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アクアは土煙の中に目を凝らす。本来目に見えないはずの風は、訓練場の表土をその渦に飲み込んで煙のような姿を得ている。ところどころで薄らぎ、またところどころで濃くなる壁を透かして、かすかに反射光らしきものが見えた。
「あっち!」
暴風の余波を受けながらようよう指を差す。ルビィが即座にそちらへ剣を向ける。途端に風の密度が下がった。薄れた土煙を白い光線が貫き、ルビィの剣が受ける。
光線は定の家でやったゲームに出てくるレーザーに似て見えるが、金属系装備で弾き返せる設定のそれとは違い、剣の腹をたしかなエネルギーで押し込んでくる。ルビィにしがみついたアクアにも光線の放つ熱波が届いて、額に汗が浮かんだ。
ルビィはなんとか竜巻を維持したまま脚を踏ん張り、
「ぐうっ、く、っだあああ!」
気合いとともに剣から風を溢れさせて光線を押し返した。ぶわっ、とアクアの前髪を持ち上げた風は、汗のしずくまでさらっていく。
「っしゃあ! はあっ、やったっ!」
「ルビィ! 大丈夫?」
「大丈夫、伏せてて!」
再び暴風の渦を立て直し、ルビィの呼吸は荒くなっていた。アクアは不安に駆られてその袖を引くが、熱を帯びたような声でもって振り払われる。
「なんかっ、いまできたの! 掴んだっていうか、やれそうな感じがする!」
全力疾走のあとのように息を弾ませ、瞳に真っ赤な輝きを灯して、険しい表情のなかで口元は堪えきれないような笑みを浮かべている。アクアはその激しさと、底知れない力強さに思わず見とれていた。爛々とひかる目が次の攻撃が来る方向を探して見当違いの頭上を見上げているのに気づき、慌てて肩を叩く。
「ルビィ後ろ!」
「任せて!」
応じた声はどこか楽しそうにすら聞こえた。肘の骨で胸を突かれ、アクアは風に巻かれてマントの上に倒れる。マントの裾を踏まれたまま、ルビィは足元は軽やかに、上体は重々しく、アクアを飲み込もうとした風を剣で巻き取るようにターン。右脚をドンと踏み込んで一筋に集中した風を放つ。
「ウィンディ!」
今度は熱波も届かず、光線は正面から風に押し返されて霧散する。風はさらに光線の出所を突き抜けて拡散した。そのときには男はさらに上空へ逃げている。クイードの時と同じだ。ルビィの魔法は狙うべき敵影をかき消してしまう。
さっきの魔法に気を取られたか、竜巻も消えてしまった。風の音がなくなり、男の白い翼の羽ばたきがやけに威圧的に響く。竜巻の壁は轟音を伴って怖かったが、それでもルビィに守られている安心感があった。アクアは座り込んだままルビィのマントの端を握って震えをこらえる。ルビィがその姿をちらりと見た。
「いいよ、そうしてて。あたしが守るから」
ひとつ、力強く頷いた横顔が眩しくて、アクアは手をかざした。その指に掴んでいた魔法陣を差し出されたものと思ってか、ルビィの小さな手がぐいと押し返す。
「いらない。なんとなくわかったの、その陣使うと魔力がどう動くか。だから自分でやってみる。ダメだったらそのときちょうだい」
意外なほど冷静なくちぶりに、アクアは首肯するしかない。手を引き返したときにはルビィは正面を向いていた。真っ直ぐに構えた剣を中心に風が溢れて、帽子に押さえられた短い茶髪を持ち上げる。
「風よ。その偉大なる力を我に」
なにか思い出そうとするように目を閉じる。風が強くなるとともに声が低くなって、アクアには呪文の続きが聞き取れなくなる。
「風の――――ディが――る」
ルビィの呪文はルサ・イルの呪文だ。いまルビィが使おうとしている魔法の、道筋を引いたのはアクアでも、その手を取って導いているのはルサ・イルだ。
そう思い至った瞬間に轟く風の音が消え、どくん、と鼓動がやけにはっきりと響いた。力任せな風が気圧を乱して、一瞬耳を塞がれたらしい。すぐに轟音が戻ってきて、胸の奥に生じた奇妙な感覚ごとアクアを揺さぶる。
直接には手を貸していなくても、ルビィはアクアの陣で魔法の使い方を体得したのだ。だからアクアだって、ルサ・イルと同じようにいまはルビィの強さの一部だ。そう思っても、どこかで納得がいかない。手のなかの未使用の魔法陣が熱を持ったように存在を主張する。
「これを使えばルビィはもっと強くなれるのに」
暴風に紛れて自分の耳にさえ届かない言葉は、くちをついて出たわりにしっくりこなかった。
◇
アクアの陣を使ううちにだんだんわかってきた。あたしの魔力の輪郭、みたいなものを探してるのがよくない。魔力ってたぶんそういうものじゃない。カナリャの魔力は境なんてないみたいに薄く広がっている。だから普通に魔力を動かそうとしても、自分のだと思ってた分にカナリャのも混じってて思い通りにならない。
でも魔法陣は使える。舞台裏の軍人たちも魔法陣は使ってたし、目の前の天界軍の男も魔法陣を使ってる。羽まで自在なのはなんでかわからないけど、それだけ魔法陣は魔力を強力に導いてくれる。
とにかく、魔法陣なら大丈夫。だったら、魔法陣と同じように魔法を使えば、きっとできる。
「風よ」
アクアが書いてくれた陣は、魔法陣にしては単純なものだ。魔力が出ていくときの出ていき方しか指定してない。
「その、偉大なる力を我に」
普段の魔法がホースで水を出すように魔力を消費しているとしたら、アクアの魔法陣はバケツだ。ごっそり、一回で全部。
「風の精霊、ルビィ・ウィンディが命じる」
魔力を底から持ち上げる感覚。あの感じを思い出してなぞる。アルサの呪文が魔力に向けるあたしの意識を研ぎ澄ます。
「ウィンディーーーッ!」
声を張って、脚を踏み込んで、剣をかたく握る。きっとそんなものないんだろうけど、一気に風になる魔力の反動で体ごと吹き飛んでしまいそうに思える。それに全身で立ち向かって、あたしが風上になる。
風は渦を巻いて地面をえぐり、舞い上がった土と草が本来目に見えないはずの風の姿を浮かび上がらせる。北の城壁まで吹き抜けた感覚があり、剣を肩へと引いて流れを引き戻す。
開けた視界に男の姿はない。
「ルビィ!」
アクアが腕を引いた。首を捻ると白い翼が見え、目のくらむような光線が走った。
「っだあ!」
剣で受け、遅れてついてきた風の渦が光線のエネルギーを飲んで噛み砕く。壁にできないかと地に聳える竜巻のかたちに持っていったが、剣を離れるとどうも扱いづらい。かろうじて渦を維持しているところへ今度は砲弾のような魔力のつぶてが降ってきた。
「アクア隠れて! あたしの後ろ!」
「か、隠れてって、きゃあ!」
渦の脇を抜け、薄いところを貫いてくるのを剣を振って打ち落とす。重さを操れば剣は負担にならないし、この程度では傷ひとつつかないけど、そっちに気を取られて余計に竜巻が不安定になり、すり抜けてくる弾が増える。
「いっ……た!」
意識があっちこっちしたせいで手元がぶれた。弾いたつもりの一発が左手の甲に直撃した。見た目には想像できないような衝撃に剣を取り落としかける。それだけは意地でも嫌だ。痛む手を気合いだけで握り直し、でも、もはや一発ずつ打ち落とせる状態ではないことを直感した。
ためらっている暇はない。身を翻し、マントを広げ、うずくまるアクアに覆い被さる。背中と後頭部を立て続けに魔力のつぶてが襲う。
「ルビィ!? 大丈夫!?」
「痛い! めっちゃくちゃ痛い! でも、」
竜巻はまだ消えてない。あれがひとつのエネルギーの塊になって思いのままになる様を思い描く。それができる力ならある。アルサが教えてくれた。あたしは強いって!
「見ててアクア。やり返すから」
「やり返すって!?」
地に着いた剣を立て直し、竜巻の姿の消えた背後を振り返る。翼を広げた男の手にはコンパクト。隙のない目が静かなプレッシャーとともに見下ろしてくる。魔力の砲弾は止んでいた。これまでと同じなら次は光線がくる。いくらあたしの魔法より省エネといっても、あの光線はそこそこ魔力を注ぎ込む必要があるのだろう。砲弾はそのあいだ、時間を稼いでるのかもしれない。
すう、と息を吸う。吸いきって風が止む。砂粒やちぎれ飛んだ草葉が地に落ちて風の姿は消えたけれど、魔法はまだ続いている。
腰の高さで剣を構え、男の動きに集中する。翼が平らに寝て男を地に下ろした。また飛び上がってかわすつもりかもしれないけど、次は避けさせない。
なにも見えない空中に風を集める。強いエネルギーを無理矢理そこに留めれば、撃ち出すスピードを高められるはず。息を吐きながら風になった魔力を集中して、集中して、集中して、
「っ」
吸って、吐く。瞬間に、男の背から翼が消えた。さらにコンパクトを畳んだまま放り捨て、同時に、
「ルビィやめろ! 無理に魔法使うな!」
「やめ! 相手は投降しちゅう!」