=風の精霊ウィンディ=

歌姫 3

 陣書きが四人も揃えばこうなるものなのだろうか。ヒルダが作品を提出してからはひたすら魔法陣を見せられ、魔法陣の話を聞かされ、アクアも魔法陣を書いて見せ、魔法陣の話をした。ほんとうにそれだけだった。陣以外の趣味やら家族やら城下の最近のニュースやらはなにひとつなく、あっという間に帰ると約束していた時間が迫ってアクアは大急ぎで人間界へ戻った。
「ただいまあ」
 リビングのソファにはグロウとユールがいて、ユールは風呂を上がったらしくドライヤーを使い終わるところ、グロウはなにやら手帳にペンを走らせていて表情は見えない。
 先週ほどの緊張感はないが、おそるおそる近寄る。ユールがドライヤーのスイッチを切って「おかえりなさい」と発したところで、グロウがアクアに気づいて振り返った。
「ああ、おかえり。事務所どうやった?」
「面白かったよ。よくわかんないけどみんないい人そうだったし、いっぱい魔法陣の話できて楽しかった」
「よかったやん。仕事はさいてくれそうなかったかね」
 グロウがソファの端を空けてくれて、アクアは荷物を置いてそこへ座った。そういえば、ほんとうに魔法陣の話しかしていなくて、じゃあいつから仕事をとかいうことも一切言われなかった。
「仕事がどんな感じなのかはわからなかったかも。でも、ヒルダさんが去年の作品集くれて、また来てねって言ってた」
 鞄からもらった作品集を引っ張り出す。黒い革の高そうな装丁だ。覗き込んだのはグロウだけではない。
「あっ、アクアだー。それなに?」
 リビングに入ってきたルビィがソファの後ろに駆けてきて、アクアとグロウの間から顔を出す。茶髪から水滴が散って、グロウが両手で本を庇った。
「ルビィ!」
 直後にルビィの後ろからタオルを持った手が伸びて、びしょびしょの頭を抱え込んだ。
「ほら怒られた。せめて髪を拭けって言ってるだろ」
「あはは、きゃー」
 ゴッドに髪の毛をかき混ぜられるに任せながら、ルビィはまともに返事もせずけらけら笑っている。二人とも風呂上がりのようだった。昨日アクアが四苦八苦して詰め替えたリンスインシャンプーのにおいがする。ここまでずっと静かに座っているだけのユールもそうだ。
「また一緒に入ってたの?」
「うん。ごめんねアクアも誘えばよかったね」
「誘わなくていいから」
 ルビィがいちいち誰かと風呂に入りたがるのが、アクアには理解できない。アクアの受けた教育ではお風呂は一人で入るものだった。人間界には大勢入れる風呂もあるというが家庭では一度に一人だろう。
 それに、テレビで見た温泉だって男湯と女湯に分かれている。グロウに断られたからといって、ゴッドを誘ったりユールのいる風呂にそのまま入っていったりするルビィはおかしい。ゴッドにはその話をしたこともあるが、でもルビィが一人じゃ髪洗えないって言うから、と言い切られてしまった。ゴッドも大概、距離感がおかしい。
 そのゴッドがソファを回り込んでカーペットに座った。ルビィはタオルを被ったままついていって、その膝に乗り上げる。
「ルビィちょっと」
 ゴッドがタオル頭を横に押して、アクアとグロウの間を指した。
「アクアそこ、なんか落ちてる」
「え?」
 足元にはなにもない。グロウが作品集を持ち上げると、そこに長方形の紙切れが落ちていた。アクアに作品集を返して、グロウが紙切れを拾い上げる。まったく同じものが二枚。
「天界公演のチケット」
「あ、たしか帰り際、ヒルダさんがお土産だって……」
 作品集はしっかり抱えて受け取ったが、それ以外の物はバタバタしていてあまりよく確認していない。
 グロウがぺらっと紙を扇がせて、なぜかゴッドに目を向けた。
「これ、あんたがもうてきてヒルダにやったやつでね」
「え?」
「あいつ、横流しかよ」
「え?」
 アクアとルビィは首を傾げるばかりだ。ルビィが体を伸ばして、グロウの手からチケットを一枚引き抜いた。アクアはグロウが指に挟んだままのもう一枚を読む。
「第三期連勝記念公演、会場、天界西広場……」
「日付はー、明日? えっ、うそっ、歌姫じゃん!」
 がばっ! とルビィが上げた頭をゴッドが後ろに避けた。そのまま手を伸ばしてユールからドライヤーを受け取る。
「仕事先がくれたんだよ。で、いらねーからヒルダにやった。絶対見に行くつってたのに、まさかお前がもらってくるとはな。あいつまた納期ギリギリなわけ?」
「そういえばヒルダさん、明日も忙しいって言ってた。でもこれ、なに?」
 チケットを裏に表に返して見るアクアに、ルビィが偉そうに説明を垂れる。
「歌姫だよ、歌姫。冥界軍のカナ! 衣装とか演出とかすっごい派手で有名なの。年末必ず一般公演やるんだけど、人気すぎて軍の人でもチケット取れないって。歌も上手いけど見せ方がいつもほんとすごいらしいよ。あたしは見たことないけど」
「ま、待って。まず歌姫ってなに?」
「そこからかあ」
 このやり取りも何度目か。いつものように、グロウが簡潔に教えてくれる。
「天冥の軍に広報部門があるがやけど、そこの人前に出て人員募集活動とか慰労活動とか、まあ人気集めするがが仕事の人よ。魔界でも劇団の移動公演とか、歌手が客集めて歌いよったりするろ。あんながをやりゆう」
「そうなんだ」
 と、納得してみたものの、具体的なイメージは湧かなかった。チケットはほとんど文字だけのデザインで、ルビィの言ったような華やかさからは遠い。カナリャーナーミ、というのが歌姫の名らしかった。
 アクアのぼけっとした様子になにを思ったのか、ルビィが「そうだ!」と声を上げた。
「見に行かない?」
「なにを?」
「歌姫の公演!」
「だ、誰と? どうやって?」
「ユールみたいな聞き方しないでよ。あたしと、このチケットで。いいでしょ?」
 ルビィが同意を求めたのは、アクアではなくゴッドだった。許可のいるようなこととも思えなかったが、聞かれたゴッドは渋る。
「でもそれ、天界だろ。前のほうの席だったし、どういうつもりで渡してきたのか分かんねえしなあ」
「ええー? だめ? グロウも?」
 グロウも同じようにすっきりしない顔でチケットを睨んでいる。
「あんたらあ天冥初めてやお。そんな精霊二人、行かせてえいもんかねえ」
「じゃあじゃあ、精霊ってこと隠してもダメ? ゴッドがやってるみたいにさあ」
 おねだりポーズのルビィを、グロウは意外そうに見た。
「気づいちょったがや」
「ううん。いまさっき、お風呂で」
 アクアにはなんのことやらさっぱり分からない。それが顔に出ていたらしく、ゴッドがそっと訊ねた。
「ヒルダのとこで話してたの、覚えてないか?」
「ヒルダさんの? ……あっ、あー! 足の裏!」
 そうだった。昔ヒルダに魔法陣を入れてもらったと話していた。どんな陣だろうと思ってはいたが聞く機会を逃し、ゴッドの姿そのものを見ない日が続くうちにすっかり忘れていた。
「その魔法陣があれば、精霊ってばれないようにできるの?」
 一体どういう仕組みなのだろう。そもそもアクアには、世間が精霊のどこを見てこいつは精霊だと判断するのかも分からない。とにかく構造を読みたかったが、そんな陣書き心理など理解しないルビィが、
「やったげて!」
 とせがむ。
 ゴッドはそれを受けて、ゆっくりとまばたきした。
 瞬時には分からなかった。体のうえにある魔法陣であるため、魔力の動きは個人の内側で完結する。魔力感覚でもよほど鋭敏でなければその作動にすら気づかないだろう。
 もう一度、目を閉じる。開く。つむって、開いた。
「えっ? あ! いまの!」
 瞳の色だ。内から光るようなオレンジが、目を開けたときには暗い茶色に落ち着いていた。次の瞬きでまたその色が入れ替わる。
 瞳の色は魔力の色。これはフィーも教えてくれたことだ。アクアの水色も魔力が見せる色、フィーの緑もまた彼女の魔力あっての色だ。フィーの魔力はアクアとは桁違いで、あの髪の色もそのためだと言っていた。
 ルビィがなにか自分に手柄があったかのように胸を張る。
「どう? これで精霊ってわかんないでしょ」
「知ってるやつ相手には通用しないけどな」
「まあ天界にあんたらあの顔が分かる人間はおらんろう。けんどこれ、まあまあ値が張るで? それにルビィが使える強度らあて誰が書いてくれるがで」
 グロウの言葉を聞いて、アクアはほとんどためらいなく手を挙げていた。
「書く。おれに書かせて」
「やった! ありがとー、これで歌姫見れるっ!」
「アクアえいが? 明日までに実用レベルにできたら、で。完成せんかったらやめちょきいよ」
「つーかルビィ、いい加減に髪乾かせよ」
 ルビィがはしゃぎ、グロウが釘を刺し、ゴッドは水滴を散らす髪の毛を軽く引っ張る。
 アクアはゴッドに同意見だった。とにかくこの、初めて目にする魔法陣の構造を知りたい。ゴッドに見せてもらうしかないから、早くドライヤーを終えて手を空けてほしい。いそいそとカバンから紙とペンを探り出す。
 その間、ユールはずっと眠っているかのように静かにソファのすみっこに座っていた。

2020/12/7