=風の精霊ウィンディ=

歌姫 2

「そもそもね、アクアはどこの事務所も目をつけてなかっただけで、魔法陣はすぐにでも市場に出せるレベルなのよ。陣書き歴だって一年やそこらじゃないわよ。最初の一枚なんてもう残っちゃいないの。でしょう?」
 ヒルダの言いたい放題が急に矛先を変えて、アクアはほとんど流されるままに頷いた。それだけでは飽き足らず、言っておやりなさい、とばかりに視線が催促してくる。
「ええと、魔法陣は、ちゃんと覚えてないけど五歳くらいのときからずっと書いてて……最初に書いたのはちょっと光るだけの、簡単なやつなんですけど……使っちゃってもうないです」
 ごめんなさい、と謝るところなのかもよくわからないまま圧に押されて頭を下げる。上げたときにはニーサンがまたひょろひょろと立ち上がっていた。
「ほ、ほんとうなのか……? 使った? 五歳で初めて書いた魔法陣を?」
「え、あ、はい」
「うわあああマジだよ、オカマさんがマジの天才の卵拾ってきちゃったよ。始末係さんでも動く陣は九つかそこらで初めて書けたっていうのに」
 オカマさん、始末係さん。また名前とも思えない妙な名前が出てきた。
 そのうちの一方、始末係さんと呼ばれた女性が奥の机からすっと立ち上がった。
「私のは十歳のときよ。秘塔で専門コースに移った頃」
 今日聞いたなかで一等落ち着いた声だった。女性はふんわりとした淡いピンクのワンピースに黒くインクの散った白いエプロンをかけ、頭は完璧に剃り上げていた。照明をはじく見事なスキンヘッド。それが伏し目がちのクールな面持ちとマッチしているのかどうか、アクアには判断しがたい。
 女性は机の上の本をまとめて抱え、奥の廊下へと向かう。
「みんなはしゃぐ気持ちも分かるけど静かにね。私は寝ます。新入りくん、またね」
「……あれは始末係さんよ。いまのところうちのエース。仕事を選ばないプロフェッショナルなの」
 ささやくヒルダに、アクアもひそひそ声で返した。
「あのお、さっきから始末係さんとか消しカスさんとか、名前じゃない、ですよね?」
「あらそうだ、言ってなかったわね。うらろ事務所ルールで、うちではみんなあだ名で呼び合うの」
 雑な仕草でヒルダが同僚たちを指差していく。
「おっさん、ニーさん、消しカスくん――あなたが来るまでは新入りくん――、仮眠室に行っちゃったけど始末係さん、そして私がオカマさん。うらろ事務所フルメンバーよ」
 ヒルダは胸を張っている。ニーサンと消しカス青年もニコニコしているし、おっさん所長はさあ呼べと言わんばかりの期待に満ちた顔をしている。
 しかし、さすがのアクアにもこの一年ちょっとで手にした一般常識というものがある。
「……あの、それ……悪口、ですよね」
 ひとをカス呼ばわりしてはいけないし、オカマというのもからかうニュアンスがあるようだし、初対面のおじさんにおっさんなどと言ってはいけない。ニーサンはよく分からないが。始末係はどうだろう。物騒な響きではある。
 アクアの困惑を、おっさん所長が笑い飛ばした。
「ははは、そうだ悪口だよ。わざと言ってんのさ。そう呼ばれたくなきゃ実力で違う名前を手にしてみやがれってな」
「違う名前?」
 ニーサンが頷く。
「陣書きが手に入れられる名前といえば、あれしかないだろ。ルサ・イルさ。むちゃくちゃだろ。一生ニーさん間違いなしだよ」
「俺なんて消しカスっすよ。あ、でも安心して。いちばんの後輩は一律で新入りくんだから。しばらくは君におかしなあだ名がつく心配はない」
「でもお前、来て一月で消しカスに内定してたけどな」
「オカマさんのせいでしょ!」
「仕方ないじゃない、普通あんなに書いては消して書いては消してなんてやらないわよ。それでプロの仕事ができてるんだから偉い偉い」
「褒めるか貶すかどっちかにしてください」
 だんだんアクアにも読めてきた。
「消しカスがいっぱい出るから消しカスさん?」
「そういうことよ。おっさんは自称で、あとはみんな自然とあだ名になってたわね。始末係さんはみんなが嫌がる仕事を始末してくれるから始末係さん。ニーさんは……」
 ヒルダが急に口ごもった。アクアはきょとんとする。ヒルダがウッと苦しそうに唸る。アクアは自分がなにかしてしまったかとそわそわする。
「あ、あの、ヒルダさん?」
「見ないで、そんな純粋な目で見ないで……ニーさんの由来はその目が曇るときに分かるでしょう……」
「その予言も最低だからな」
 ニーサンが微妙な顔をする。
「ニーサンさんは魔法陣に関係ないあだ名なんですか?」
「思いっきり関係あるよ。というか、ニーさんのあとにさんはいらない。ニーさんと呼んでくれ。よろしく」
 ヒルダは要注意と言うが、いい人そうだ。よろしくお願いします、と返して、あとは明かされていないのはヒルダがオカマさんと呼ばれている所以だけだ。
 所長たちはにやにやとヒルダがくちを開くのを待っている。ヒルダは再度ぐうっ、と唸ってから語り始めた。
「私のはね、魔法陣は関係ないの」
 薄々そんな気はしていたが、アクアは黙って聞いた。
「そもそも私、魔法陣に関してそんなに特殊なクセとかヘキとかないのよ。書いたの見たでしょ。自分で言っちゃうけど割と普通」
 アトリエで見た陣を思い出す。基本を手堅く押さえた、教科書にも載せられるような整った陣だった。同時にそのときの発言も頭をよぎった。常識のないアクアにとっても不思議な発言。
「でもヒルダさん、魔法陣のこと恋人って」
「そうよね普通なにこいつ頭おかしいって思うわよね。でもここの先輩で、恋愛対象が魔法陣で、あるとき突然、結婚するので辞めますって寿退社しちゃったひとがいて……寿さんて呼ばれてるんだけど……キャラが丸被りで……」
 またもヒルダの語尾がぐるぐるとうなり声に近づいていく。所長がカウンター越しに笑って言った。
「要するにだ、魔法陣愛がアイデンティティだってのに、ここじゃてめえの愛は特別でもなんでもなかったってことだ。オカマが嫌なら精進することだな」
「分かってるわよ! 書くわよ! この愛のすべてをかけてね!」
「はいはい、そんで締切過ぎてる物件がいくつあったっけな?」
 ヒルダことオカマさんは、道具鞄を抱いて唸りながら机へと向かった。手伝いかちょっかいか、ニーさんと消しカスさんもそちらへ集まる。
 アクアは戸口に残され、所長――おっさんと顔を見合わせる。
「えと……おれはどうしたら……?」
「いやいやいや、そんなビビらなくたって取って食いやしないよ。今日は見学だろう? 作業場の感じとか、他のやつらの作品集とか、いろいろ見ていってくれ。書いたものがあるなら見せてくれてもいい。それか憧れの陣書きの話でもするか?」
「あこがれ……」
 フィーの蔵書はほとんどが大昔の本だった。有名人ならいまの大人も知っているのかもしれないが、アクアが気に入って真似していた陣書きが通じるかというと不安が大きい。
 だから、間違いなく誰もが知っている名前を挙げた。
「ルサ・イルです。おれ、ルサ・イルよりすごい陣書きになりたい」
 おっさんはちょっと目を見開いて、それから不敵な笑みを浮かべた。

2020/12/6