=風の精霊ウィンディ=

台風 7

 リビングのソファに身を沈めて、アクアはぼんやりと天井を仰いだ。家に帰ってきた。そう思うとほっとする。移動鏡を通る前に比べると、まといつくようなだるさと、自分の髪に残る潮の香りは確実に薄まっていた。
 不思議なものだ。アクアの家はあの庭園のなかにしかなかったのに、いつの間にかここは紛れもなく帰るべき家になっている。一瞬、ものすごく悲しい気持ちが胸をよぎった。そしてすぐ圧倒的な安堵に塗り戻される。自室の、たぶんめくったままになっているであろう布団と、あの庭で木漏れ日を浴びて微笑むフィーの姿が同時に浮かぶ。
 そこへはっと、海の光と、頬を打つ風が入り込んだ。砂の粒が散って、マントがばたばたと音を立てて波打ち、それさえ聞こえなくなるほどの暴風が奔る。こわいほどの風のなかで、少女が力強く笑いかけた。
 アクアは目を開けた。半分眠りかかっていたことにそこで気づく。気持ちはすこし休まったけれど、からだはやっぱり疲れている。だが、アクアにはまだ仕事が残っていた。
「もうちょいあとにするか?」
 台所のほうから声がして、振り返るとゴッドがダイニングテーブルの上で通信鏡をひっくり返していた。
 昨日の朝、出発の前にグロウに急に頼まれて接続を切ったものだ。そのときは急いでいて、とても丁寧な処理をしたとは言えない。書き足すだけではきっとだめだ。長持ちしそうな紙を選んで新規の陣を書き、あいだに挟んだらどうだろう。設置にコツがいるかもしれないが、ふたりがかりならできるはず。
 そこまで考えたらもう座ってはいられなかった。
「ううん、いま書く」
 道具を取るために自室へ上がろうとして、そこらへんにウエストポーチを放り出していたのを思い出してきょろきょろしていると、そんなアクアの様子を見たゴッドが、目的のものを提げてソファを回り込んで来てくれた。
「急ぐことないぜ」
 そう言って、ウエストポーチを手渡すとリモコンを取り上げてテレビをつける。夕方早い時間帯のローカルニュースが流れ出した。天気予報のコーナーで、地図の上に白い雲が渦を巻いている。
 なんでテレビ? と思いつつ、アクアは女性の落ち着いた声が告げる、明日の昼から台風の影響が強くなるという予測をぼんやり聞いた。強風と大雨のひどくなる時間帯がグラフで表示されるのを見て、ゴッドが言う。
「昼前だな、あいつら帰ってくんの。てことは期限は明日の朝だ。どうする?」
 ゴッドがどういう論理でそう断じたのかはわからなかったが、アクアの答えは変わらない。
「書く」
 だってもう頭のなかでは線が巡り始めている。
 受け取ったウエストポーチを開けて、アクアはペンを――
「あれ? ……ない」
 結局、自分の部屋へ取りに上がった。

「複雑だわ」
 ユールの部屋から戻ってきたヒュナは、クルスの隣に腰を下ろすとため息とともにつぶやいた。クルスは黙って頷いて、続く言葉が流れてくるのを待つ。
 クルスの店にヒュナからの連絡が入ったのは、今日の閉店は何時にしようかと考えていた頃だった。一も二もなく店を閉めて、クルスはスノークス家に駆けつけた。出迎えたヒュナは、ユールと二人で待っていたにしては穏やかな様子だった。ほんとうは妹の顔も見たかったけれど、この空間もほかのなににも代え難い。
「ユールの怪我を看たとき、手当てが上手くてよかったと思ったの。これならすぐに良くなるわって。でも、上手くできたのはずっとやってたから。わたしが傷をつけてたからで……」
 なにかを持て余すように指先を絡ませ、ヒュナはその手に視線を落としたまま、クルスの肩にそっともたれる。
「あの子、精霊なのね」
「……そうだね」
 その言葉の重みは、きっとクルスにしか共有できない。精霊は魔界のために命を賭す。精霊の子として、もしかしたら精霊になっていたかもしれない身として、そのことは深く理解していた。母を亡くしたことも時間をかけて受け入れてきた。
 だが、いまの精霊のあり方はおそらく母親の世代とは大きく異なっている。
 精霊狩りがあったとはいえ、それまで精霊が戦力として前線に立つ機会は少なかった。魔界は根が平和な質で、騎士団の警察力だけでたいていのことは片付いてしまう。
 騎士団が崩壊状態にあるためか、それともこれが本来の精霊の姿なのか。
 背負われて帰ってきたルビィを思い出す。ガーゼに覆われたユールの薄い肩を思い出す。その背中にまだ残っている、古い傷も思い出す。
「ヒュナはまだ、精霊になりたい?」
「どうなのかしら。わたしが精霊だったら、ユールはあんな怪我はしてないのかもしれない、とは思うわ。でも」
 ヒュナが目を閉じる。
「いまのわたしだからこそ、精霊のあの子たちに、してあげられることもあるのよね」
 その口元に優しい微笑みがあるのを目にして、クルスはヒュナの組んだ指に手を重ねる。世界でたったふたり、精霊の家族として、クルスの気持ちはヒュナとともにあった。
 魔界は全域的に静かな夜を迎えようとしていた。

2019/2/26 (修正 2023/5/11)