=風の精霊ウィンディ=

台風 4

 魔界に人間界のひとを連れていく。
 その提案に、いいの? と問い返したのはアクアだった。
「問題ないちや。うちのおばあちゃん、出身は人間界で」
 おっしゃるとおり、交戦中の天冥間移動でもない限り、世界間移動にはなんの規制も許可も手続きもない。椎羅と椎矢が魔界へ来るにあたって、目下の課題はひとつだけだ。
 その課題、閉鎖してしまった移動陣を、バス酔いを電車で寝て取り返したアクアが修復にかかっている。
 通信鏡はパーツが細かいこともあって、再起動には半日ほどいるらしいが、移動陣は一度はそらで書いたこともある陣だ。ゴッドが支える裏蓋のしたでカリカリとやること十分弱、よし、という声とともに起動用の魔力が少量流されて、大きな鏡の表面が光に揺らぐ。
「これで動くと思う」
 やってみて、と促されて、あたしは鏡の真ん中に手を触れた。魔力を得て、鏡のてっぺんに設置された魔法陣が光る。あの魔法陣のパターンの数が接続先の数だ。ここの移動陣は城にしか繋がっていないから、他の光り方はしない。
「いつでも行けるよ」
「じゃあ椎羅、苑美と行って」
 鏡の裏で作業を見守っていた椎羅が、グロウに呼ばれてあたしの隣に並ぶ。
「よろしくね」
「任しといて」
 あたしは椎羅が差しだした手を握って、鏡の中へ一歩を踏み出した。
 すこし高い敷居をまたぐように、鏡の縁を踏み越えた足が向こうへ着地する。サンダル越しの感触は、家の移動鏡を置いてあるカーペットとは違って固い。
 城の地下に設置された移動陣部屋。床はレンガ敷きだ。
「すごい……ここが魔界?」
 椎羅がその部屋を見回して感心する。あたしは繋いだままの手を引っ張って鏡の前を開けた。
「の、お城の地下ね。それよりここ退かないと」
 言ったそばからグロウと椎矢が鏡をくぐってきた。アクア、ユール、ゴッドも続く。
 全員が揃ったのを目でたしかめると、グロウは椎矢の手を離してこう言い放った。
「じゃあうちは女王に報告してくるき、みんなあ先に行っちょって」
「どこへ?」
 突然ほっぽり出されて思わず尋ねたけど、グロウは黙って出入り口を開け、
「ほいたらね」
 頭の横で手をひらひらやって出て行ってしまう。
 こんなときどうすればいいか、最近はあたしにもわかってきた。アクアと同時に振り返った先で、やっぱりか、と言いたげな顔のゴッドが親指で右後ろの移動陣を示す。
「ユールんち。行くぞ」
 再度入った移動陣を、次は全員で使う。瞬く間に景色は一面真っ白な雪原に塗り替えられた。
「さむっ」
 椎矢が肩を震わせる。魔法陣の中は風除けも働いて温度も高いとはいえ、夏服のからだには寒さが染み渡る。あたしはさっさと精霊服を出して剣を足下に立てた。
 ちょっとだけ魔力を流すと、魔法陣を囲んで吹き荒れる雪の一角が晴れる。その先にあるのが、スノークス家の玄関だ。あたしも来るのは初めてだ。
 先頭を歩き出すユールの背を見つめながら、椎羅がつぶやく。
「あれが柊さんのご実家……」
「それより、誰か連絡とかした?」
 椎矢の心配そうな声で気づいたけど、そういえば連絡は取ってないはずだ。家の通信鏡はまだ復旧してないし。
 けれど、ユールの鳴らしたドアノッカーの音を受けて出てきたヒュナさんは、ユールとそっくりの白い頬になんとも言えない緊張感をもって、
「いらっしゃい。話は聞いてるわ。いまお茶を入れるわね」
 と言ってくれた。
 どうやらグロウが城から連絡していたらしい。通されたリビングには精霊服を消しても寒くないように暖房が焚かれ、薬箱も準備されていた。
 ヒュナさんは、最初にお客さん分のお茶を入れて、自分とユールの分は出さずに薬箱を開けた。
「来なさい」
 指先で呼ばれ、ユールがヒュナさんに背を向けて座る。ユールにはアクアのTシャツを貸して着せていた。ヒュナさんはそれを肩までまくって、応急処置のガーゼを剥がす。
「ごめんなさいね」
 はっきりした声は、ユールではなくあたしたちに向けられたものだ。
「仕事しながらで悪いわね。うちの愚弟が迷惑かけたでしょう。これをしてくれたの、誰?」
 手では傷の具合をたしかめながら、顔を上げたままの問いかけに、ゴッドが黙って手だけを挙げた。
「そう、ありがとう。服とか汚れなかった? 精霊だから、絶対に怪我するなとは言えないけど、迷惑にはならないよう言っておくから」
「大丈夫ですよ。こっちも対応考えます。まあ、怪我なんかするようなことが今後もありそうなら、の話ですけど」
 瓶の蓋を開けて、新しいガーゼにその中身を含ませる。正確な手つきで傷口を拭き取り、金属のチューブから絞り出した軟膏を、埋めるように塗っていく。
「そのことだけど……聞いていいのかしら。シーラちゃんと、シーヤちゃんよね。人間界の子って聞いてるけど……」
 ヒュナさんが手を拭きながらうかがうような目で椎羅と椎矢を見やる。二人は肩を緊張させて姿勢を正した。ヒュナさん、美人だからなあ。じいっと見られたら落ち着かないよね。
 内心で頷いていると、ごんごん、となにかを叩く音がした。
「ノッカーよ。グロウちゃんね。あとで合流するって言ってたから」
 家主の言葉を受けてゴッドが立つ。ドアのいちばん近くにいたのはアクアだけど、慣れない場所であんなふうに動けるタイプじゃないのはもうわかっていた。
 ひとり減って、部屋はしんとなる。居心地悪そうにドアのほうを振り返ったアクアを、ヒュナさんが呼んだ。
「アクアくん。さっきすこし気になったの。手、診せてごらんなさい」
「はい……」
 と蚊の鳴くような返事をして、アクアはユールと場所を替わる。
「やっぱり荒れてる。水は大丈夫かもしれないけど、お風呂とか、石鹸を使うとしみるわよ。あなたの魔力でも、このくらいなら今晩にはよくなるわ」
 言いながら、ヒュナさんはユールの傷を塞いだのとは別のクリームをアクアの指先に薄く塗り込んでいく。
「陣書きなんですってね。仕事の道具は大事にしなくっちゃ」
 ヒュナさんの声色は落ち着いていて優しい。ユールに向けるきびきびしたものとは大違いだった。あたしはその手際を眺めながら聞く。
「ヒュナさんて、薬屋さんなんですよね」
「そうよ。どうしたの?」
「上手だなあと思って」
 あんまりかかったことはないけど、冷静で的確な判断とスムーズな処置は、なんだかお医者さんみたいだった。
「慣れてるだけよ」
 とヒュナさんは微笑む。ヒュナさんが手当てしてきたとしたら、相手はユールしかいない。その怪我を作ったのは、これもひとりしかいない、ヒュナさんだ。……複雑といえば複雑、だけど。いまアクアの手をいたわるヒュナさんの指は、どこからどう見ても優しかった。
「こんなこと、上手になるつもりなかったんだけど……でも、これからこういうことが増えるようなら、もうちょっと勉強しようかしら」
 はいおしまい、と、アクアの手を離す。
「ありがとうございます」
 お礼を言う声は、最初よりだいぶ緩んでいた。

2019/2/26 (修正 2023/5/11)