=風の精霊ウィンディ=

冥界軍 5

 あたしとアクアが配置されたのは、ステージの真上、演出用の魔法陣を敷き詰めたアーチ型の骨組みのてっぺんだった。鉄骨をそのままはしご代わりに登ると、真ん中の、冥界軍のシンボル旗を支えるポールの根元に行き着く。その周囲は陣を操作するための小部屋になっていた。ポールに貫かれた小部屋の天井穴から外に出た、椅子どころか手摺りもない空間で、あたしたちはステージを縁取る色とりどりの旗に隠れるようにして控える。
 ある意味では確かに特等席だ。会場となった秘塔の校庭どころか、城下の町並みまで見晴らせる。いまここは、城、秘塔に次いで、城下三番目の高層建築だ。どんなに高くとも四階建てが限界の城下は、ずっしりと落ち着いたようにも、おもちゃのように可愛らしくも見えた。
 でも、
「歌姫は全然見えないね」
「音もほとんど聞こえないな。ルビィ、そんなに覗き込んだら危ないって」
 足場の端まで行って顔を出すと、見えるのはせいぜいステージ先端の二メートルくらい。白く塗った板には隙間が空いていて、あそこから噴水が上がるらしい。歌姫はすでに何曲か歌って踊っているはずだけど、聞こえるのも高所らしく激しい風と、そのせいで凶暴に乱れる旗のたてる音だけだ。舞台なんて楽しめたもんじゃない。
「ルビィ、気をつけないと見つかるよ」
「はーい……あ、ゴッドだ。あっ、お兄ちゃんだ!」
 精霊服の上から被った冥界軍のコートをアクアが引っ張る。それを背中に感じつつ、あたしはついつい客席へ手を振った。
 ゴッドは例の魔法陣で瞳の色を隠し、客席出入り口に近い前側、端の席に座っていた。舞台裏のグロウと並んで、地上班だ。そこへお兄ちゃんとヒュナさんが手をつないでやって来る。アサナギとユウナギは留守番らしくていない。ヒュナさんが先にゴッドを見つけて、合流して、なにかしゃべっているけどここからではとても聞こえない。お兄ちゃんがあたしに気づく様子もない。
「やっぱ遠すぎ?」
「クルスさんは配置も知らないんだから無理だろ。それより危ないってば。ルビィ!」
 もう一歩、思い切って身を乗り出したあたしをアクアが細い声で呼んだときだった。
 わっ! と、まだ席数の半分ほどしかいない観客が沸いた。なにかと思えば、噴水が高く噴き上がり、ステージを塞ぐカーテンのようになっている。そこへステージの天井から金色の光があたって、水の幕をまぶしく輝かせる。やがてカーテンはふたつに割れて、たぶんそこでカナリャが再登場したんだろう。見えないけど、観客の盛り上がりから察せられる。
「おおー! すごい! これ天界のときはなかった!」
 あたしはどこにも聞こえないのをいいことに思い切り拍手してしまった。アクアも釣られたようにちいさく拍手しながら、感心してうなずいている。
「どうですか。すごいでしょう」
 背後から笑みを含んだ男の声が言った。振り返ると、板の下の小部屋から冥界軍の制服が顔を出している。噴水装置の操作を任されているという軍人だ。お兄ちゃんやヒュナさんくらいの歳で、歌姫の大ファンで志望して広報部隊に入ったと言っていた。
「中に入れば歌も聞こえるんですけどね。手狭で申し訳ない」
 そういう彼の背中には、青と白のグラデーションになったインコを巨大化したみたいな羽が生えている。青の部分は制服の青とそっくりだ。小部屋にはもう一人、照明陣の操作をしている先輩軍人がいて、その人には黒い羽が生えていた。たかがスタッフの識別なのに、歌姫はなかなか凝り性らしい。ていうか、羽があるから小部屋が狭いんじゃないの?
 その部屋から先輩が呼ぶ。
「おい、指示来た。次の曲、緑に変えるって」
「変更多いっすね! 緑かー、どこでしたっけ」
 後輩の方は頭を掻きながらポールの根元へ引っ込んでいった。あのなかには通信鏡が設置されていて、補佐の控える司令室につながっている。司令室は歌姫の控え室と同じようなプレハブを通信鏡だらけにした部屋で、ステージ裏のあちこちに指示を出す場所だ。ステージでは音楽がずっと鳴り響いていて会話はしづらく、通信鏡が煌々と光ってもいけない。そのため、つなぎっぱなしの通信鏡に薄い黒のベールをかけておき、用のあるときだけ外して黒板に書いた文字を映すという、なかなかめんどくさい方法を取っている。
 グロウもその司令室で、ステージ全体をくまなく見張っているはずだ。完全に裏方、だから歌姫の演出の魔法はない。ゴッドも客席だからない。カナリャは、アクアについては陣書きだからいらないと言ったらしい。舞台のスタッフにも陣書きはいないし、裏方専門という扱いなのだろう。
 しっぽをつけられたユールは舞台袖。グロウの指示が見える位置で、彫像のように身じろぎひとつせず立っている姿が目に浮かぶ。そのユールとあたしたちがステージ班。もしもの時は真っ先に飛び出していく……のが仕事なんだけど、ここじゃそのもしもが起きてることに気づけるのかな。
 眼下の客席はリハーサルなのと、天冥ほど歌姫にお熱なひとが多くないのとがあって、前に偏って半分埋まってないくらい。観客はめいめい手拍子したり、ステージに手を振ったり、一緒に来た人としゃべったり、小さい子供なんか寝ちゃってたり。天界公演のときのような熱っぽさは感じられない。
 ステージもステージで、小部屋から漏れ聞こえてくる範囲でも、曲の途中で切られたり、同じ曲を連続でやったり、音も出さずに照明だけいろいろと入れ替えてみたり。歌っている間は本番さながら、なのかどうかもここではわからないし、緊張感なんてあったもんじゃない。時折、小部屋の後輩軍人が「やっぱり歌姫はこうでなくちゃ!」と喜んでいたりする。けど、ここじゃ見えないもんな、どう変わったんだろう、歌姫っぽい演出ってどんなのだろう。結局、びゅうびゅうと吹きすさぶ風を浴びて、精霊服もない軍のひとたちは寒いだろうな、と思うくらいで、することもない。
「ひまー」
「聞こえるよ」
 心の声をくちに出すと、アクアが小部屋を気にして眉をひそめた。アクアも今日ばかりはすでに精霊服姿で、冥界軍のコートのなかに丸くなって座っている。見ればうつむいた手元ではちまちまと魔法陣を書いていた。アクアは暇じゃないわけだ。
「それなんのやつ?」
「魔力を引っ張る陣」
 最近よく使わせてもらってるやつだ。魔力と体を切り離す練習。そのためにこの陣で魔力だけを強制的に動かし、体はその魔法とは関連のない動きをする。言うのは簡単だけどやるのは難しい。けど、
「いま書く必要なくない?」
「だって書いてないと落ち着かなくて。ルビィは平気なの?」
 なにも起きない可能性のほうが高いのに、アクアはやけに不安そうだ。
「平気ってなにが?」
「風とか……それにここ高いし、狭いし、旗なんてビラビラしてぶつかりそうだし」
「このくらいの風なんて、あたしのに比べたら全然でしょ。ていうかアクア、高いところダメなの?」
「こんな柵もなくて落ちそうなところ、誰でも怖いだろ!」
 言うと同時に風が強く吹いてコートに入り込み、背中を引っ張った。アクアは短い悲鳴を上げて丸くなり、あたしは一歩よろめいて立て直す。
「ほら!」
 アクアが危険を訴えるように小部屋の出入り口の縁に掴まった。
 その小部屋から軍人たちの声が上がった。
「なんだ!?」
「歌姫! 姫っ!!」
 緩んでいたなにかがぴんと張り詰めた。あたしはアクアの隣へ駆け寄って小部屋を覗き込む。
「なにがあったの!?」
「くそっ、下手に向けろ! 顔に当てろ! 止まれッ!」
「やってます! ああ、歌姫が……!」
 返事はなく、怒号から緊急事態であることだけが読み取れた。照明陣を操作しているみたいだけど、二人の羽が邪魔で下の様子は見えない。
 足場の先端へ取って返す。見下ろした客席は騒然としていた。みんな後方へと逃げ出しながら、呆然と舞台を振り返っている。ゴッドはすでに姿を消していた。お兄ちゃんがヒュナさんを腕に抱いて、他の軍人たちと一緒に避難の足が鈍いひとたちを誘導している。
 魔界公演じゃどうせなにも起きないという読みは外れた。どころか、まだリハーサルだ。あたしたちの契約本番じゃない。
 振り返ると部屋からは強風に青と黒と白の羽根が散っていて、そのなかの混乱ぶりを思わせた。アクアはあたしのそばまで這うようにやってきて、おそるおそる下を覗き込む。
「……!」
 息をのむ音。顔を上げた瞳が不安に染まって、あたしはアクアの手を右手で掴んだ。
「アクア、大丈夫だよ。あたしが」
「違う! ルビィ後ろ!」
 アクアが甲高く叫び、あたしは剣の柄を握って振り返る。風に広がった冥界軍のマントがついに吹き飛び、その向こうから、
「ごめんなさいっ!!」
 青から白へ、美しいグラデーション。その羽に風を受けた青年が腕を伸ばし、ドン! とあたしたちの肩を突いた。足場を飛び出した体はマントごと煽られ、
「うわっ!?」
「ひっ、いやああああぁぁぁ!!!」
 手をつないだままのアクアの悲鳴を引き連れて落下。体の中身が浮き上がるような感覚のなか、あたしは剣を強く握って呪文の省略形を唱える。
「ウィンディ!」
 その言葉をなぞるだけで、もはや無意識と呼べるほどの集中が剣先へと魔力を運ぶ。風が湧いて、ばふ! と弾ける。あらぬ方向。落下の速度はそのまま。
「え!?」
 慌てて剣を下へ向け、ふたたび魔力を流す。力任せの一発はあたしたちの体をすこしだけ持ち上げた。それでも思ってた半分の勢いもない。
「なんで!?」
 アクアは悲鳴を上げるばかりで答えない。落ちていくあたしたちをよそに、きつくつぶった目の端から涙が飛んでいく。アクアがあたしの右手をぎちぎちに掴んでいるのが痛くて、落ちながらも肩を捻る。
 なにかがぱしんと頬を打った。白い、薄い、硬い――紙。
 魔法陣。なんの、と思う間もなく魔力の方向が定まる感覚が走った。
「っ、ウィンディ!!」
 今度こそ、風は力強く足下へ吹き付けた。ステージの端にぶつかった突風はその圧で噴水装置を隠していた板を叩き割り、現れた暗い水面が、
「――!」
 どぼん、という重たい音とともにあたしたちを飲み込んだ。

2022/5/9