高飛車に顎を上げ、足を組むような素振り。右手にナイフをちらつかせ、それで意識を反らしたつもりか、反対の手がボリュームたっぷりのスカートから何かを取り出そうとしている。
ゴッドはその半端なやり口への評価も込めて吐き捨てた。
「媚びの加減がなってない」
「なるほどね。勉強になったわ」
心にもない台詞とともに歌姫の左手で魔法陣が閃き、次の瞬間、世界が真っ暗になった。
同時にバチバチバチ、と何か引き裂かれるような音。ユールが魔力感覚に切り替えようとしている。ゴッドもカナリャの居場所を探るように魔法の火を広げ、それでも何も見えないことにはっとなる。
「照明じゃない、これは」
「こういう目眩ましよ。眩しい系しか知らなかった? 新作なの」
前触れなく視界が戻ったときにはカナリャは目の前だった。振り下ろされたナイフを咄嗟に剣で受けたが、スピードを優先して重みを削いだ剣では、カナリャが両手で握る刃を弾き飛ばすには至らない。
軽いはずの体は自重に加えて羽の推進力でもってナイフを押し込んでくる。その重さを保ったまま、カナリャは片手で衣装の胸元からペンダントを掴み出した。
ゴッドは一切容赦なく、カナリャの顔面を狙って剣から炎を走らせる。ゴッドの魔法はほとんど光と魔力への働きかけが主で、見た目に連想される高熱は伴わない。それでも正面から浴びせれば人間は怯んで反射的に顔を庇うものだ。
が、相手は仮にも冥界軍人、花のかんばせをオレンジ色に染めたまま目を細め、ペンダントとナイフの魔法陣を両手で同時に発動した。
右手、ナイフの魔法陣はゴッドの魔法を瞬間的に弾き、左手、ペンダントの魔法陣はカナリャの魔力を矢のように凝縮させ、視線で誘導、ウインクで発射、立て続けに二発をユールへ撃ち込む。
バチバチバチバチ! と五感を断つための音が連続して響き、ゴッドはカナリャの腕を遮二無二押しのけてその下をくぐり抜けた。
「ユール! 大丈夫か!?」
駆け寄った先で、ユールは剣も氷の壁も消し去り、呆然と膝を突いていた。顔は持ち上げた手の陰になっているが、内から青くひかる瞳ははっきりと見える。視線はなにか見失ったように床へ落ち、厚みを増した涙の膜が呼吸に揺らいでいた。魔力はなおも激しく音をたてて弾けている。
白い手の甲に二本、子猫がひっかいたような傷があった。できたての傷口は細く、しかしみるみるうちに端から赤く膨らんで血の珠をこぼす。同時に豊かな睫毛の先端からも透明なしずくがぽたりと落ちる。
ゴッドはその光景に一瞬だけ動揺し、すぐに振り向いて背に迫っていたカナリャの脚を払った。倒れる前にふわりと浮き上がっていくカナリャの、胸元に揺れるペンダントを掴む。
「っ、ちょっと! なにすんのよっ!」
無理矢理にでも飛び上がっていくかに思えたカナリャは瞬時に浮上を止め、地に足を下ろしてゴッドの手を引き剥がそうとする。その寸前でゴッドは手を引き、一歩距離を取って剣を構えると炎に変えた魔力をカナリャを追い払うように振るう。
ごつ、と今度はそれなりに重さを持たせた剣の中程をナイフが受けた感触があり、そこで発動した魔法陣が魔法による衝撃をいくらか和らげる。カナリャはそのわずかな隙を活かして魔力の流れを外れ、再び中空に登場した。
「信じらんない! 女の子のアクセサリーを引きちぎろうだなんて、いったいどういう教育受けてるわけ!?」
憤る台詞のあいだにゴッドは背後のユールを一瞥した。さっきの姿勢のまま動いた様子はない。痛みから逃れようとあがく魔力の音が延々と響いている。
自分に解決できるものではないと判断した。できるのは、痛いのが嫌だから魔力感覚を使うのだと言ったユールに、これ以上の負傷をさせないことだけだ。そのうえで歌姫の身柄を確保する。そのためには少ない動作で遠距離攻撃が可能なあのペンダントを奪っておきたかったが、さすがに軍人カナリャーナーミがそんな基本的な策に反応しないわけがなかった。
どころか、彼女はアクセサリーを引っ張られて抵抗する女の子を演じてさえいる。筆頭広報官、歌姫カナリャーナーミ、冥界軍のヒロイン。その演技が覆い隠すものに、しかしゴッドも気づいている。
「ルビィとユールは最初から無力化できてたってことか」
「……質問に答えなさいよ。どういう教育受けたかって聞いてんのよこっちは」
ぴくりと跳ねた眉は怒りの表情。ナイフを持ったまま、距離があるとはいえ腕を組んで顎を引く姿勢には警戒が滲んでいる。図星というほど急所ではないが、思惑を言い当てたことには違いない。さらにカナリャの詰問を利用する形でゴッドは畳みかける。
「俺を教育したのはシュレイン・サンダーだよ。ここまでされたら分かってきた。お前、レンさんの客だったんだろ」
場違いなウインクが飛んで魔力の矢がゴッドの頬を掠めた。威嚇、というかほとんど当てつけと読んで避けなかったゴッドに、カナリャはチッ! と顔に似合わない舌打ちをする。それから一度顔を伏せて深呼吸、優雅で可憐な振る舞いを取り戻して、心細げに髪の一筋を指に絡めてなにかを迷う。
「……そうね。わたしが言っておかなきゃ、彼が信用してもらえないものね」
こつんと白いブーツが地に降りる。壁際からゆったりと、カナリャは踊るように歩き、歌うように語る。
「わたしの母は軍人で、戦死した。でも死後処理をしたのが天界軍の死神だった。それもフェミーエ保険相談事務所の調査で分かったことよ。当時はわたしも子供だったし、パパは当てにならないタイプだったし、プロの手を借りなきゃ戦死認定も取れなかったわ。普通に成功報酬取られてるから特別に恩を感じてるわけじゃないけど、社長はいろいろ調べて手続きも全部やってくれた。おかげで不自由なく生きてこうして好きな仕事をしてきた。その間のいろいろは省くとして、社長さんの跡を娘が継いで社員もいるのは知ってたから、天界公演にご招待した。別の子が来ちゃったけどね」
「天界での事故も、さっきのも自作自演か? なんのために?」
「それはあっちに聞いてくれない? わたし、もう時間ないから」
歩みは部屋の中央、移動鏡の前で止まった。ゴッドはカナリャの半分の歩数で鏡の前へ。カナリャが振りかぶったナイフを剣先で受けて弾く。
ナイフは信じがたいほどあっさりとカナリャの手からすっぽ抜けた。その強烈な違和感が作った一瞬の隙に、カナリャが頬に息のかかるほどに接近する。笑んだ唇に嫌な予感がした。歌姫との間に剣を立てて距離を取る。
しかしカナリャの気迫も生半可ではない。白い手袋のレース模様から浮き上がるように魔法陣が光り、両手が怯むことなく剣の刃を掴んだ。腕力でも体重でも差は歴然とあるのに押された剣は傾いていく。唸るような羽ばたきが、ユールの苦しげな魔力の音をかき消す。
「っ、そんな魔力……どこから……!」
「自前よ。パパよりママに似たの……!」
カナリャは身を乗り出して迫ってくる。すべてのちからが剣にかかっている。それならばと、ゴッドは剣を手放した。
「あっ」
短い悲鳴とともにバランスが崩れる。ゴッドは倒れ込みそうになったカナリャの手首を掴んだ。捻り上げようとして、寸前に思わぬ方向へ引かれて指が緩む。その手首を今度はカナリャが掴み返した。血流が止まるほど握りしめられて指先が痺れる。もう一方の手が爪を立てて飛んできたのを、叩くように手首を捕らえてなんとか阻む。
右手と右手。左手と左手。地上と空中。異常な推進力と自由な姿勢で歌姫に分があった。ゴッドは剣も足元に転がして、引き合っているのか押し合っているのかも分からなくなる膠着状態で、ただ骨の軋みに耐えるしかない。
取り戻す機会も失った剣に、そのときふと意識がいった。グロウは怒るかも、と頭を過ぎった不要な躊躇いは消して、ブーツの側面でひと思いに精霊の剣を蹴り飛ばす。ガラガラガシャン! と移動鏡の脚から枠へ、振動と音響が走る。
カナリャが振り返りたがった刹那に力を抜くとものすごい圧に押し倒されそうになった。それをすんでのところで堪えて、羽が逆方向に歌姫の体を引っ張るのを待つ。この切り替えぶりがすごいのだ。身体能力を超えて強制的に理想の体重移動を成立させる羽のコントロール。ゴッドはここまで見せつけられてきたカナリャの技術を信用した。それがカナリャの無意識にまで染みついた、アイデンティティの根幹をなす能力だという自らの把握を信じた。
手首を掴み、捕まれたまま、ありえないバランスで倒れる力と引く力が拮抗し、次の瞬間、引く方に傾く。ゴッドは待ち構えていたそれに全力で乗って、だん、とカナリャの背を鏡に叩きつけた。右手がついに解放され、血の巡ってくる感覚が逆に動きを鈍らせる。ひとつ噎せたカナリャは逃げていく手には目もくれなかった。
手袋に包まれた華奢な手がゴッドの胸倉に掴みかかる。痺れの残る右手でそれを払いのける。危険を察知して取ろうとした距離を、歌姫は恐るべき羽の働きでぐいと詰め寄った。
笑みを含んだ吐息が頬にかかる。ゴッドはそれを遮るように手を出して、
「っ!」
失策を手のひらに感じた。
右手を取って返し、カナリャを捕まえていた左手も引き戻す。そうせずにはいられなかった。検分するまでもなく右手のひらには何かがある感覚があり、それは左の指で触れると冷たく硬かった。ほんの数列、薄く鋭い鱗が重なり合って並んでいる。形をなした歌姫の魔力だ。
急に嫌な予感に襲われて、蹴り転がした剣を拾い上げる。手のひらの違和感は、何か刺さっているのに痛くないような奇妙な感覚から、自分の手に他人の指が生えているような気持ち悪さに変わり、同時に鱗が毛の逆立つように立ち上がって開いた。
動かしているのはカナリャだ。また皮膚に沿うようにぺたりと寝ていくのもカナリャの操作。されているほうは気味が悪いといったらない。
「あはっ、ふふふっ、まーあ警戒心の強いこと。女の子にそういう態度ほんっとよくないわよ。反省して? それと、どうかしら。やっぱり気づかない方がおかしいと思わない?」
高笑いというには上品な、強かながらも無邪気な笑い声。この期に及んで、鏡に映るラベンダー色の瞳はいたずらっぽく上目を遣う。
カナリャの言うことはもっともだった。これを――彼女の言うところでは――植えられて、魔法を使うまで異常に気づかないなんて考えられない。力移しで得るのとは違う、魔力に根を張って実体となり元の持ち主の支配下を外れない他者の魔力など、異物中の異物だ。あるとすれば本人の魔力量が大きすぎて、植え付けられた魔力が相対的に小さく思えるということか。実体の大きさが魔力量と一致するとも限らないが、あのワニの尾を引きずって平然としていたユールはやはり魔力の桁が違う。
感心とともに、そのユールでさえ慣れ親しんだ魔法が使えないということにぞっとする。
同時に、精霊であるゴッドよりずっと持ちうる魔力の少ない広報部隊の軍人たちがあの羽を受け入れていたことが、確たる忠誠心の賜物だったことを理解した。
そして、歌姫カナリャーナーミは今まさに、その忠誠と憧れを裏切ろうとしていた。
「冥界へ行くって言ったの、あれは嘘。わたしは人間界へ行くわ」
「まだグロウとアクアにはこの魔法をかけてないだろ。その鏡の先じゃ逃げ切れないぞ」
「知ってる。精霊の家なんでしょ。そんなところ行くわけないじゃない」
カナリャはまたもスカートから魔法陣を抜き出した。移動鏡に押し当てると、上部に埋め込まれた石が魔力を受けて輝く。
「行き先を変えられるのか?」
本来、ここから冥界に逃げるには管理人室で冥界の接続先に連絡を取っての調整が必須だ。
「陣書きにはコネがあるの。気になるならあとでゆっくり調べるといいわ。そうだ」
指先がペンダントを弄ぶ。ぱちぱちと、長い睫毛が瞬きに揺れる。いつウインクが来るか、自分ではなくユールを狙われたら、と否応なく緊張が高まる。
カナリャはしかし、なにか諦めたような、それでいて開放感に心を弾ませるような、不思議とリラックスした雰囲気で、楽しくてたまらないみたいに笑う。傲然さも勝ち気さもそこにはない。既視感があるのは、ステージで歌い始める寸前を思わせるためだった。
「彼に伝えておいて、荷物はいらないって。それじゃ」
ぱちん、と、ウインクに弾き出された魔力の矢は、魔法陣を書いた紙に突き刺さった。そこから凝縮されていたエネルギーが火を噴いて小さな紙をあっという間に包む。ゴッドは魔力の炎をもってそれを上書きしようとしたが間に合わない。
そして魔法陣が燃え落ちるよりずっと早く、歌姫の姿は移動鏡に消えていた。地下室は静寂に包まれて――いなかった。
ずっと響いていたユールの魔力が感覚を断ち切ろうとする音。ゴッドは一度、魔法陣の燃えかすに読み取れるものが何も残っていないことを確かめると、剣を背中の鞘に戻してユールの手を取った。
「立てるか? せめて騎士団まで戻るぞ」
引き上げるとユールはふらりと立ち上がった。その指先が、青白い顔色に比してなお冷たい。