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アクアの魔法陣はギリギリ日付が変わるかどうかという頃に完成した。
あたしの髪を乾かし終えたゴッドに貼りつくようにして、写し間違ってたらいけないから、と三枚も魔法陣の写しを取り、アクアは部屋に引っ込んだ。
「だいたいわかった」
そう言いながらアクアが用意してきた最初の数枚は、あたしが魔力を通した時点でダメになってしまった。そのときにはすでにアクアの魔力なら耐えられる強度になっていたらしいけど。
何度か試行錯誤を重ね、夕飯のあとにはあたしでも使えるものができた。アクアが書いて、あたしが使い、グロウとゴッドとユールがチェックする。三人がかりのチェックは厳しく、
「これは隠せたうちに入らんちや」
「動くたびちらついてんぞ」
「半日は保たない」
と散々なことを言われながら、アクアは頭を捻り、最終的にはゴッドの魔法陣を入れたヒルダさんという陣書きに通信鏡を繋いで教えを請うた。教示の内容はごく簡単で、
「見たところ陣は問題ないわよ。使い方は? ちゃんと魔力抑えてる?」
ようするにあたしのせいだった。ゴッド曰く、たしかにこの陣を使うときは自分でも魔力の動きを抑えている。それを最初に言ってよ! とジタバタしたけど、あたしも日々使ってる日用魔法陣にいちいち魔力を流すイメージをしているかというとそうでもない。
そうしてなんとか完成にこぎ着けた魔法陣は、接触していないと使えないからと靴下の中に忍ばせている。歩くときの違和感は目的地に着くころにはほとんどなくなっていた。
天界にはお城の地下からも行けるけど、あの移動鏡は普段あたしたちが暮らす人間界の家と接続されていて、天冥行きとして使うには移動先と調整のうえ、設定を変えなくちゃならない。
単なるお出かけにそこまで頼めないので、今回使ったのはグロウたちが仕事で使ってる民間の移動陣だ。城下の郊外にも公式訪問用に女王家で管理されてる移動陣があるけど、そっちは接続先からの移動が不便らしい。
そんなこんなで、魔界の山裾の町から天界の中心市街の移動陣を経由してたどり着いた午後の天界西広場は、たくさんの人で溢れていた。
広場は半月型で、丸い方に階段状の座席が並び、下った先にステージがある。その向こうは林で、今日の公演のためにあつらえたらしいカラフルな垂れ幕で行き来ができないようになっている。座席に並べられたクッションが垂れ幕と同じ配色だった。開演二十分前で、席は半分ほど埋まっている。
座席の背中側にも垂れ幕がしてあり、入場できるのは右端と左端だけのようだ。幕の前にはいろんな店がテントを出してお客さんを集めていたけど、入場の列ができていたのでそちらへ並んだ。そもそもあたしたちに余計な買い物をするおこづかいはない。
アクアは始終きょろきょろしていた。集まったひとたちは年齢も雰囲気もさまざまで、さすがに赤ちゃんはいないけど、アクアにとっては物珍しいみたいだ。と、思ったら、
「すごい……こんなにいっぱい人がいるの、全校集会以外で初めて見た……」
そんなことを言っていた。そっち?
入場口には係員がいた。チケットを見ながら、途中退場したら再入場できないとか、トイレは開演までにとかの注意事項を述べる。最後に顔を上げたときに目が合って、思わずアクアとふたりで息をのむ。
「三列の十六番と十七番。青と黄色のクッションが目印です」
「はあい」
お決まりらしい案内だけで、特に不審がられることはなかった。指定席はほとんどステージの真正面だった。あたしとアクアはそれぞれ青と黄色のクッションへ腰を落ち着けて、ほっと胸をなで下ろす。
「ここまではばっちりだね」
「だと思う。移動陣のとき、ルビィ大丈夫だったよね?」
精霊を隠す魔法陣――商品化されるようなものじゃないから正式な名前はない――は、魔力を抑えるという性質上、使っている間は他の魔法も魔法陣も使えない。
移動陣を使うときは移動の瞬間にあわせてまばたきをするといいとゴッドに習った。自然にやるのは難しくて、移動のときは目をつぶる癖があるひとみたいになっちゃったけど、肝心の瞳の色は見られてないはずだ。
「大丈夫だよ。でも魔法使えないって思うとちょっとドキドキしない?」
「そうかな?」
アクアが首を傾げて目をぱちぱちする。いつもの水色の明るさが黒に変わると、なんだか一層地味な印象だ。心細そうに見えるのはそのせいだろうか。
「ねえねえ、いまのあたしってどんな感じ?」
出かけるときのグロウたちのチェックでは、ばれなさそうかどうかしかコメントしてくれなかった。アクアは普段よりさらに弱々しい雰囲気だけど、あたしもそうなんだろうか。そう思って聞いてみると、アクアは数秒口ごもってから答えた。
「いつもより……えっと、おれは、いつものルビィの方が……なんか安心する」
「そっかー」
それってあたしもいつもより頼りなさそうってこと? あたしもユールと同じで、体格とか面構えとかはそんなに強そうじゃないもんな。あたしたちの強さは魔力の強さだ。それが見えなくなったらそう思うのも仕方ないのかもしれない。
ちょっと窮屈だなあ、と、公演が始まる前からあたしはそんなことを思っていた。
公演は光とともに幕を開けた。ステージに向かって強烈な照明がいっせいに焚かれ、それがふっと消えたとき、なにもなかったステージ上には楽器を携えた奏者が並び、その真ん中に、
「――ねえ、」
甘い歌声が、降りてきた。
ステージの頭上高くに配置された照明陣のパネルの向こうから、ピンク色のブーツに包まれた足先が、光を弾く太腿が、花びらみたいなミニスカートが、蔓草を模したベルトが、両手を重ねた胸が、会場を包むような歌声に乗せて、姿を現す。
首元に丸い飾りのチョーカーが見えた。
「魔法陣だ、拡声器の」
軽く高らかな歌に重ねて、アクアの声が普段よりひんやりと冷静に聞こえる。
歌姫は顔を伏せたまま歌っていた。小さな顎の周りで、緩く巻いた金髪がふわふわと揺れる。背中にはカゲロウの羽。歌姫は透き通った羽を震えるように羽ばたかせて、ステージに降り立った。
いつの間にか周りの人たちは立ち上がってステージに手を振っている。だけどあたしは動くこともできず、あんぐりとくちを開けて、尖ったつま先がステージに触れ、ヒールのかかとが石の上に揃うのを見ていた。
歌姫、カナリャーナーミが顔を上げる。淡い紫色の瞳がぱちぱちとまたたく。
歌の一節が終わって、歌姫が両手を高く上げた。
「みんなーっ! きょーうは、お祝いだよーっ!」
魔法陣を通して張り上げられた声に、会場が言葉にならない歓声で応える。あたしは目だけはステージに釘付けのまま、隣のアクアの腕を掴んだ。
「な、なに」
「あれ。さっきの。飛んでたよね。魔法陣?」
「前も言ったけど、魔法陣で人間を飛ばすのは無理が」
きゃーっ! という黄色い声でアクアの返事はかき消された。歌姫がステージの向かって右へと歩み寄り、近くの席の観客がくちぐちに、カナリャ! カナ! と歌姫を呼ぶ。
あたしは笑顔を振りまく歌姫から目を離し、アクアに向き直って問う。
「飛んでたよね」
「う、うん。それより、これ立った方がいいみたいだよ」
掴んだままの腕に引かれるように立ち上がる。ステージの端から歩いてきたカナリャーナーミは、真ん中の席でごそごそしているあたしたちにもばっちりとウインクをくれて、二歩の助走のあとふわりと飛び上がった。