無人の移動陣管理所を経由して家に帰り、全員で開けた封筒には、さすがに現金そのものは入ってなかった。
天冥魔界の共通紙幣よりひとまわり大きく、厚みのある、複雑なゴールドの模様で装飾された薄いブルーの紙。紙面から見切れるくらい大きな冥界政府のシンボルマーク。真ん中にはなにかを書き記すための余白が残されている。
「小切手やん……冥界政府銀行の……冥界軍の口座ってどっぱあ入っちゅう……?」
ソファの真ん中で、代表として封を切ったグロウが小切手をそっと持ち上げて照明に透かす。しっかりした紙であまり透けないけど、光の当たる角度が変わってゴールドの曲線がきらきら輝いた。
「きれいだ……」
たぶんその模様の精緻さに対して、アクアが感嘆を漏らす。グロウとはまた違った目で、淡い色の紙の表面をじっと見つめている。
あたしはグロウの背中越しに手を伸ばして、ソファの反対側にいるゴッドの肩をつついた。
「小切手ってなに?」
「これに数字書いて冥界政府銀行に持っていったら、冥界軍の金が書いた金額分手に入る」
「うそ!? すっご! なんでそんなのあたしにくれたんだろ」
テーブルに小切手を下ろしたグロウが振り返る。
「あんたにやった訳やないろ。理由はこれよ」
爪先が封筒に入っていたもうひとつのもの、数枚の書類の束を弾く。文字がぎっちり詰まって一目で読む気をなくすやつだ。グロウはなんの苦もなさそうに読み始めるけど、あたしはタイトルだけ読んだ。契約書。
「なんて書いてるの? 契約書って、あたしもアクアも引き受けるなんて一言も言ってないよ」
「契約書の素案よね。こういう内容で契約しませんかって手紙。向こうも本気みたいなで。条件は悪うない。けんど、詳細までは分からんか。まあうちらあが何人出すとも知れん状態で作っちゅうがやきしゃあないね」
思いの外、グロウは真剣に契約書に目を通していた。はなっからこんなの相手にできるかーってそっぽ向くかと思ってたのに。これじゃまるで、
「グロウ、もしかして契約する気?」
「んー、どうしょうね」
半分くらいは鼻で笑われる覚悟で聞いたのに、グロウはほんとうに悩ましげな息をついた。
「えーっ! やるの? 歌姫っていっても、冥界軍の警備だよ? 精霊のやることじゃなくない!? ねえゴッド!」
味方が欲しくて袖を引っ張ったのに、ゴッドも同様に微妙な表情で、ユールの手に渡った紙面を読み返している。いつもならこんな面倒ごと絶対嫌がるのに!
「お前の言うことはもっともだよ。こんなの精霊の仕事じゃない。やらせるなら騎士団だ。でもいまの精霊の立場で断るのが得策かってことは考えなきゃなんない」
「精霊の立場?」
アクアがゴッドの言葉を繰り返し、グロウが頷く。
「うちらあ、まだいまの精霊は誰か正式には明かしてないろ。それが今回の騒動で冥界軍にはルビィのことが知れてしもうた。冥界軍の情報部門やったら、そればあ掴んだら他の精霊のことらあすっと分かる」
「そんなのいつかはわかることなんだから、別にいいじゃん」
「考えてみい。精霊は魔界のもんやのに、冥界軍は精霊が誰か知っちょって魔界の一般市民は知らんかったら心証悪いろ」
「でもそれって魔界を守ることになんか関係ある?」
グロウが、あーあ、全然わかってないなあ、って顔をした。だってわからないもん! とほっぺを膨らまして対抗していたら、ゴッドの指先にしぼめられた。
「魔界を脅かすのはなにも姿のある個人や組織だけじゃない。精霊狩りが主体だった神魔戦争がどうして魔界全体に影響を与えたか、魔界中見てきたお前ならわかってるだろ」
「たしかにアルサは、魔界って昔はこうじゃなかったみたいに言ってたけど。でも神魔戦争のときは騎士団もダメになっちゃってたせいもあるし、いまはあたしたちがいるんだよ。精霊がいないのより、ちゃんといますってわかったほうがみんな安心しない?」
「それはそれで、精霊の役割以前のとこで問題なんだよな。街行く誰もが自分を知ってる生活って言われて、お前が考えられるのはクルスさんが店のご近所みんなと顔見知りでいるあの感じぐらいだろ」
その通りだったので黙ってうなずく。
「あれを悪いもんじゃないと思えるのは、あのへんのひとたちがみんなクルスさんのことをちゃんと知ってて、良く思ってるからだ。でも精霊はそうはいかない。魔界の人間なら誰もが知る存在で、なかには精霊自体をよく思ってなかったり、精霊について事実無根の噂を信じ込んでたりするやつもいる。親の代もそうだった。俺たちもいずれそうなる」
「…………つまり?」
「ルビィお前、考えるのめんどくなったろ」
「うん」
グロウが盛大なため息をついた。
「つまり、よね。冥界は精霊の情報を握った。もしここで断ったら、精霊が歌姫の仕事を蹴ったことも含めて、公衆に知らすも知らさんも冥界の思うまま。歌姫は魔界でもそれなりに人気やきね。うちらはひとっちゃあ得せんちゅうことよ」
アクアが契約書の硬い文字を覗き込む。
「おれたちはこの契約をするしかないってこと?」
「あたしはやだ! 精霊は魔界を守るんだよ。こういう行事の警備なら騎士団なんでしょ? 冥界から女王家に頼んで騎士団をどうにか使えるようにしてもらえばいいじゃん」
「だからこれがあんだよ」
手を伸ばして、ゴッドがきらきらの小切手の角を弾く。お金がなんだって言うの。
「精霊は魔界を守るためにある。それは仕事じゃないし金銭は発生しない。で、冥界軍の言ってきたこれは報酬が発生する。仕事の依頼なんだよ。受けるには工夫が必要だけどな」
「うちとしてはこれを引き受けて、条件を提示して主導的にコントロールしたい。例えば、精霊を雇うたことは伏せて、とか、冥界軍の警備の配置をこっちで決めさいて、とか。ほんで無事終わったら恩が売れる。最近の妙な天冥大戦は魔界の治安に悪影響とも聞くしね。一言二言くち出さいてもうたら、精霊として魔界の平和に貢献したことにもなるろ」
納得、できるようなできないような。でもまともな反論はなにも思い浮かばなくて、あたしはやけくそでユールを引っ張り込んだ。
「ユールは? こんな仕事引き受けちゃっていいの?」
「それには姉上の許可が必要だ」
ユールがいちばんなんにも考えてないんじゃん!