ふわり、と緩い風が吹いた。
その微風は帽子に押さえられた髪の毛の先をほんのわずかに揺らしただけで、砂粒を舞い上げることもマントをはためかせることもしない。でも、いい風向きだ。
左手に提げた剣を振り上げる。右手の小さなカードに書かれた魔法陣を炎天にかざし、風に乗せる。さっきの自然風よりいくらか強い、あたしの風が、魔法陣を剣先へと運び、
「いまだっ!」
分厚い金属と細やかな曲線が触れあった一瞬、魔法陣へと魔力を流し込む。
どうっ! と激しい唸りをあげて風が弾けた。
踏ん張った右足が反動で砂に埋もれる。背後でばたばたと暴れるマントに体が持っていかれそうなのをこらえ、あたしは吹き荒れる砂を腕で避けながら顔を上げた。風は巨大な空気のうねりとなって進み、くっきりと白い曲線を描く砂の地平へと向かい、大きな砂丘の腹にぶつかって盛大に砂をまき散らした。
その後方、風のしっぽの辺りに巻き込まれて飛んでいった魔法陣を、砂の小山の陰からにゅっと突き出した手が捕まえた。その手が引っ込むと同時に、砂の山を崩しながら人影が立ち上がる。
人影は、被っていたボロ毛布――お兄ちゃんが小さい頃使ってたやつだ――をばさりと脱ぎ捨て、黒尽くめの姿をあらわにする。上下真っ黒、なんの装飾もない立て襟は、雪の精霊の精霊服だ。真昼の砂漠では、いくら精霊服に温度調整機能があると知ってても、見ているだけで暑い。だけど当のユールは日を浴びて熱を持っているであろう長い黒髪を払うこともせず、淡々とこちらへ歩き出してくる。
そのうちに、空高く吹き上げられていた砂がぱらぱらと雨のように降ってきた。
「おおー、こんなに飛ばしてたんだ」
晴れ渡った青空を曇らせる、とまではいかないけど、頬を打つ砂はすぐには絶えない。それを、ふいに淡い日陰が遮った。
「おおー、じゃないだろ」
ボロ毛布――こっちはあたしがついこないだまで使ってたやつだ――を庇代わりに差し掛けてくれたのは、あきれ顔のゴッドだった。
ユールと同じく精霊服姿で、砂避けのために顔まで引っ張り上げていたスカーフをおろし、日陰のなかから手を伸ばしてあたしの顔についた砂を払ってくれる。あたしは喉をそらしてされるがまま、
「でもいまの、なかなか気持ちよく決まったよ? 出だしは魔力が引っ張られてく感じだけど、風になってからは思い通り――ふにゃっ」
いい気持ちで感想を語っていたら鼻をつままれた。
「なにが思い通りだよ。なんの練習か忘れたのか? 思いっきり向こうまで吹っ飛ばしやがって」
そう言うゴッドのそばへユールが戻ってきて、魔法陣の書かれたカードを手渡した。
「ありがとな」
「どういたしまして」
お決まりのやりとりのあと、カードはあたしの手へ返ってくる。どこか可愛らしいぐらいの繊細な図形の集まりを、あたしはもう一度空にかざした。
「こう、最初のぶわってなったときに持ってかれちゃうんだよねー」
魔法陣はあたしの魔力を引き出す。あたしはその魔力を風に変える。風はあふれたそばから魔法陣を天高くさらっていく。そうなるともう手は届かない。仕方ないことだ。
「そこだよ。そのタイミングでお前は全身で魔法を使ってる。それは意識できたか?」
「うーん、たぶん」
風を体で支える感覚、とでも言えばいいのか。それはゴッドの言うとおり、全身で魔法を使ってるっていうことだろう。
「そのときに体と魔法を意識的に切り離すんだよ。魔法は魔法だ、たとえ物理的な反動があっても、それも魔力でコントロールできる。体はそれとは別に動かせば、飛んでく前に魔法陣の一枚捕まえるくらいできるだろ」
「うええー、難しいよおー」
あたしの魔法はいつだって思いっきり全力だ。でも、敵と相対したときにこれをやって切り札である魔法陣が敵の手に渡ったら、いくら使用済みでもよろしくない……とご指摘を受けて、あたしはこのところ、魔法陣を手元に残したまま魔法を使う練習をさせられていた。
いままで使ってこなかった神経を使うみたいで疲れるけど、魔法を連発できるのは楽しい。
「よっし、もう一回!」
毛布の屋根を飛び出して振り返ると、
「ええ? まだやるの……」
ゴッドの足許から、日光と照り返しに溶けてしまったみたいな声が抗議した。抗議といっても、もともとの甘ったるい声がさらにでろでろになっていてなんの迫力もない。
「おれ、もう在庫切れちゃったんだけど」
パーカーのフードを上げながら、ほとんど砂に突っ伏す姿勢だったアクアが起き上がる。うずくまっていたあたりにはさっき使ったのと同じカードが数枚あって、けれど一枚の書きかけを除いて他は白紙だった。
「もうないの!?」
「ないよ。何枚使ったと思ってるの。こんな短時間じゃ増産にも限界があるし」
アクアは頬を流れる汗と貼りついた髪の毛を手の甲で拭いながら、右手のペンをしゃかしゃかと振った。
「暑い……インクの乾き方が早すぎて、なんかいまいちきまらない……」
「精霊服出しなよ。暑いのはそのせいでしょ」
「……落ち着かないんだよ」
眉を寄せたまま、アクアはせっかく書きかけていた魔法陣をポケットにしまった。
この日差しでは精霊服を出していたって涼しく快適とはいかないし、直射日光に体力を奪われることまでは避けきれない。だけどただの長袖パーカーにフードを被っての日除けとは段違いだ。それでもアクアは、どうしてもあの精霊服がダメらしい。へんなとこだけ頑固なんだから。
「ね、もう一枚書いてよ。これで最後にするから!」
アクアの目の前にしゃがみこんで、くたびれた顔を覗きこんでお願いする。ゴッドとユールが影を作ってくれているけれど、それでもじゅうぶんに砂の地面は焼けていた。
「無理だって。それに、飛ばさない練習だけならおれじゃなくてもよくない? 誰か書いてよ」
「誰かって?」
そう尋ねると、アクアはあたしをじっと見て、
「ルビィは絶対書けないし」
「ちょっとー!」
「ゴッドは、あー、まあ動くか……でもびみょう、だし」
「おまえ魔法陣のことになると言うよな」
「ユールはサンプルないと書いてくれないし……あ」
首をひねったアクアは、あたしの手元で視線を止めた。
「あった」
「これ?」
さっきユールが捕まえてくれた陣。これをそのまま書いてくれたらちょうどいい。
「そっか。じゃあユール、これで一枚書いて――うわっ!」
風が吹いた。あたしのじゃない、乾いて熱い、本物の突風だ。ばっ、と砂が激しく吹き付け、目を開けていられないうちに数秒が過ぎ……風がやんだときには、手のなかにあった魔法陣はどこかへ消えていた。
「あー!」
これでサンプルなし。もう誰も書けない。あたしより先に、アクアのほうがうなだれた。
「そんな……持って帰って改良したかったのに……」
はああ、と吐き出されたため息にかぶせるように、背中のほうから声がする。
「おーい、みんなー! そろそろ引き上げておいでー」
振り返ると、家の窓を開けてお兄ちゃんが手を振っていた。