スノークス家を訪ねた翌週、アクアは再び魔界へ出向いていた。グロウを経由して、ヒルダから事務所見学のお誘いがあったのだ。
指定された場所は城下南の移動陣、時間はお昼過ぎ。アクアにとってはまだまだ慣れない待ち合わせだ。城壁の縁にいくつか並んだベンチへ腰を下ろしたものの、妙に手持ちぶさたで落ち着かない。ときおり移動陣から出てくる人影が、最初の一瞬は全部ヒルダに見えてはっとしてしまう。
無関係なひとと目が合ってしまって慌てて空へと逸らす。太陽は高く、この季節にしてはすこし暑いくらいだった。ルビィとユールはどうしているだろうと思う。
ふたりは今日も魔法訓練校へ出かけていった。ユールがクルスの勧めを断らないのはともかく、ルビィがユールについていくのが不思議だった。聞けば魔力感覚を使ってする鬼ごっこの鬼役に抜擢されているらしい。
ルビィが言うには、前回負け越しているから勝つまでは通うとのこと。そしてユールによれば、校長曰く多少の魔力感覚を身につけているとはいえ障害のある子供を本気で追い回してくれる人材は貴重なのだそう。どちらも納得のいくルビィらしい理由だった。
今日は駆け回ったら暑いだろうな。砂漠ほどではないだろうけれど。このときのアクアは、よもやルビィが精霊服を出して校長の微笑みを引き攣らせているとは想像もしなかった。
そして待ち人は来た。
「お待たせ、アクア。今日は保護者も見張りもいないのね? いないわよね?」
ヒルダは太いベルトの道具鞄を肩から提げ、長くはない髪をひとつに結んで、シャツのボタンをいちばん上と、なぜかおへその下あたりで外していた。顎のところにインクらしき薄墨の汚れがついて、目はアクアの周囲へとせわしく動き、すこし充血している。バタバタ出てきた、といった身なりだ。
「さあ行くわよ! 諸々の締切破りを提出しなきゃ。おっさんまた怒るわねえ、でも今日は手土産があるから大丈夫かしら」
こんにちはを言う隙もなく城壁へ入っていくヒルダを、アクアは慌てて追いかけた。合わせてくれる雰囲気ではない。手土産が他ならぬ自分だということに、アクアはまだ気づいていない。
ヒルダの案内は、途中までクルスの店を目指していくときと同じだった。それが通りを一本ずらし、クルスの店も過ぎた辺りで細い道へと折れて様変わりした。
裏路地。店や家の玄関はひとつもない、装飾のない壁に囲まれた狭い路は、建物同士が背中を向け合った隙間といった風情だった。ぽつぽつと並んでいるのは通気窓と勝手口ぐらいのもので、地面も表通りほど踏み固められておらずざらついている。
そんな中にも四つ角があり、そこを折れた左手に見えたのが、本日の目的地への扉だった。
背後も壁、扉のある建物の両隣も壁。この一軒だけが、角の平屋越しにようよう陽の光が届くような場所へ正面を向けて建っている。
その扉には小さな木のプレートがかかり、がさついた線で、うらろ事務所、と彫ってあった。
「うらろ……?」
「裏路地にあるからうらろ事務所。センスないでしょ。ま、そういうところなのよ。おっさーん!」
ヒルダは首を捻るアクアの疑問を軽く吹いて飛ばし、ノックもなくドアを開けた。
「来たか締切破り!」
アクアがなかを覗く間もなく、入り口の左側に設えられたカウンターからにゅっと伸びてきた腕がヒルダを捕らえた。
「待ちくたびれたぞ。待たせた分おまけに書いてきたんだろうな? 通信鏡に通信拒否の細工してる暇あったなら当然だよな?」
腕の主は薄く顎髭を生やした男だった。筋肉も脂肪もしっかりついた恰幅の良さは、野球部副顧問の体育教師を思い出させた。歳は担任の先生に近いように見えるが、アクアにはよくわからない。幼児だけでなく大人の知り合いもほとんどいないのだ。
ヒルダは道具鞄をカウンターに下ろすついでに男の腕を払い、おほん、と咳払いをしてさっと距離を取る。そして戸口で躊躇っていたアクアの背中を事務所のなかへ押し込んだ。
「今日は私のことに構ってる場合じゃないわ! みんな、お待ちかねの新入りくんよ!」
事務所は照明陣の調光で、窓の少ないことが気にならないくらい明るかった。教室よりもすこし狭いくらいの空間に大小六つの机があり、その間に形の違う椅子がばらばらと置かれている。机の上には紙の束や本が山になり、インク瓶が並び、ペン皿にもその外にも種々の筆記具が転がっている。右の壁一面は紙のロールや様々な道具類を押し込んだ荷物用の棚で、カウンターの向こうの壁は本の詰まった棚で埋まっていた。正面にはタイル敷きの流し台と、奥へ続く廊下もある。
すう、と息を吸う。古い紙と新しい紙、糊とインクと薄め液の臭いが混じり合って部屋中に立ちこめている。これまで自分だけで向き合ってきた数十センチ四方の世界のにおいが、ここでは壁に床に天井に染みついて、体中に流れ込んでくる。
その光景のなかから、ひとりの男が歩み寄ってきた。これといって特徴のない、真面目そうな雰囲気の青年だ。青年はアクアを覗き込み、両の拳をぐっと握って喜色を浮かべる。
「やった、新入りだ! これで俺も新入り卒業だ!」
「新入りって、消しカスくんのことはもうみんな消しカスくんて呼んでるじゃない」
「そうだぞ消しカス。でもこれで正式に消しカスってことか。おめでとうな消しカス!」
ヒルダと、入り口近くの机についていたひょろひょろと背の高そうな男が言う。
消しカス? と首を傾げるアクアに、ヒルダは青年のことを紹介した。
「彼は消しカスくん。ここの事務所で一番の若手よ。消しカスを撒き散らかすのが趣味」
「趣味じゃないっすよ! 書く、消す、出る、自然の摂理でしょう」
とても人物紹介とは思えなかったし、消しカスくんさんとやらの言い分もアクアには理解できなかったが、ヒルダは構わない。続いてカウンターに立つ髭の男を示す。
「若手の次は最古参ね。こちらうらろ事務所所長こと、おっさん。ご覧の通りのおっさんよ。腕が折れても書かせる悪徳業者」
「よろしくな」
「よ、よろしくおねがいします……」
おっさんこと所長は、アクアがおどおどと差し出しかけた手をぐいと掴んだ。上に一回、下に一回大きく振られて、分厚い手が離れる。
「無所属なんだって? 秘塔じゃないだろう、独学か? 歴はどのくらいだ。いや、まず歳はいくつだ?」
「え、えと、じゅうさん……」
矢継ぎ早に繰り出される質問の、最後にだけはなんとか答えた。それを聞いてひょろひょろがにわかに立ち上がる。
「十三歳! なんてこった! きみ、書いたもの残しておく派? 処女作は? パパが額に入れて飾ったりはしてないよな、持ってこれる?」
「あの、おれ」
「ニーさん! やめなさいみっともない」
ひょろひょろの襟首をヒルダががっしり掴んで引っ張った。そのついでとばかりに紹介してくれる。
「これはニーさん。ド変態の要注意人物よ」
「ひどい言いようだな。そっちだって魔法陣のことそういう目で見てるくせに」
「私のは純愛なの! 一緒にしないでくれる?」
ヒルダが突き飛ばすようにニーサンの襟首を離し、彼はその勢いで椅子に戻って足を組む。罵倒を気にも留めない様子に、ヒルダはふんと鼻を鳴らした。