで留守番をすることはほとんどなかったけれど、仕事をしてくれる姉を助けるために、ユールは家事や薬の瓶詰めなど、できることをなんでも手伝った。
雲行きが怪しくなってきたのは、夏頃。当初からふたりの世話をしてくれていた騎士団員が何人も辞めた時期からだ。城下に行っても以前ほど人通りがなくなっていた。ユールはまだ知らないけど、神魔戦争で治安面に最も影響が出たのが北東地区の騎士団周辺だ。放課後の秘塔生たちは姿を消して、騎士団の関係者かどうかもわからない怪しげなやつらが店明かりの減った街を行き交った。
そこへ、数日に一度、ユールとヒュナさんは手をつないで買い物に行く。ふたりで持って帰れる程度の食料と消耗品、薬の材料を買い求める。最初のころ、家まで迎えに来ていた騎士団員は、いつしか城下外の移動陣で待ち合わせることになっていた。
そうして出かけたある日のことだ。騎士団の若い男二人は、ユールたちの数歩後を歩いていた。以前は先導するか、隣を歩いてくれていた。けれどユールにその扱いを求める気持ちはない。ヒュナさんと手をつないでいることだけがすべてだった。
ヒュナさんはすっかり馴染みになった店の前で足を止める。薬の素材を扱う店だが、店内に明かりはなく、扉に閉店の貼り紙がしてある。困った様子のヒュナさんにユールができることはなにもない。遅れてきた騎士団員たちが路地を示して言う。
「薬の材料なら、こっちで露天商が出してることがあるよ」
いまいる道もさほど明るくはないけれど、路地は狭くてもっと暗い。そこへ男たちはさっさと入っていく。あたしにはこの先の展開が読めてしまう。未来のことなどなにも知らないヒュナさんは、ユールの手を引いて路地へと進む。
覗いた路地は薄暗く、露天商の姿はない。けれど向こうの道はそれなりに広そうで、そこまでの近道と思えなくもなかった。
路地の中ほどで騎士団員たちに追いついた。ひとりが振り返って手を出す。
「そうだ、荷物持とうか」
「遠慮します」
「そう言わないで」
「いいえ、このくらい――」
ヒュナさんが胸元に避けた手を、男が掴んだ。強く引かれて繋いだ手が解け、ユールはぺしゃりと地面に倒れた。駆け寄ろうとしたヒュナさんをもうひとりが止め、その手がなにか言いかけたくちを素早く塞いだ。
「騒いでくれるなよ」
ヒュナさんはこちらを、ユールを見ていた。氷色の瞳がいっぱいに見開かれて、白い手がもがきながら伸ばされる。少女の身体が全力で暴れるのを、騎士団員たちは歪んだ笑みを浮かべて押さえつけている。
ユールはというと、強烈な喪失感のなかにいた。姉の手が指のあいだをするりと抜けていった、その感覚ばかりが鮮明に神経を焼いて全身を強張らせた。土の地面についた手は瞬く間に冷えていく。からっぽになった手が開いている心許なさに耐えられずにぎゅっと握られる。
その瞬間、
「ユール!」
耳元で大声で叫ばれたみたいに激しく、脳を揺るがすみたいな大音響で名を呼ばれた。違う。いままで聞こえてなかった。つないでいた手がばらばらになった孤独で見えなかった、聞こえなかったことが一気に戻ってきて、倒れ伏したままだった身体が弾かれたように飛び起きた。
あたしにも覚えがある、魔力が身体を突き動かしているような感覚。ちからが最も大きくなるように動いて満ちあふれるあの感じ。それを必要とする気持ち。全部、これまでユールの短い人生にはなかったものだ。
「おねえちゃん!」
高い声が叫んだ。ユールの心は別のことを叫んでいた。ただ「つれていかないで」と。
感情の波がそのまま魔力の波になって心も体も頭も飲み込んでいく。すさまじいエネルギーを感じてユールが思い描いたのは、いつか父と見た氷の壁。揺るぎなくそびえる果てない青。父の瞳。黒いシルエット。
精霊服が呼び出された、と認識できたのはあたしだけだった。ユールはそれを自覚することなく、精霊としての魔力を振るう。夕冷えの空気を押しのけて氷の壁が立ち、ヒュナさんと騎士団員たちを引き剥がした。氷に押しのけられた男たちがどうなったか、ユールが見ていないからわからない。ヒュナさんはさっきまでユールがそうしていたように地面に倒れ、ユールよりずっと早く立ち上がった。
「……逃げるわよ!」
男に引っ張られて片腕まで抜けていた上着を脱ぐと、ユールに被せる。荷物もなにもかも放り出したまま、ユールの手を掴んで走り出す。道順は正確に最寄りの移動陣までを辿った。あくまで現実的に動きながら、ヒュナさんはずっと、
「どうして」
と繰り返し呟いていた。