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天界軍の死神はどうして騎士団の訓練場へ向かったのか。休暇日で誰もいないと踏んだからか。しかしその先は城、少数でほとんど戦闘力はないといえども警備もいる。訓練場から外の通りへ出るつもりだったのだろうか。その先を逃げおおせる手段は。あの天界軍の軍服で魔界の城下をうろうろして、いくら騎士団にやる気がなくともリスクを感じないわけがない。
加えて、男はせっかく攫った歌姫が逃げるのも追わなかった。殺すか連れ去るか、脅して何かを要求するか、どんな目的であっても現時点では果たせてはいないであろうに。
目的。天界の軍人が冥界軍の歌姫を襲う理由など、十中八九は復讐だ。しかし男の行動は復讐心のような激しさとは一線を画している。あくまで冷静に、軍人として職務をなすかのような迷いのなさ。単独で目立つ軍服を晒しての襲撃であるという点はそれに反しているが……。
ゴッドは男の目的を捉えきれないまま、城の玄関ホールでカナリャに追いついた。ホールの片隅で、カナリャ――とユール――は城の若い職員を捕まえて何事か訴えていた。
誰にどう呼びかけるのが適切か、ゴッドが決して遅くはない判断を下すより早く、カナリャが振り返った。潤んだスミレ色の瞳が輝き、硬く緊張を帯びていた頬がわずかに解ける。
「ああ! 来てくれたのね!」
目的と言えば、この女の目的も不透明だ。
「今この人には話したんだけど、天界軍に襲われたことを本部に報告するわ。それでわたしは一旦冥界に逃げる。部下たちは、心配だけど広報一筋ってわけじゃないから大丈夫よ。うちの補佐、結構長いこと前線に出てた人だし、きっと応戦してくれる。わたしに何かあった方が彼らの責任問題になっておおごとだし」
動揺のためか、カナリャは落ち着きのない早口で愛らしい声を震わせた。言い訳めいたことを言ったと自覚したのか、ふいに言葉を切るとひとつ息を吐き、
「薄情だと思った?」
仕事の話をしたときの、意志の強い、冷たいほどに張りのある声を取り戻す。
ゴッドはさりげなく首を巡らせ、ユールと、居心地悪そうに留まっている若い職員と、玄関ホールの反対側や二階で清掃や立ち話をしている人々に目をやった。
「いや、そういう立場なのは分かってる。移動陣なら地下だ。案内は俺たちが」
ユール、と呼びかけて廊下への扉を押す。暗に追い払われた職員は、重荷から解放された安堵も露わに一礼して持ち場へと駆け去っていった。
三人で扉をくぐり、足早に歩き出す。先頭はユールに行かせた。痩躯に不釣り合いな太い尾が床を擦る。静かな廊下にカツカツとヒールの足音を響かせながら、カナリャがレースの手袋をした手で胸を撫で下ろした。
「ありがとう。精霊が付いてきてくれるのは助かるわ」
「別に城は精霊の領分じゃない。道が分かるだけだ」
「……そう。わたしの警護が仕事だから、それだけよね」
ゴッドはその物言いを、殊勝すぎる、と感じる。疑いは表には出さず、けれどなんの違和感もないような無反応は避けて、カナリャを見る視線に居心地悪そうな気配を乗せる。
彼女は横目でゴッドを窺うと、
「分かってるわよ。柄じゃないこと言ってる。でも、わたしだって、まさかこんなこと……」
爪を噛もうとして、手袋に唇を触れて止める。動揺の仕草。それで説明がつくと、ゴッドは思わない。
歌姫には裏がある。だがそれがどういったものかは、まだ分からなかった。
考えるのは、カナリャがユールになにを語ってきたか。ユールは魔力に異変があるとは言わなかった。ゴッドが尋ねなかったからか、気づいていないのか、それともルビィと違って魔法の影響はないのか。まだ問い質すことはできない。すれ違う女性職員の会釈に、ユールは機械的な会釈を返し、カナリャはうつむく。
柔らかな金髪の影になった横顔は、ステージでベテランの余裕と貫禄を見せていたときとは打って変わって、憂いを帯びて少女めいた可憐さを醸している。足取りも舞台裏を闊歩するときとは異なり、急かされたような早足ではあるのに今にもしなだれかかってきそうに頼りない。
カナリャーナーミは他の広報官と違って年齢を明かしていない。演劇を主とする広報官などは、それこそ実年齢をごまかしてまで世代を明確にして、あの英雄の戦いを間近に見てきた、と語ることで大衆を惹きつける。それに対して歌姫は、守りたくなる少女と憧れのお姉さんを両立させて、冥界軍を構成する男たちをなるだけ広く多く魅了している。
その技術で隠したいものは何なのか、ゴッドはカナリャの意図に思いを巡らせながら、地下への階段を降りていく。
この先は管理人室に一名、中年の職員が詰めているだけで、交代のタイミングでなければ人の出入りはないに等しい。その機をゴッドは逃さなかった。
「ユール、追っ手が来たら困るから剣出しとけよ」
ユール仕様の呼びかけはどうしてもわざとらしさが抜けないが、歌姫の観察眼を信用してあえて丁寧な言い回しを選んだ。ユールは、
「分かった」
と答えるなり、右手に細身の剣を呼び出す。その速さ、反応、仕草のどこにも、ゴッドが見て取れるような異変はない。あろうがなかろうが関係なく、ゴッドは決めていた台詞をくちにする。
「どうしたユール、魔力――」
「あっ、あれは? 誰かいるの?」
ゴッドの言葉を遮り、廊下の先、管理人室の明かりを指してカナリャがユールの肩をつついた。
やはり。カナリャはユールのコミュニケーションの性質を理解している。ゴッドがそれを利用しようとしたことを察知して、自分が先に利用しようとしている。
危機感が瞬時に膨らむ。しかし割って入る間もなくユールが答えた。
「移動陣の管理人室だ。管理人が一名常駐している」
「ふうん、ひとりなのね」
言って、カナリャがすいとユールの前に出た。そこからごく自然に、いかにも追い詰められたところから希望を見出したように、軽やかに管理人室の前へ駆ける。
「待て!」
ゴッドは淡々と歩くユールをカナリャとは反対側から追い越し、管理人室の小窓からカナリャを引き剥がした。細い体は抵抗なく一歩下がり、その肩越し、管理人が机に突っ伏しているのが見える。小窓へと伸ばしたまま脱力した手は、シャツの袖の中まで硬そうな獣の毛に覆われていた。
「おっそ」
カナリャの嘲るような声。衣装の大きく開いた背中からガラスのような羽が生えて、ばしっ、とゴッドの手を払う。カナリャは羽ばたきの推進力も得て一歩で移動陣部屋の扉に取り付き、なにか魔法陣をドアノブの辺りに貼り付けた。ドンとくぐもった音がして扉は半壊、大きな穴をカナリャは易々とくぐっていく。
「ユール、歌姫捕まえろ!」
ゴッドは背負った剣を抜き、移動陣部屋に飛び込みながら声をかける。が、果たしてユールの魔法に支障はないのだろうか。
不安を払拭するかのように、目の前を氷が走った。戸口から部屋中央の移動鏡を飲み込み、背びれが開くように立ち上がった氷塊を、カナリャは飛び上がって避ける。床の移動陣が氷に覆われ、自身も天井近くへ追いやられて歌姫らしからぬ舌打ちが出る。
「わたしの演出に従わないなんて大した根性ね」
氷の尾根に隠れて急降下する羽根が見えた。ゴッドは先回りでユールの前に出て、カナリャの飛翔の先端を剣に受ける。硬質な音を立ててぶつかったのは大ぶりのナイフだった。
「ユール、魔力におかしいとこないか?」
ナイフはおそらく冥界軍の支給品だ。規格に当たりをつけつつ、仕込まれた魔法陣を警戒する。同時進行で投げた問いには即答で、
「ある」
と短く返ったとともに、
「!?」
突然視界が横にぶれた。石の地面に叩きつけられそうになったところをどうにか転がって勢いを殺し、それでも起き上がった体には岩がぶつかってきたような衝撃が残る。カナリャを見上げるが、ナイフを片手に持ち替えて浮かぶ姿から、魔法による攻撃をした様子は窺えない。ユールに目をやると、彼も視線の先に歌姫を捉えている。
そして、その足元に長く太い尾が半円を描いていた。さらに尾の先が、小さく持ち上がってぱたんと落ちる。動いている。ずっと、背骨の延長線のように真っ直ぐ垂れ下がり、引きずられているだけだった尾が。
あれに打たれたのか。
「ふふん、今のはなかなかイイ感じだったわよ。でも不意を突く演出って、一公演一回が限度よねえ」
「そういう魔法かよ……」
カナリャは満面にしてやったりの笑みを浮かべ、空中で肩を竦めるポーズを取った。
「わたしの魔力が根っこ張ってるんだもの、わたしの意思で干渉できるに決まってるじゃない。精霊って、魔力がおっきすぎて鈍感になっちゃうの? 普通植えられたときに気づくわよ。気づくといえば、あんた城まで来たときにはわたしのこと疑ってたでしょ。どうして? 今後の参考に聞かせてほしいわ」