家主は数冊のノートを抱えて戻ってきた。
「古いけど書き溜めてたのがあったわ。これでよければ持ってってちょうだい。不足は書き足すから教えて」
「おう」
色も大きさもまちまちのノートを受け取り、ゴッドは先ほどの剣幕が嘘のように、黙って中身を検分し始める。
家主はほっとしたように椅子にドサリと腰を落とし、散らかったままのテーブルに身を乗り出した。
「お待たせしました。さあ、グロウの用件を聞こうじゃないの。その子、紹介してくれるのよね?」
「そうやけど、まずはアクアに紹介しちゃらんと」
グロウが先ほどと同じく手のひらを上にして、アクアに家主の女性的な笑みを示す。
「こちら、うちのフェミーエ保険相談事務所のお取引先、アトリエヒルダのヒルダさん」
「グロウとは開業以来の付き合いよ。よろしくね」
「よ、よろしくお願いします」
グロウは続けて、ぺこりと頭を下げるアクアをヒルダに紹介する。
「こちら、水の精霊アクア・ウォーティ。うちらあとは、人間界で一緒に住むようになって一年ばあ経つところ。所属なし」
ごく簡単な説明に、ヒルダは柔らかな印象の目をかっと見開いた。
「精霊!? 一緒に住む!? ちょ、ちょっと待って。いろいろと聞いてないことが多いんだけど!?」
「言うちゃあせんきね。どこの事務所も入ってない将来有望そうな陣書きがおるでってことしか。詳しい教えたり、作品見せたりしたら、あんたのことやき勝手に妄想が一人歩きするろ」
そうなの? とアクアが問うが、グロウは冷静な横顔を保ったまま答えない。ヒルダはいまにも立ち上がる勢いだったのを抑え、
「それもそうね……そうだ、作品は? 今日なにか持ってる?」
アクアがまだ持っているとも答えないうちから、期待たっぷりの両手を差し出してくる。
出すかどうか、アクアは迷った。けれど結局ヒルダの明るい圧に押されて、ポケットからカードに書き記した魔法陣を取り出した。実は早く屋内に戻りたくてルビィには隠していた、今日の最後の在庫だ。
ヒルダは小さなカードを受け取ると、
「あらー! まあ、まあまあまあ!」
そんな感嘆の声を皮切りに、止めどなく論評を垂れ始めた。
「とっても繊細なのね、素敵ね。バランスがいいわあ。よくこの細さで統一できるわね。真ん中にメインの装置を置いて、全方位で支えて強度を補完してるのかしら。このやり方は限界があると思うけど、よく練ってある! 素晴らしい! しかもこれってフリーハンドじゃない? この円は見込みがある、あるわよ、絶対! もっと素朴で可愛い感じかと思ったら意外とクールな線なのね。うーん、でもこのタイプの陣ならもっと大きく書いた方がいいわね。小さくまとめるのは大きい陣で構成をいろいろと試してからの方がうまくいきそうだわ」
ぱっと笑み、うっとりと眺め、端から端まで視線でたどって、また見惚れて分析し、うんうんとひとり頷く。アクアはヒルダの百面相を戸惑いながら見つめた。
いままでルビィたちに陣を褒めてもらったことはあったが、それは使う側の感想だ。これが初めての、魔法陣の専門家に自分の陣を見てもらう瞬間だった。そう思うと緊張して、ヒルダの独り言に近い早口がきちんと理解できない。細くなる声で、おそるおそる尋ねる。
「ど、どうですか……?」
「私は好きよ、あなたの陣」
間髪入れずに返事をされて、アクアはほっとしてカードを受け取った。隣ではグロウが、
「そうと思うた」
と頷いている。
「そうだ、私の陣もぜひ見てちょうだい」
ヒルダはゴッドに詰められていたときとは打って変わってうきうきとした表情で、そのゴッドの手からノートを取り上げ、ばらばらとページをめくってアクアの前に差し出す。
「おい」
「見て見て、私の陣はこういう感じよ」
ゴッドが横目に睨むのも無視して楽しそうに示されるページを、アクアはためらいがちに覗き込んだ。そして息をのむ。
「わあ……」
そこには大量の魔法陣があった。その多くは本として整った状態とは違う数々の試し書きだ。アクアにとって、陣書きに見られるだけでなく、陣書きの日頃の書き溜めを見るのも初めてだった。
ヒルダの陣は、優しい強弱のついたやわらかな曲線が優位な、丁寧な陣だった。全体を細く整えたアクアの陣とはまた違う。ページの隅にはぞんざいな書き殴りもあるが、そんな試行錯誤の過程もアクアには新鮮だった。構成も基本に忠実できわめて手堅く、安定感と優しさがある。
「おれも、ヒルダさんの魔法陣好きです」
素直にくちにすると、ヒルダはノートを抱きしめてでれでれと破顔した。
「そう言ってもらえて嬉しいわ。この子たちは私にとっては恋人なの。大好きな恋人を褒められると私まで嬉しくなっちゃう!」
その手から、ゴッドがノートをさっと奪う。
「なにが恋人だ。後ろ三ページ、納品しろよ」
角を折って印をつけながらの要求に、ヒルダははいはいと答えて聞こえよがしなため息をつく。
「はーあ、なんでこんな可愛くない子に育っちゃったのかしら。私が魔法陣入れてあげたときは、こーんなちっちゃくて、きゃんきゃん泣き喚いてて、すっごく可愛かったのに」
「そんなに小さい訳ないだろ」
椅子の下まで伸ばされた手をゴッドが冷ややかに見る。ヒルダが言うほどではないにしろ、小さい頃のゴッドというのは想像がつかない。が、アクアにはそれ以上に聞き逃せない部分があった。
「魔法陣を入れた?」
「知らん? アクア、力移しも知らんかったもんね」
「ううん、知ってる。けど、体に陣を入れるって、じゃあ」
グロウのフォローが入るが、アクアだって陣書きだ。それくらいは知っている。というより、フィーの言葉によればそれは陣書きの基本中の基本だ。
体に魔法陣を書き入れること。それは体に特定の魔法の回路を持ち続けるということ。外部の魔法陣を使うことにはほとんど支障がない。けれど自ら魔法陣を書こうとするとき、その回路は大きな障害になる。だから陣書きは絶対に魔法陣を入れちゃだめよ、と。
それに精霊は、精霊服や剣の機能に助けられているとはいえ、身一つで魔法を使う立場だ。体に入った魔法陣は、陣を書くときほどではなくとも多かれ少なかれ影響するだろう。
「そっか、だからゴッドの魔法陣てなんか違ったんだ」
「もともと魔法陣向いてねーからいいやっつって入れたんだよ。ヒルダから買うようにするなら、自前で書く必要ねえし。にしても、なんも言わねえからもしかしてとは思ったけど、気づいてなかったんだなあ」
「でも、陣書いてもルビィと違って一応ちゃんと動くよね? それに普段の魔法もそんなに苦労してる感じもないし。あと、どこに入れたの? 全然気づかなかった……」
混乱するアクアに、グロウが一つずつ答えていく。
「精霊やきね。魔力の規模が大きいがと、その魔力をコントロールしてきた経験で、世間一般ほどには能が悪うならんがよ。魔法陣は日常生活で見えんくに入れるががセオリーやけど、ゴッドは足の裏やね。ヒルダがそればあ面積ないとよう書かんて言うたき」
グロウの評価にヒルダが異を唱えた。
「だから、こんなにちっちゃかったって言ったじゃない。その上泣いて暴れる子供なんだから、安定して書ける場所なんて限られてるのよ。じっとしてられる大人ならもっと縮小して書けるし、場所だって選び放題よ」
「だからそんなに小さい訳あるかよ。アトリエ開業の頃だから十一歳だぞ」
十一歳。アクアは指折り数える。四年前だ。その頃アクアはフィーとふたり、庭園で平和に魔法陣を書いて過ごしていた。それが世間では売買され、職業として認知されているものとも知らず。そんな頃からグロウとゴッドは仕事をしていたのだ。
でも、そんな年で体に入れるほど常用する魔法陣とはなんだろう。
疑問に思ったが、それを聞く隙もなく、ヒルダとゴッドの親しげなのかどうなのかよくわからない言い合いが流れていく。
「うるさいわね。まあ、大きくなったところで大人の女性の扱いがなってないうちはダメね」
「女は嫌いだ」
「……私は男と言えなくもないわよ」
「女のほうがより嫌いなだけで、男も嫌いだ」
「私の渾身の妥協を踏みにじらないでくれる?」
「自分の妥協を守ろうとする前に、一日延ばしてやった納期を守れよ」
ばさり、ゴッドがいくつかのページに印をしたノートを、グロウの前に回す。
「この調子やと、ほんまに五分の一冊ばあしかないねえ」
「最悪、事務所に入れた分を取り返してくるわ。今夜にでも連絡すれば間に合うはずよ」
「今しろよ。そういうとこだぞ、お前の仕事できなさの根っこは」
次のノートに取りかかりながらゴッドが釘を刺した。ヒルダは机に散らかった諸々のなかから新しい紙とペンを引き寄せて、ペン先にインクを吸わせる。注文の品を書き足すのだろう。そうなるともう窓辺にある通信鏡まで腰を上げるのが億劫なのは、アクアにも理解できた。
その様子を見ていたグロウは、よし、とひとり頷き、受け取ったノートをヒルダの方へ返した。
「今回は、これはえいわ。きちっと規格の揃うた状態で一括でもらいたい。……納期そのもの延ばすがやないで? それまでゴッドがなんべんでも催促するきね。まあ頑張って仕上げてや」
「俺かよ」
と言いつつゴッドも異論はないようで、中身をたしかめていたノートをあっさりと手放す。
「遅れる分は交渉するしかねーか。まあ半端なもん見せる方が不利になりそうだしな。ヒルダも、事務所に出した分をこの陣売るから引き上げるっつって変に勘ぐられても迷惑だろ」
「それもそうね。ところで、じゃあ今日のお仕事は例の特殊な方?」
ヒルダの不思議な問いかけにアクアが首を傾げるのを横目に見て、グロウは一瞬ためらいを見せたのちに首肯した。
「そう。精霊狩り探し。経費使う口実なだけで、厳密には仕事やないけどね」
「なら私の前ではお仕事ってことで正解じゃない。精霊ってたいへんね。私は普段の仕事じゃ書かない魔法陣が書けて大満足だけど」
「最初の納期までに書いてくれたらうちも大満足ながやけど?」
「はいはい。そういう事情のやつなら早く言ってよね。出来たらすぐ連絡するから。それと、えーと、アクア・ウォーティくん」
急に名前を呼ばれてアクアはびくっと肩を跳ねさせた。
「っはい!」
「グロウの依頼が済んだら、ぜひうちの事務所に紹介させて! おっさん……所長もきっと気に入るはずだから!」
ヒルダが机越しに右手を差しだしてくる。アクアが同じように手を出すと、左手も伸びてきて両手でがっしりと握手された。
手のひらは温かく硬い。陣書きを生業とするひとの手は、アクアよりずっと荒れた手だった。
ヒルダはその感触通り力強く握った手を放すと、隣で椅子を立ちかけていたゴッドの背をばしーんと叩き、同じく離席する姿勢にあったグロウへひらひらと振って、
「それじゃ、お互いお仕事頑張りましょ!」
満面の笑みで言った。それはアクアにもわかるぐらいの、いまひととき締切から解放された喜びの笑顔だった。