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突き飛ばされたとき、アクアのうちにあったのは、怖い! という気持ちだけだった。恐怖がそのまま悲鳴になって、巻き尺を引き続けるように止まらない。目なんてとても開けられず、落下の感覚はルビィにしがみついても耐えがたく、いっそ気を失いたいと思った瞬間、
どぼん、と着水音。悲鳴が泡と消えてアクアは目を開ける。水、光、ルビィのマントの裾が揺蕩う影、ひしゃげた細い管――噴水装置だ。
体中打ち付けたような衝撃と、水を呑んだ胸の押しつぶされたような苦しさが遅れてやってくる。手はどうしてか重く、もがきそうでもがけない。それをぐいと引っ張られた。
「っぷはあ!!」
水面を破って声を上げたのはルビィだった。アクアは同じように顔を出したのに、訳が分からないまま噎せ込むばかりだ。水を全部吐き出しても、心臓が早鐘を打って呼吸の邪魔をする。ステージセットのてっぺんから噴水装置を仕込んだプールまで落ちてきたのだ。内臓が浮き上がるような落下の余韻とともに改めて起きたことを意識すると、血の気が引く思いだった。
「こっち!」
ルビィに腕を引かれてステージへ這い上がる。水を吸った精霊服は重く、支え合うように立ち上がったとき、ルビィのマントにアクアまで足を取られそうだった。
ルビィは立ち上がるなり言う。
「精霊服、消して出して」
「あ、うん」
アクアは勢いに押され、言われたとおり精霊服を消して再度呼び出す。びしょ濡れの精霊服が消えて私服が戻り、再び乾いた精霊服が体を包む。髪は濡れたままだが、一気に体が軽くなってほっとした。
それを正面から見ていたルビィは、なぜか難しい顔をして重々しく言う。
「そうだよね……アクア、見てて」
「な、なにを?」
返事もせず、ルビィは一歩後ろへ下がり、額の角に押し上げられた帽子を片手で押さえた。角はルビィの精霊服に近い色で太く短い。サイの角、だとアクアは思う。
次の瞬間、風が弾けた。激しい風とともに、水しぶきが痛いほどの強さで飛んでくる。アクアは顔を覆いかけ、ふと違和感に包まれる。
「え?」
あれほど魔力が動いたはずなのに、ルビィはずぶ濡れの精霊服のままだった。風にめくれあがった前髪の下、幼い顔は見事な渋面を作っている。同じく渋々、という響きの声が呟いた。
「風よ、その偉大なる力を我に……風の精霊、ルビィ・ウィンディが命じる……ウィンディ」
アクアも通しで聞くのはいつぶりかになる、ルサ・イルが教えたという呪文。巨大な魔力を操る集中力のトリガーにと与えられた言葉だそうだが、たかだか精霊服を消すのにこれを?
「おかしいよね!? 精霊服消すだけだよ!?」
ワンピース姿に戻ったルビィは不満そうに叫び、呪文を繰り返して精霊服を呼び出した。そして剣を抜き、ほとんど人のいなくなった客席の上空へ向ける。
「ウィンディ!」
ルビィが最もよく使う呪文の短縮形。しかし、風はすぐには起こらず、吹いたかと思えば尻すぼみに消えた。さすがにアクアも首を傾げる。
「なんでこんな……あ」
離れた距離をずかずか詰めてくるルビィの、鼻の下に赤いもの。鼻血だ、と思ったときにはそれはだらりと唇を縦断して顎へと向かい、
「アクア、いっこ確認させて」
「ちょっと、待って、ルビィ……!」
アクアの言葉など聞いちゃいないルビィに肩を掴まれ、抵抗の間もなくくちづけられる。あわあわと緩んだままだった唇に押しつけられた血が入り込み、まずい鉄の味がした。
「っルビィ! 急になに……!」
「やっぱり! 力移しできない! あたしの魔力おかしいよね!?」
ぱっと離れて、かろうじて鼻がぶつからないくらいの距離でルビィが叫ぶ。アクアはそれよりもダラダラ流れ続ける鼻血が気になって仕方ない。
「血! 鼻血! 出てる!」
「えっ? あっ、ほんとだ。ん? これアクアじゃなくて?」
「違うよ!」
ルビィは出し直したばかりの精霊服で自分の顔を擦り、続けて鼻血をなすりつけられたアクアの顔まで擦った。
「それで、魔力どう? やっぱりヘンだよね」
「そ、そうかもしれないけど、力移しできなかったからわかんないし、それより歌姫は?」
ステージを見回しても、歌姫はおろか、照明も音楽もなく、背景となる紗幕の向こうにも人の気配はない。空になった客席も、椅子はそれなりに列の形を保ったままだ。ルビィに突然力移しをされたところを誰も見ていないことにはほっとしたが、これではなにが起きたのかさっぱり分からなかった。
「聞いてみよう」
ルビィが上手の袖を振り返る。同じほうを見てアクアは思わず身を竦めた。照明班の二人よりも随分厳めしい軍服の男たちがこちらへ向かってきていた。
「その服装、お前たち精霊か」
先頭を切って歩いてきた中年の男は、恰幅と年齢はうらろ事務所の所長と変わらないが、ひどく威圧的でアクアを脅かすにはじゅうぶんだった。しかしルビィは怯むことなく、マントを翻してアクアの前に出る。
「そうだよ。あたしは風の精霊、ルビィ・ウィンディ」
「風の精霊か。天界公演にも紛れ込んだらしいな。ここで何をしている?」
「なにって、歌姫の警備を頼まれてるの。そっちが人手が足りないとかなんとかで頼んできたんでしょ?」
男は、後ろにひっついてきていた、青い羽を背負った若い軍人を横目に見た。
「どういうことだ。たかだか魔界での公演に、そんな警備を雇ったのか」
「はい……カナリャーナーミ筆頭広報官が、天界公演では天界軍に協力させているのに魔界で騎士団から助力が得られないというのは、世界を問わず支持される歌姫の名に傷がつくと……」
「それで精霊に警備を? 魔界でも顔も名も知れていない、親が死んだから精霊になれただけのガキだぞ! 実際、すでに警備などできてないだろう!」
「せ、正確には今日は警備の下見に入らせているとのことで……」
「こんな角まで着けてか!」
どうやら上司らしい軍人の、よく響く怒鳴り声に青い翼ごと若者が身を縮める。アクアも一緒に小さくなってしまうが、ルビィは違った。
「なにその言い方。あたしたちは歌姫にお願いされて仕方なく引き受けてあげてるんだけど。角だって歌姫が勝手に着けてきたの!」
「勝手というならこちらにとってはお前たちも勝手だ。我々は精霊がステージに上がるのを許可した覚えはない」
「だから歌姫が依頼してきたんだってば! なのに上の人はあたしたちのこと突き飛ばすし!」
「権限もない小娘の言うがまま仕事を受けただけだろう。筆頭などという役職に騙されたか。精霊なんて本当に世間知らずなガキだな」
男も相当にいらだっている様子だったが、ルビィも負けず劣らず怒っていた。真っ赤な瞳が怒りと屈辱のために燃えているかに思える。言葉が追いつかずにぐうっ、と歯を食いしばって唸る横顔を、アクアははらはらと見つめた。
アクアにも、カナリャの堂々とした態度と、それに矛盾する男の言葉の、どちらが真実とみるべきか分からない。双方に横暴なまでの自信と迫力があり、どちらも信じるに足るようにしか思えない。
ただ一点、アクアの心を傾かせたものは、最初に渡された小切手という重大書類――ではなく、この仕事を引き受けたのが、父親の会社を背負ったグロウであるということだった。
けれど怒りに火のついたルビィは相手の言葉を信じる信じないという問題にまで至らず、売り言葉に買い言葉を口走る。
「そこまで言うんだったら、あたしたちは警備なんか……!」
「ルビィ!」
それを遮ったのは、まさにアクアの脳裏に浮かんだグロウの声だった。男の背後、上手の袖から黒と黄の精霊服姿のグロウがつかつかと歩いてくる。
「フェミーエ保険相談事務所、社長のグロウ・サンダーです。警備についての責任者はうちですが、どうかしたがですか?」
「ああ、あのシュレイン・サンダーの。カナリャーナーミが独断で雇ったという精霊の警備がなっていなくて、歌姫が攫われた。どう責任を取ってくれる?」
腕を組んでグロウを振り返った男にルビィが吠えかかる。
「だからっ、今日はまだ警備じゃないの! そもそもこんなの精霊の仕事じゃない!」
地団駄を踏まんばかりの怒号を男は鼻で笑った。
「ほら見ろ、これだからガキは」
「っ!」
ぱっ、とルビィと男の間にグロウが滑り込んだ。なにかを怒鳴り返そうとしていたルビィが不機嫌丸出しにグロウを睨む。対するグロウは涼しい顔でひとつ息をつき、
「ルビィ。あんた精霊やろ。冥界軍の偉いさんとケンカするがが精霊の役目かえ?」
挑発にしか聞こえない言い方に、けれどアクアははっとした。
こんなの精霊の仕事じゃない。ここまでルビィが散々くちにしてきた言葉は、精霊としてのプライドが言わせたものだ。
ルビィもすぐに思い至ったのか、怒りに任せた反論を堪えるように唇を結ぶ。グロウは断りを入れるように男へ目礼し、アクアとルビィの肩を押してステージ中央へ寄ると声を潜めた。
「あの軍人の言うとおり、歌姫が攫われた。犯人はスタッフに偽装しちょったけど、おそらく天界軍。歌姫を人質にしてユールと騎士団方面へ行った。ゴッドに追わせゆう。そっちはどう? 仲間がおったら加勢してもらわないかんけんど、問題ないかね」
ルビィが珍しく伺うような仕草でアクアを見た。その瞳はぎらついた迫力をすっかりなくして、いたずらの告げ口を引き留めるような気配を漂わせている。問題ありますなんて言わないよね? というような……アクアはその甘えた雰囲気に一瞬どきりとしてから、慌てて声を上げた。
「だっ、だめ! できない! ……かも」
アクアの必死さにグロウが目を丸くし、当てを外したルビィが唇をへの字にする。
「どういたが?」
「たいしたことじゃないけど……あたしの魔力がへんなの。でもアルサの呪文があれば魔法も使えるよ。なんていうか、ちょっと引っかかるというか、コレが邪魔な感じするだけで」
ルビィが手で示したのは、額に生えたサイの角だった。
「魔法使うにこれが邪魔っていうたら、ユールも?」
「わかんない。使えないわけじゃないんだけど、普段より集中しないとダメっていうか。いつもの癖とか勢いとかじゃ使えない、みたいな」
ルビィの曖昧な説明に、グロウがさっと表情を険しくする。
「それ、ユールは魔力感覚が使えんてことでね」
言われてアクアも理解した。あれはルビィが精霊服を呼ぶよりももっと、身に染みついて使う魔法だ。痛みを感じないための魔法。それが使えないとどうなるか、具体的には浮かばないが、それでも胸がざわつく。
「ルビィ、アクア、騎士団へ行って。最近は休暇日は誰っちゃあおらんき、助けがいるやったら城まで呼びに行って。うちはステージ周辺に仲間が残っちゃあせんか確認する」
「それならあたしたちがいた旗の下のとこだよ。照明係のひとがあたしとアクアのこと突き飛ばした」
「そういうことは早う言いや!」
ごめんごめん、と返しながら、ルビィはもう笑っている。前線から外されなかったのがよほど嬉しいらしい。一緒に行けと命じられたアクアは、胃が重いような、ルビィのやる気が挫かれなかったことに安堵するような複雑な気分だった。
きっとルビィのごまかしなど最初から見抜いていたのであろう、グロウは大人の態度でふたりを送り出す。
「ルビィ、分かってくれてありがとう」
それにルビィは言葉で答えず、マントを翻して一歩、離れたところでイライラと待たされている軍の男に体を向け、軍服にずらりと並んだ徽章や金糸にも負けぬ輝きで睨み上げる。
「あんたとケンカするのも、歌姫の警備なんかするのも精霊の仕事じゃない。でも精霊だから、魔界で起きてることはあたしたちがどうにかする。邪魔しないでよ」
溌剌とした声で言い捨ててアクアの手を取る。
「じゃ、行こう」
「うん」
そうしてふたりは、ステージを降りる階段へと踵を返した。