=風の精霊ウィンディ=

天界軍 1

 ゴッドが異変に気づいたのは、歌姫がその男を舞台上へ呼びつける仕草を目にしたときだった。
 観客がいるとはいえリハーサルはリハーサル、ステージは滞りなく進む場面もあれば容赦なく曲をぶった切って止まる瞬間もある。その様子を眺めるうちに、ゴッドは舞台上を行き来する人員がふたつに分かれることに気づいた。
 ひとつはカナリャーナーミ筆頭広報官付きの補助員と呼ばれるスタッフたち。彼らは一様に足元まである青いケープで体型を、その深いフードで顔を隠し、背にとりどりの羽を揺らして、カナリャ直属の部下らしく短い指示と手振りを正確に読み取って立ち働いている。白いレースのベールの向こうに並ぶ演奏隊もその一部だが、羽もなく衣装も異なり、女が何人かいる。他はほとんど若い男だった。
 もう一派は、カナリャの指揮下にはない数名の軍人たち。一人簡素な軍服に腕章を着けてカメラを携えた男を除けば、あとはみな徽章付きの帽子と他より落ち着いた青の軍服を着込んでいる。年齢は低く見積もっても歌姫の倍は下らない。カナリャの言う、そのままの姿で舞台に上がることのできる父親以上の年齢の人々だろう。
 ただし羽を授かっていない理由は年齢ではない。ゴッドの知識に照らせば、歌姫の職位である筆頭広報官は広報部に複数いる広報官のうちの一人だ。歌姫以外にもパフォーマンス職の広報官がいてそれぞれに事務を任せる補佐と実働スタッフとしての補助員を抱え、その上に広報官たちを統括する管理職たちがいる。彼らはその広報統括員だ。
 カナリャは一曲ごとに必ずなにかしらの変更を加え、その指示が実施されるまでの間、統括員たちが我が物顔で上手の袖からやってきてカナリャと言葉を交わし、どこか剣呑な空気を残してまた立ち去る。カナリャは深呼吸でその気配を払うと唇に笑みをひと刷け、冥界軍の歌姫としての振る舞いを取り戻す。上と現場の意見が合わないという典型的な事例のようだ。
 その繰り返しのなかで、ゴッドには徐々にカナリャのハンドサインが読めるようになってきた。演奏のこと、曲目そのものの変更、照明の色を変えるのか向きを動かすのか。おそらくサインは厳密なルールで定められている。だからこそ部下たちは手振りひとつで過たず動き、見ているだけのゴッドにも法則が読み取れるのだ。
 そういうことを考えながら眺めていた舞台で、一度だけカナリャが同じ指示を数回繰り返した。
 催促か、通じていない手応えだったのか。だが今日だけで四回目になる、水を持ってこいという簡単な指示だ。出てきたのは白い羽を背負った男。軍服によく合うためか、白と青とそのグラデーションは他の色に比べて格段に人数が多い。そのうちのひとり。
 カナリャはその男へ、水筒をもらうために歩み寄っていく。しかし男は、水筒を差し出す手を途中で引っ込め、青いコートを脱ぎ捨てた。
 現れたのはかすかにグレーを帯びた白い軍服。同じ白で胸までの丈のフード付きケープにも、上着に通した黒いベルトにも、白銀の糸で複雑な刺繍が入っている。冥界軍の青い軍服よりずっと装飾の多い、けれどそれらすべてが白銀色に統一され落ち着いて見える――天界軍の軍服。
 ゴッドはその瞬間に有事を認識した。
 あと数歩のところで立ち止まり、後ずさろうとするカナリャを、男が乱暴に引き寄せる。喉に巻いた拡声器の魔法陣が息をのむ音を響かせた。男はそれをむしり取って舞台に放り投げ、白い喉元に刃物を突きつけた。静かに幕間を待っていた客席がにわかにざわめく。
「クルスさん」
 椅子を立って、隣の席のクルスに呼びかける。クルスはヒュナの手を握って、優しげな顔に緊張を滲ませた。
「行かなきゃいけないんだな」
「はい。二人は秘塔へ避難してください。敷地を出るときは前の方の様子を確認してからでお願いします。じゃあ俺は、」
「ゴッド」
 言いながら駆け出しかけたとき、腕を捕まれた。クルスの腕を掴む、ヒュナの手の分まで強さを加えたようなちからで。
「気をつけて、頑張って。みんなが無事で帰ってくるの、待ってるからな」
「分かってます」
 間髪入れず答え、今度こそ席を離れる。
 舞台上で、男は演奏隊と袖になにごとかを叫ぶとカナリャを押さえ込んだまま下手の袖へ入っていく。遅れて照明が真っ白な光線で刺すようにそれを追いかけた。
 ユールがいる方だ。ユールひとりなら止められる。だが周囲には歌姫を敬愛する補助員たちがいて、男が歌姫を盾に脅せば彼らはユールに手を出すなと請うだろう。
 男の目的は歌姫暗殺かと思ったが、あれは人質を取る動きだ。
 ステージの隅に客席側へ降りる階段があった。ゴッドは誰も見ていないことを背中で感じ取ってそこを駆け上がる。上手袖に飛び込むと、そこでは重々しい軍服の男たちが通信鏡に取り付いて、フードを払った補助員たちが周囲でオロオロしていた。
 ゴッドはその輪を避けるようにステージ下へ向かい、一際暗い位置に設置された通信鏡を探す。
 歌姫の衣装替え用のスペースにそれはあった。リハーサルとはいえ、本番も間近とは思えないほど変更の多いステージのため、もともと狭い空間が衣装掛けで混雑している。その物陰になっている鏡が一つ。顔が映らないよう、衣装の間にしゃがんで呼びかける。
「グロウ」
 薄暗かった鏡の向こうが明るく晴れた。乱れた字の踊る黒板と、補佐の驚愕の表情と、我が意を得たりとばかりに身を乗り出すグロウが映る。
「犯人は歌姫を人質にして、ユールに先を歩かせて騎士団方向へ行った! いまのとこ他に仲間らしいがはおらん。目的は不明。ほんで、」
 補佐がグロウの肩を強く掴んだ。バランスを崩して声が詰まる。それを振り切るように、グロウはまるで真っ直ぐゴッドの目を見ているかのように顔を上げた。
「制服は死神部隊、戦闘員やない。ひょっとあんた、顔見たら分かるかも」
「了解」
 短く答えてゴッドはその場を離れる。途中、誰かが脱ぎ捨てていった青いコートを拾って被る。袖の方からは「誰とやり取りしている!?」と、おそらくは統括員の男が怒鳴るのが聞こえた。その声を背にステージ裏へ抜け出し、西へ、隣接する騎士団敷地へと走る。
 犯人はユールを精霊と見抜いて伴ったのか。だが、魔力感覚がある以上、ユールの背後を取ることにはなんの意味もない。死角や隙といったものは、ユールには存在しない。
 だからまあ、ユールの心配はいらないし、歌姫のためにこうして走ってやる義理もないのだけれど。
 敷地を隔てる植え込みは、ユールの魔法によるものか、大きな足に踏みつけられたように潰れていた。騎士団側の木の柵も同様に倒されている。コートを捨てて振り返ると、司令室代わりの小屋が見えた。
「お前の命令じゃなかったら絶対やってねえよ」
 当てつけのつもりでくちにしつつ、精霊服を呼び出す。秘塔の管理する植え込みを、そして騎士団の建てている簡素な柵を、ゴッドもまたくぐり抜けていく。

2022/7/4