窓の外を見ていた。
厳重に木を組み合わせ、小さなガラスをいくつもはめ込んだ窓。そのガラスのひとつから、どこまでも真っ白な雪景色を見つめる。真っ白に見えても、積もった雪の起伏、光の差し込み具合、吹きすさぶ雪の濃淡は一通りではなく、一瞬ごとに表情が変わる。だから、毎日見ていても飽きない。
――毎日?
あたしはそんなもの見たことない。けど、その感覚はあたしの思いそのものとして浮かんできた。
やがて雪の中にちいさく人影が滲む。あたしはそれが誰だか知らない。なのに胸の中にはぱっと光が差したような心地が広がった。
人影は、ふたつ寄り添ってこの家へと帰ってくる。待ちくたびれてエネルギーをもてあました足が無意識に揺れた。ガラス窓に触れる。不思議と冷たくない。不思議、だとあたしは思っているのに、その理由も知っている。家の中が寒くならないように魔法陣が入っているからだ。
手はちいさい。不器用そうな丸っこい指が窓枠にかかる。人影は窓からの景色を抜けて、家の前に回ってくる。知らないのに、見ていないのに、わかる。
遠くで玄関が開く音がした。あたしは踏み台を降りて振り返る。視線の高さはドアの半分にも満たない。背伸びをすればドアノブを回せる、ちょうどいい位置をよく知っている。うまくドアを開けてダイニングへ駆け込むと、反対側の扉が開いた。胸いっぱいの期待が喜びになり、そして声になる。
「おねえちゃん!」
これは、ユールの記憶だ。
ヒュナさんは、家で見せてもらった写真にあった、七歳くらいの少女だった。大きなコートに包まれて、鼻先を赤くして、得意げに笑う。
「ユール、見た?」
「みた!」
ユールは元気にいっぱいに答えて、るんだろうけど、そんな感覚じゃない。答えたのはあたしだ。あたしが、さっき窓の外、はるか遠くに見た吹雪の魔法を思い出して紅潮する。わかんない、へんな感じ。
「すごいでしょ。ねえお父さん、説明して」
ヒュナさん――おねえちゃんの後ろにお父さんがやってきて、コートを脱がせて服の下の魔法陣を取り外した。
冴えた青の瞳にすっきりと短い黒髪。ヒュナさんのめりはりの効いた体型や、ユールのがりがりっぷりからはイメージできない、ゴツくはないけど意外に安定感のある骨太なシルエット。姉弟同様に、騎士団の任務で野外に立つとは思えないほど肌は白い。つり目がちではあるけれど、表情は余裕があって優しげに見える。
このひとがノージア・スノークス! 騎士団のエリート! と、いまは亡き有名人の生前の姿に興奮する気持ちと、説明を楽しみにわくわくとダイニングの椅子に取り付く興奮が同時にわきあがって、どうしたものかわからなくなる。
でも結局、この身体はユールのもので、手足はちゃんといそいそ動き、子供用の椅子によじ登った。
ユールにもヒュナさんにもよく似た顔で、真面目でおおらかな雰囲気のノージア・スノークスが、ヒュナさんとともにテーブルについて、説明とやらを始める。
今日おねえちゃんが習って使った魔法の説明だ。聞いてもまだわからないことばかりで、だからほとんど覚えていない。それでも一緒に聞かせてもらえることが嬉しく、懸命に耳を澄まして、何度も頷いた。
お父さんの指摘におねえちゃんが反論する。お父さんが言い方を変える。おねえちゃんがむくれる。再び言い返そうと語気が強くなるタイミングで、お母さんが見計らったようにキッチンからお茶を運んできた。
「ユー、ありがとう」
お父さんはいちばんにおねえちゃんの前にお茶を差し出す。ユールはお母さんから直接お茶を受け取って、用心深くひとくち、苦くないかをたしかめる。大人のお茶を間違って飲んでしまってから、こうせずにはいられない。
あたしは、ユールの子供っぽい癖を意外に思いつつ、視界に残るユールの母親を観察した。
笑ったときのヒュナさんと共通する面影の女性だった。肩にかかるくらいの暗い茶髪に、薄青の瞳。ユールの睫毛が長くて豊かなのはお母さん譲りらしい。このユールは優しいお母さんだと思ってるけど、初対面の印象は溌剌とか元気とかそういったものだ。ユーというのが名前だろうか。じゃあユールの名前はお母さん由来なのかな。
「大丈夫? そのまま飲める?」
頷くと、目の前にクッキーの瓶が差し出された。おねえちゃんがいつの間にか持ってきていたのだ。
「ひとり一個よ」
いつも言われるおやつのルールだ。種類も大きさもバラバラのクッキーから、ユールは迷いなくお気に入りのプレーンクッキーを選び取った。一瞬、ジャムクッキーもいいなと思ったけど、それはきっとおねえちゃんが食べるから。
案の定、おねえちゃんがジャムクッキーを確保して、お父さんとお母さんに瓶を向ける。
「どうぞ」
「お父さんたちはいいよ。それはお子さんたちに、ってもらった分だから。俺たちは夜のおやつがあるもんな、ユー」
「そうね、やっぱり休日は晩酌よね。じゃあ夕ご飯も早めにしちゃいましょう」
お母さんがダイニングを出ていく。仕事部屋を片付けに行ったのだ。お父さんはご飯の支度のためにキッチンへと向かって、
「ヒュナ、ユールと本でも読んでてくれるか?」
と穏やかな笑みを見せた。
「はい。ユール、お父さんの部屋に行きましょ」
おねえちゃんに手を引かれてお父さんの部屋へ入る。このとき読んでもらった本がどの本だったかは覚えていない。おねえちゃんはいつもいろんな本を読んでくれたから。
「理論上、薬草を煎じずとも効果は得られる。しかし実際のところ、まったくの魔法のみで薬効を得る薬剤というのは製造された例しがない」
「エレーナは夜が苦手だった。夜は冷たく息苦しい。だからこそ夜な夜な街の繁華な地域へと出かけ、賑やかな友人たちと酒と音楽に酔わずにはいられなかった」
「野菜はすべて一口大に切り、火の通りが悪い順に鍋で炒めます。前の野菜全体に油が行き渡り、つやが見られたら次の野菜を入れましょう。おなかすいてきちゃった。それから、ええと、別の鍋にスープを作り、鶏肉を茹でます。えー、わたしならお魚がいいわ」
「雲からは雨が降り、雨は小川をなします。小川と小川は合流して川になり、川は海へと流れます。……この本は簡単すぎね」
「第一章、城下、主都、そして王都。魔界の都市、城下は、円形の城壁に囲まれ、北面の城とその関連施設を中心としている。中央大戦広場から八方に伸びる街道を持つ天界主都とは、その景観は大きく異なっている」
「早く寝なきゃいけないから絵本ね。それははるか昔のこと、ルサ・イルの前の前のうんと前のルサ・イルが子供の頃のお話です」
「魔法陣研究……だめだわ。魔法陣ばっかりで、ほとんど字がないじゃない!」
どんなときにどの本を読んでくれたかを除けば、ユールは驚くほど具体的にヒュナさんの読み聞かせを覚えていた。理解できない会話は覚えてないくせに、理解できないヒュナさんの声は子守歌のように耳に残っている。年のわりに滑らかで迷いのない音読が、目まぐるしく響いては消えていく。
ヒュナさんは乱読家だった。というか、両親、特に母親がそうで、蔵書はとにかく雑多で並べ方もめちゃくちゃだった。料理、絵本、医療、節約、魔法陣、エッセイ、伝記、秘塔の教科書、物語だけでも少女小説からサスペンス、なんか暗い文学、冒険物、子供向けとは言えないロマンスやスリラーまで。傾向といえるのは、薬に関するものが多いことくらい。難しくってあたしには聞かされてもわかんないような専門書も、ヒュナさんはすらすらと読んで、ユールは素直に情報を受け入れていく。
ユールもヒュナさんも秘塔には通っていなかったし、城下や他の街の個人学校にも行ってなかった。教育は全部両親がしていて、年齢順でヒュナさんがなんでも先に習うから、ユールはそのあとを追いかけるかたちだ。
とにかくずっと、ユールはヒュナさんのあとをついて回っていた。とっくに文字をマスターしたヒュナさんから読み聞かせで字を習い、他の多くの物事もそうやって知った。たまにどこか城下じゃない小さな町へ買い物に出かけるときも、どこになんの店があるか全部ヒュナさんが教えてくれた。
魔法もヒュナさんから学んだ。というか、魔法をしっかり教わっていたのはヒュナさんだけだった。両親もヒュナさん本人も、そしてユールも、誰もが次の雪の精霊はヒュナ・スノークスだと思っていた。
ノージアが休みの日、ヒュナさんは魔法の練習をねだる。昨夜遅くに帰ってきてまだ寝ているところを、夕飯後すぐに眠って早起きしたヒュナさんが無理矢理起こす。ユールはほとんど連れて行かれるかたちでノージアの部屋まで来て、姉が遠慮なく父の布団をはぐって肩を揺さぶるのを戸口から見ている。ドアノブは視線と変わらない高さにある。ユールはいま、五歳だ。
「ねーえ、お父さんてば、起きて!」
「うう……まだ外が暗いだろう……」
「そうよ! だからお母さんとランタンを直したの!」
「……そうか」
「あっ、こら、寝ないでよ! ねえったら、ねえ、ねーえ、お父様!」
はあ、とため息をついてお父さんが起き上がる。おねえちゃんが絶対に引き下がらないのを感じ取ったらしい。
どうしても叶えてほしいお願いをするとき、おねえちゃんはお父様、とかお母様、という呼び方をする。この頃、お母さんの好きな小説で覚えた言い回しだ。
「やったあ! まだ寒いから、ユールはうちで待ってなさい。お母さんと朝ご飯の準備しててね」
「朝ご飯は食べてから出ないか」
「だめ! 早く行かないと、せっかくの休日が終わっちゃうわ!」
おねえちゃんがお父さんの手を引っ張って部屋を出ていく。リビングで、お父さんは精霊服を出しながらお姉ちゃんに保温のための魔法陣と防寒具を着せる。ユールは玄関まで見送った。
「じゃあ行ってくるわね!」
「うん。気をつけてね」
連れて行ってくれないんだ、と思ったのはあたしだけで、ユールはここまでついてきたことに満足してお母さんを起こすため部屋に戻った。
もしかしたら、クルス兄ちゃんもこんなふうだったんだろうか。精霊になるつもりのない精霊の子。あたしはいつから自分が精霊になると思っていたんだろう。お兄ちゃんはいつから精霊にはならないと思っていたんだろう。
すくなくとも、ユールの世界でははじめからおねえちゃんが精霊になるのだと決まっていた。
ユールがお父さんから魔法の手ほどきを受けることはなかったけれど、日用魔法陣以外にも、この家では魔法を使う場面があった。薬だ。
お母さんは薬を作るのが仕事だった。いまのヒュナさんと同じだ。これも先に習ったのはおねえちゃんで、ユールは半分はお母さんに、半分はおねえちゃんにこの魔法の基礎を習った。
「ユールは筋がいいわね。将来は薬屋さんになる?」
お母さんに褒められて嬉しかったけれど、ううん、と首を横に振る。
「薬を作る魔法はたのしいし、薬の本もおもしろいけど、ほかの本も同じくらいすき。だから、薬屋さんはいちばんやりたいことじゃないと思う」
十三歳のあたしが舌を巻くほど完璧に、ユールは考えていることをくちにした。やっぱり本をいっぱい読んだら賢くなるのかな。あたしじゃ無理だな。
「そうなの? いちばん好きじゃないなら仕方ないわねえ。ヒュナは? お母さんみたいな薬屋さんになってくれる?」
作業台と別の机で本を広げていたおねえちゃんはにべもなく、
「だめよ。わたしはお父さんみたいに騎士団でいちばん強いひとになるの」
「ええー、ふたりともせっかく教えたのに悲しいわ。ユール、本業の片手間でいいからやってくれない?」
「?」
物は知ってるくせに冗談が通じないのは、いまのユールと変わらない。