リビングではお兄ちゃんと、その対面に座ったグロウがあたしたちを待っていた。
「どうやった? ここから見ゆうぶんにはだいぶ派手なかったけど」
「楽しかったよ。でもまだまだ練習が足りないかなあ」
答えながら、精霊服を消してお兄ちゃんの隣に腰を下ろす。うちの温度調整は簡単な魔法陣だけで、特別涼しいわけではないけど、日が差し込まないだけでも快適に感じた。
アサナギとユウナギが、リビングの隅の、うちでいちばん冷たい板の間でひっつき合って眠っていた。もともと動物みたいによく寝る二人だったけど、最近は起きてるときのほうが少ない。
アクアは荷物の置いてあったグロウの隣にへろへろと座って、なにも言わずにお兄ちゃんが差し出したコップを受け取って飲んでいた。
「アクアはこっちにいて、魔法陣書けたら持ってくるようにしてたらよかったかもな」
そう言うゴッドは、ユールをあたしの横に座らせて、精霊服も消さずに立っている。
「これからどっか行くの? 仕事?」
そう聞くと、答えたのはグロウだった。
「半分正解。アクアに会わせたい人がおってね、クルスさんともその話しよったが」
「おれ?」
空になったコップを両手で持ったまま、アクアが不思議そうな顔をする。お兄ちゃんを見るといつも通りにこにこしていた。グロウもにっこりして、アクアのほうへ身を乗り出し、
「アクア、陣書きの仕事してみん?」
「陣書きの仕事……?」
おうむ返しのアクアに、あたしはすかさずつっこんだ。
「もうしてるじゃん。グロウ、お金払ってるんでしょ」
あたしも詳しい中身は知らないけど、アクアはたまにグロウから仕事で使う魔法陣を頼まれて書いていた。いちおうあれはタダじゃないと言ってた気がする。
「そんなもんやのうて、ちゃんと事務所で勤めてみんかってことよ」
「事務所……」
またもアクアは繰り返す。
そういえばそんな話をしていたなあ、とあたしは数日前を振り返る。
人間界で暮らし始めてほとんど一年が経った。あたしたちは椎羅や椎矢と一緒に中学二年生になり、ゴッドは宿泊研修をさぼったけど特に問題なく中三になり、ユールは卒業式と入学式をして高校生になった。といっても、敷地は一緒だし校舎は隣だし制服はそのままだけど。背が伸びた分はお兄ちゃんが裾出しをした。
そんなこんなで人間界生活のペースも体に馴染み、冬休みと春休みはもちろん、新学期が始まった最近も、グロウとゴッドは精力的に仕事をしていた。
アクアはその仕事用や魔界の家用、自分の練習に遊びにあたしの特訓にと、ほとんど毎日魔法陣を書き続けている。特に海で使った、魔力を強制的に引き出す陣に思うところあるようで、その改良となるとつい夜中まで机に向かってしまうこともあるらしい。あたしは寝てるから知らないけど。
自分も夜更かししてその様子を知っていたグロウが、その日も魔法陣に夢中で夕飯を逃しかけたアクアに言ったのだ。
「精が出るねえ。そればあ延々書き続けれたら、どこの事務所行っても引っ張りだこやね」
それを聞いたアクアは、きょとんとして首を傾げた。そこで出てきた言葉はさっきと同じ、
「事務所……?」
なんと、って言うほどのことじゃないか、やっぱり? さすが? アクアは陣書き事務所というものを知らなかった。城下を歩いたとき、何軒か前を通ってるんだけどね。本屋でカタログも買ってもらってたし、フィーの家から持ってきたという蔵書にも大手事務所が出してるものもあったのに。魔法陣そのもの以外には好奇心とか働かないのかなあ。
さておき。どうやらその頃から、グロウの頭にはアクアを事務所に入れようという算段があったようだ。
「うちがいっつも注文しゆう人、個人でも仕事受けゆうけど、事務所にも籍あってほんとはそっちがメインながね。働くかどうかはともかく、話聞いたり作業場見せてもうたりできて面白いと思うで」
「それぐらいなら……ちょっと気になるかも」
他の陣書きに会ったことないアクアは、控えめにうなずきながらも興味津々な顔をしていた。
「よし、決まり!」
グロウが軽やかに立ち上がって、背もたれにかけてあったジャケットを羽織る。シンプルなワンピースから急にお休み感がなくなってお仕事スタイルになった。ゴッドは移動陣係らしく、精霊服のまま、
「じゃあ。おじゃましました」
手を振って見送るお兄ちゃんに、軽く会釈して部屋を出て行く。
「いってらっしゃーい。がんばってねー」
「い、いってきます」
手提げの紐を握りしめ、結局緊張しているアクアを、あたしも大きく手を振って見送ってあげた。
三人の出て行ったドアが閉まると、お兄ちゃんが、ふふっ、と笑い声をこぼした。
「なあに?」
「いや、ほんとうに一緒に暮らしてるんだなあって。楽しそうだなあ。すこし羨ましいよ」
「お兄ちゃんもあたしと一緒に住みたい?」
わかりきってることを聞いてみる。お兄ちゃんは期待通りに大きく頷く。
「そりゃあもちろん。でも、ルビィが人間界に住むのも、俺はずっと賛成だよ。いってきますって出かけて、ただいまって帰れる場所はいくらあったっていいんだ」
それは、アクアのことだろうか。それとも。
ちらりと隣を見る。いつもの無表情で、ユールがちょこんと座っている。長い前髪の間から、真っ青な瞳が正面だけをじっと見ている。ここまで一言もなし。アクアが萎縮してたのもこの強烈な視線のせいじゃない? と思ってしまう。
振り返ると、寝ているアサナギとユウナギは、暑くなったのか丸まった姿勢から大の字に変わっていた。こっちのほうが起きてるユールよりよっぽどよく動く。
「ユールに用があったの?」
「そう。ユール、これはヒュナの許可を得ている話なんだけど、俺からユールに、行ってみたらいいんじゃないかって思うところがあるんだ」
お兄ちゃんは身を乗り出して、優しい顔でユールを覗き込んだ。そうして、その場所のことを説明し始める。