=風の精霊ウィンディ=

陣書き 3

 ルビィの家の移動陣から城下を経由し、アクアが連れていかれたのは小さな町だった。聞けば城下からは大きな川を挟んで北東に位置するらしい。
 アクアはまだ魔界の地図を満足に描けない。精霊の土地は城下より西側に集中しているため、東部はより縁遠い地域だ。こんな町があることも知らなかった。
 広場の片隅に設置された屋根付きの移動陣を出て、先頭を行くグロウが放射状に広がる道のひとつを選ぶ。道は広場からタイル敷きが続き、左右に石と木を組み合わせた民家が並んでいる。そのタイルが途切れたあたりでグロウが足を留めた。
「ここで」
 と紹介されたのは、周囲の民家から比べると一段立派な、二階建ての家だった。前庭や門はなく、土地いっぱいを使って広く建てられている。窓は小さいものがいくつもあるが、レースのカーテンがかかっていて中の様子は窺えない。玄関は明るい色の木の扉で、隣に小さな看板がかかっていた。
「アトリエ、ヒルダ……」
 何で書いたのか分からないが、バランスの良い優美な字体だ。
 感心するアクアの後ろから、ここまで黙ってついてくるだけだったゴッドが扉へ歩み寄った。移動陣を使い終えて精霊服は消しており、普段着かと思ったらシャツにジャケットの仕事着だった。普段着どころか袖にインク汚れをつけているアクアは、自分だけが場違いな気がして不安な目でグロウを見やる。だいじょうぶ、と声を出さずにグロウがささやく。
 ドアにノッカーはない。呼び鈴の類いも見当たらない。
 ゴッドは三度、ドアを叩いた。数秒待つが返事はない。また三回、ドアを叩く。そんなに厚い扉ではないのか、ごんごんごん、と音はよく響いてアクアたちにも聞こえた。返事はない。
 ゴッドがくちを開く。
「いるんだろ?」
 と、
「い、いませーん」
 くぐもった小さな声が答えた。聞こえ方からして、ドアのすぐ内側から発したものだ。
「そうか、いないんだな」
 まったく真に受けていない声音で言いながら、ゴッドが躊躇なくドアノブに手を掛けて引いた。
「ぎゃっ!」
 と家の中から声がして、人が通れるぎりぎりの幅に開いたドアがすぐさま閉まろうとする。しかしゴッドは一足早くその隙間に靴をねじこんでいた。
 家主は何度もドアを閉めようとして、そのたびにがつがつと扉が靴を挟む。が、ゴッドは平然と、いっこうに閉まらない隙間から家の中へ向かって呼びかける。
「なんだよ、いるじゃねえか」
「分かってるわよ下手な居留守だったことくらい! こちとら締切明けで脳みそ使い果たしてんの! いまの私に理性を求めるんじゃないわよ!」
「へー。なら仕方ないな。靴が傷むからやめろと言いたいとこだけど、気が済むまでやってくれ」
 バタバタと暴れていたドアが止まった。観念したように大きくドアを開き、家主が顔を出した。
「腕が疲れたわ。もういいからどうぞ上がりなさい」

 アクアたちは、土足の家の、ほぼ真ん中に位置すると思われるリビングテーブルに通された。
 家主ではなくグロウに勧められるまま、アクアは椅子の一つにかける。家主はというと、その対面に座るなり、淹れてあった、というより残っていたという風情のお茶をすすって大きくため息をついている。
 その人はたぶん男なのだろう、とアクアは思った。女性の顔には見えないし、ゴッドほどではないけれど背も高いし、体格もしっかりしている。肩につくかつかないかで揃えられた真っ直ぐな茶髪は、男女どちらでも普通に見かける髪型だ。グレーのカーディガンも、淡い緑のニットも、ゆとりのある紺のパンツも、誰が着ていてもおかしくない。なんとなく、玄関先で聞いた受け答えは女性のようだったけれど。
 だが、そんな不思議もアクアにとっては些細な問題だ。どう見たって分かる、その人は間違いなく陣書きだった。
 マグカップの持ち手に絡めた指で主張する分厚いペンだこ、小指の第二関節から手のひらの脇を染める灰色、爪のふちのインク染み。そして、テーブルを埋め尽くす紙、紙、紙、インク瓶とペン皿。
 コップを空にした家主は、アクアの隣に座ったグロウへと顔を上げた。
「で、その子が例の陣書きなのね?」
「そうやけど、先にそっちの用件から聞いちゃって」
 すっ、とグロウが手のひらを上にしてゴッドを示す。ゴッドはテーブルに手を突き、ゆっくりと家主の隣の椅子を引く。家主は自分の椅子から飛び退いて、壁伝いに開け放した階段室のドアまで逃げた。
「先回りで言っとくわ。今日がなんの日か覚えてる。納品日でしょ。あなたの借金取りさながらのノックで思い出したわ」
 焦ったような早口に、ゴッドがあきれ顔で振り返った。
「借金取りって……取引先に言うことかよ」
「ドアに靴挟んでおいてよく言うわ! どう考えても借金取りでしょうが!」
「すげえ力説するけど、取り立てに遭ったことあんの? つーか、そんなことより仕事はできてんのか?」
 家主が目を伏せた。その口元には不自然な笑みの形が浮かんでいる。
「できたわ。できてた。今朝までは」
「だろうな」
 ゴッドの声が急激に冷えた。壁に貼りついている家主はもちろん、はたから見ているだけのアクアもその威圧感に肩をすくめる。そんな中、ひとり顔色を変えないグロウが、テーブルに散らかった紙の内の一枚をゴッドの手元へと滑らせた。
「納品書。事務所用やね。偶然やけどうちが頼んだがとおんなし魔法陣」
 取り上げた紙を、ゴッドは家主へと突きつける。翻ったときに紙面が見えた。納品書という文字の下に数字の入った表があり、左端に定期課題という言葉が記されていた。
「こういうの、横流し、って言うんじゃねえの」
 次いで、家主が口ごもりながらなにか言い返そうとするのを遮るように発された声に、二時間ドラマでしか借金取りを見たことのないアクアも家主の言い分を理解した。
「事務所の方は定期だろ、そっちがあんのも事前に分かった上でうちの仕事請けてんだろ。だったらなんで間に合わない? こっちの発注たった一冊だぞ。同じもん事務所に五冊出せてどうして一冊ができねーんだ? 分かるか? いつまでも見逃してもらえると思って舐めてんだろ。なあ、話聞いてんの?」
 思いっきり、ひとを追い詰める話し方だった。それはグロウの役回りだと思っていた。というか、グロウがゴッドを言い込める場面ばかり見てきた気がする。ここまで上から物を言うゴッドを見るのは初めてだ。
 思わずグロウの方へ身を寄せると、グロウはアクアの手を優しく握ってくれて、
「まあ見より。言うたら茶番やき」
 ものすごく楽しそうに、アクアにだけ聞こえる音量で言い放った。
 その間もゴッドと家主の受注品をめぐる攻防は続き、
「は、半冊……いえ、三分の一冊……ぐらいならあるわよ」
「持って来いよ」
「……五分の一冊だったかも」
「いいから出せっつってんだろ」
「半日! 半日ください!」
「ふざけんなよ! お前今日が納品日だと思ってるみたいだけど、昨日だかんな! そこのカレンダーなんのためにかけてんだよ!」
「うっ、嘘!? や、やだあ、ほんと……」
「ぜってー覚えてただろ!」
「二時間! 二時間で仕上げるから! 待ってて!」
 家主が階段を駆け上がって消える。ゴッドが、はあ、と声に出してため息をつく。グロウはやっぱり楽しそうに、
「ごくろーさまー」
 ぱちぱちぱち、といかにも気持ちのこもってない拍手をする。アクアもなんとなく手を叩いてみたが、
「アクア、それやめてくれ」
 ゴッドに複雑な顔で止められた。

2019/9/12