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土を均した校庭は端まで行くと雑草に覆われていて、さらに緑の濃い生け垣で行き止まりになる。それに並ぶようにもうすこし背の高い木の柵が立っていて、そこを越えれば騎士団の敷地内だ。柵の向こうは物置かなにかの小屋が立っていたり木立になっていたりする。向こうにあるはずの訓練場はよく見えない。そして、
「入り口、どこ?」
生け垣にも柵にも切れ目や扉が見当たらない。そこらへんをきょろきょろして、仕方ないもう乗り越えるか、と覚悟したとき、アクアにマントの端を引かれた。
「あそこ見て」
指差した先には、踏みにじられたような生け垣と壊れた柵があった。
「誰だかわかんないけどありがと」
破壊魔に感謝しながら騎士団敷地へと入り込む。柵に対して斜めに並ぶ備品庫か更衣室みたいな小屋の間を抜けると、ぱっと視界が開けた。
最初に目に飛び込んできたのは白銀の軍服、ユールの真っ黒な精霊服。両者のあいだにこちらも精霊服姿のゴッドが割って入る。軍服の腕から青白い光が放たれ、ゴッドが炎で吹き払う。ユールは逆方向から軍服の背後へ回り、確保しようと……するかと思いきや、まっしぐらに城へと駆けていく。草の上にワニの尾を引いたあとが残る。
「どうなってるの!?」
あたしは軍服と距離を取ったゴッドに並びつつ、とりあえず剣を抜いた。カナリャの姿はない。相対する軍服の男は長い銀髪を複雑に編んで、落ち着いた浅葱色の瞳で注意深くこちらを見つめている。
「歌姫は先に城へ逃げて、今ユールが追いかけてったとこ。けど、なんかおかしい」
ゴッドはあたしとアクアを横目にたしかめると手短に状況を告げた。それを聞いてアクアが顔を曇らせる。
「やっぱり、ユールも魔法が使えないのか?」
「やっぱり? も?」
いきなり嫌なところに食いつかれた。あたしはアクアを背中に隠して、ゴッドを押し退けるように前に出る。
「もしかしたらユールは魔力感覚使えないかもってグロウが言ってた。だからゴッドはお城のほう行って! ここはあたしたちがなんとかするから!」
「ルビィ!」
アクアからは非難めいた声が、ゴッドからは疑いの目が飛んでくる。敵を警戒する余力だけでこちらを射る目を、あたしはまっすぐ見つめ返した。
「あたしなら大丈夫、戦える。でもユールは魔力感覚ないとだめでしょ?」
「半分ほんとって感じだな」
「大丈夫だってば。信じていいよ」
「信じるって何を」
打てば響くように、即座に冷静な声が返ってくる。あたしもそれに追いつこうと言葉を重ねる。
「あたしの、精霊のプライド」
「じゃあ信じるしかねーな」
結論も驚くほど早かった。一分の逡巡もなく、ゴッドは背中の鞘に剣を納め、
「相手は仮にも天界軍だ。ちゃんとした殺傷の道具を持ってる。でも魔力量なら圧倒的にこっちだから、出し惜しみすんな」
と、流れるように言って敵に背を向けた。あたしは慌てて軍服の男に向き直る。
男は手首の時計を見ていた。顔を上げてもすぐには動かず、足音がしなくなって明らかにゴッドが敷地を出て行ったほどになって、ようやく手がすいと持ち上がった。
握られているのは銀色のコンパクト。
「魔法陣だ。紙じゃなくて、通信鏡みたいに何度も使えるような」
アクアの忠告に頷き、剣に魔力を集中させる。意識だけじゃうまくいかなくて、くちのなかで呪文を唱えた。いつでも迎撃できる、と思った瞬間、男が手のひらをこちらに向けた。ほとんど間を置かず、青白い光線が走る。
「ウィンディ!」
呪文の最後をくちにして風を呼ぶ。狭く絞った風に光がぶつかって、数秒押し合った末に霧散する。風を解くと熱の余韻が鼻先まで届いた。グロウの魔法やクイードの光輪とは感触が違う。
「これって天界軍が大戦で使ってる武器?」
「ルビィ、また来る!」
その場から一歩も動かず、やけに落ち着いた所作で男がふたたび手を上げる。
「ウィンディ!」
風はおまけみたいにそよいだだけ。そこへ突っ込んできた光線を剣で受ける。斜めに捉えて反対側へ、アクアごと飛びすさって逃げた。それでもとんでもない熱源がかすめていったような熱風が頬を焼く。魔力の純度は低いのに、受ければ体へのダメージは強い。なるほど、魔力の量を問わない軍人の武器らしい。
「どうしよ。アクア、あれ直撃したら一回で死んじゃうかも」
「そんな!」
「だから早いとこやっつけちゃおう。さっき書いてた魔法陣ちょうだい」
マントにすがるアクアから紙切れを受け取る。男は悠々とベルトにコンパクトを戻している。隙だらけに見えた。あたしには。
「行くよアクア! つかまってて!」
アクアがしっかりと腕にしがみついたのを感じ取って魔法陣に触れる。体の底から魔力が持ち上がるように溢れて、思い描くままにかたちになる。
地面の草も巻き込んで、一筋の風が叩きつけるように男へ向かう。
「る、ルビィやりすぎ……!」
耳元で聞こえる焦った声。けれど目に映るものはそれと食い違っていた。
地に膝を突き、身を守るように白銀のケープを広げていた男が、その裾を払って起き上がる。どこかを庇う様子はない。翻ったケープの裏には表とは違う刺繍が見えた。
「魔法陣だ……魔力を受け止めて分散する……」
呆然とアクアが呟く。あたしの余波で自然の風が吹いて、男の手元にひらりとなにかが舞い込む。
「そうか。こういう方法があったのか」
低く、なにもかも納得づくのような落ち着いた声だった。小さなカードに書かれたアクアの魔法陣を裏表とたしかめ、興味をなくしたように手放す。
「アクア、魔法陣あと何枚あるの?」
「あと三枚、でも」
肩越しの声が震えた。
「あっちの陣はもっと使える。何回でも」
身を守るケープの陣、攻撃用のコンパクトの陣。どっちのこと? と問うまでもない、両方だ。そうじゃなきゃ戦場には行けない。そしてそういう陣をわざわざ使ってるやつが、こっちの紙に書いた陣がそのうち在庫切れすることを知らないわけがない。
男が再びコンパクトを手にする。あたしは作戦もなにもないまま、お守りみたいに呪文を唱えて魔力を集める。アクアの前にマントを広げて迎え撃つ姿勢。
これまでとは違い、男は持っているものを見せるように握った手を差し出した。手のひらを上にして指を開く。その動きに合わせて、今度は火花のように魔力のつぶてが撃ち出された。
「アクア伏せて!」
叫んで、息も切らずに呪文の最後と魔力の風を放つ。見上げるほどの高さから放物線を描いて降り注ぐ光は、その軌道に風を受けてもほとんど勢いを変えずに迫り、
「うっ、ぐっ、いたっ!」
次の魔法を構える間もなく足元、右の肩口、とどめに左の膝下に光の弾が叩きつけられた。さっきの光線のような焼けつく熱量はないけど、重い衝撃と痛みでバランスが崩れ、背中がアクアにぶつかる。
倒れるのはなんとか堪えた。アクアの腕を掴んで右へ引く。あたしの帽子とアクアの耳のそばを光線が抜ける。
「次来る! 陣!」
「ルビィ怪我は!?」
「痛いけどいいから!」
むしり取るように魔法陣のカードを握り、ちょうどよく攻撃を止めた男に狙いを定める。魔法陣が魔力を吸い上げ、あたしはそれを渦巻く風のかたちに変換する。しかし、その風が安定するよりも、男が身を低くしてケープを広げるほうが早かった。
ごうごうと激しい風の音を聞きながら迷う。撃っちゃう? 防御される? なら、もっと強くすれば防ぎきれなくなる?
「アクア、もう一枚」
「ええっ? この陣、枚数足したからって強い魔法が使えるわけじゃないよ!」
「そうなの? じゃあ、自力でいくしかない……っ!」
すでに起きている魔力の流れを意識して、さらなる魔力を剣へと注ぐ。風が勢いを増して帽子を攫いそうになるのを手で押さえる。
男は防御姿勢を崩さず、顔も伏せたままでなにを考えているのかはわからない。
「やりすぎちゃったらごめんね! っ、ウィンディ!!」
魔力は底から、声はお腹から、めいっぱいに撃ち出す。風が相手の魔法に届き、触れるそばから解かれていくのが、糸を伝う振動のように感じ取れる。解かれる以上に風を生もうと、痛む右肩も左脚も押し込めて風上で踏ん張る。アクアはマントの裾に絡みつくようにして座り込んでいる。
勢いが保ったのは数秒だった。息の限界がきたみたいにふっと風が解け、果たして、男は無傷で立っていた。しかし、
「許容量超過か。さすが精霊の魔力量だ」
独り言みたいに感心を示して、男がケープのボタンを外す。ひらりと見えた魔法陣はさっきよりいくらか黒ずんでいた。こういうの見たことある。アルサの魔法陣を壊しちゃったときと同じだ。
「あれもう使えないよね?」
「う、うん。焼き切れてる……」
「なんでちょっと引いてるの」
「えっ、だって……あ! ルビィあれ!」
敵の防具を使えなくして万々歳というときに、アクアは妙な顔をしてなにか言いかけ、途中で目を見開いた。あたしもはっと男に注意を戻す。
ケープを放り捨てた男は、背中に真っ白な翼を広げていた。ステージで見たのと同じ、歌姫カナリャの魔法の羽。
「あんなのあった? あたしの見間違い?」
「ううん、おれも気づかなかった。隠してたのかな」
「歌姫が勝手に着けたんでしょ。動かせるってこと?」
アクアの推測を待つ必要はなかった。目の前で男は二度、軽く翼を震わせると、ばさっ! と大きく羽ばたいて宙に浮き上がった。
「お前の魔法は確かに強力だが、どうも準備に時間がかかるようだな。避けてしまえばどうということはない」
低い声が冷たく吐き捨てる。はるか頭上で男がコンパクトを開いた。
「風よ……っだめだ、アクア魔法陣!」
「あと二枚だけどいいの!?」
「使わなきゃ一方的にやられて終わりだよ!」
ためらうアクアの手から魔法陣を奪い取り、男が浮かぶ高さまで迫る竜巻を立ち上げる。
「あたしはこの魔法、途中で止めないように集中してるから。アクアはどっちから攻撃来るか見てて!」
「そ、そんなこと言われてもっ」
甘ったれた声を上げながらも、アクアが土や草を巻き上げて煙る視界を見回す。
「あっち!」
と頼りない手が指さすほうにたしかに光がちらついた。魔法は乱さない、減衰しきらなかった攻撃も防ぐ、アクアを守る。
「うん、できる」
自分に、それからアルサに答えるようにうなずいて、あたしは剣を構え直した。