=風の精霊ウィンディ=

台風 1

 お尻の下にマントを敷いたまま、あたしはあっけにとられていた。
 取り逃した。でも問いただそうと思っていたことは聞けた。
 これでいいのか。ほんとうにもう戻ってこないのか。追いかけなくていいのか。追いかける方法はないの?次会うときっていつ?
 そういうことがしばらく頭のなかをぐるぐるしていて、
「立てるか」
 ゴッドに声を掛けられてはっとした。手を引いてもらって立ち上がると、背中からぱらぱらと砂が落ちる。
 真っ青な、なにもない空を見上げる。いくら見つめてもクイードとピュッセが戻ってくる様子はなかった。
「納得いかねえの? 被害は最小限だろ」
 言われて振り返った先には、膝に手をついてなんとか立っているアクアと、なにごともなかったかのように歩いて行くユール。それから、別荘のテラスから降りてくるグロウ、割れた窓を越えてそのあとを追う椎羅と椎矢。
 別荘のリビングはめちゃくちゃだけど、みんな無事に見える。
 あたしはいちばんそばにいたアクアのところへ駆け寄った。
「アクア! 大丈夫だった?」
「うん、大丈夫。地面に書いてたからペンがこんなになっちゃったけど」
 差し出されたペンは先が割れてインクを滴らせている。それを握る手もインクと砂で汚れていたけど、どこも怪我はない。
「よかった、アクアが無事ならそれで」
 ほっと息をつくと急に気持ちが緩んだ。魔力の制御が甘くなって精霊服が消える。水着はまだ砂混じりの海水を含んでいた。
 その不快感が全身にまといつくとともに、精霊服の魔法と、興奮や緊張感で忘れていた感覚が戻ってくる。
「あっつーい! のど乾いた……!」
 アクアは精霊服のままだったけど、思い出したように太陽を仰いで、
「おれも」
 と笑う。
「冷蔵庫、無事かなあ。お茶もらわないと干からびそう! おなかもすいてる気がするし……もうお昼ぐらいじゃない?」
「そんなに経ってるか? でもおなかはすいたかも。体力使った感じ……」
「アクアのは気疲れでしょ」
 そんなことを言いつつ別荘へと向かう。舗道まできたところで、椎羅と椎矢が駆け寄ってきてあたしの手を掴んだ。
「苑美! 大丈夫!? 怪我してない!?」
「溺れたときもうダメかと思った!」
 ふたりとも目尻に涙をためている。ほっとした表情が、逆にそれまでのひどい緊張をうかがわせた。
「あたしならなんともないよ。ごめんね、危ないことに巻き込んじゃって」
 見たところ椎羅と椎矢も無傷のようだ。別荘の中はガラスの破片だらけでひどい有様だったけど、ふたりは水着の上からTシャツやパーカーを着ていて、どこも切った様子はない。よく見たら椎羅のTシャツはユールのだし、椎矢が着てるのはアクアのパーカーだった。
 やるじゃん、と思ってアクアに目配せすると、よくわかってない感じに首をかしげられた。
 まあいい。あとの人たちはそのへん心配いらないし、これでほんとうに一安心だ。
「ねえ、苑美、そのことだけど……さっきのって、あの変な人たちとか、早瀬くんのそれとか、一体なんなの? 苑美は、ほんとに苑美なの?」
 椎矢があたしの手を強く掴み直した。魔力の色ではない、焦げ茶の瞳が、アクアの精霊服や、嵐のあとみたいな別荘や、クイードとピュッセの消えた空を捉える。最後に戸惑ったようにあたしの目を見つめる。
 ……そうは言われても、いまのあたしでは明快な答えなんてできない。いまじゃなくてもたぶん無理だけど、とにかく頭が働かない。
「ええと、それあとにしてもらえないかな? あたしのど渇いちゃって。ちょっと休んだらちゃんと説明するからさ」
 グロウが、とは勝手に言えなかったけど、できたらそのへんはお任せするつもりだった。椎矢はそっと手を引っ込めて、
「うん、ごめん。そうよね、疲れてるわよね。わたしもなにか冷たいものほしいかも。ちょっと見てくるわ――」
 椎矢がそう言って踵を返そうとしたときだった。
「柊さん!」
 椎羅の高い声につられて振り返る。
 グロウが話を聞きに行っていたんだろうか、ゴッドとユールと、三人連れだって砂浜から引き上げてくるところだった。グロウはアクアの手元を見やって、
「ご苦労様。もう精霊服かまんで。ユールも」
 と、精霊服を出しっぱなしのふたりに言う。そのわりにグロウとゴッドはそのままだったけど、アクアは言われてやっと気づいたみたいに、
「そっか」
 とつぶやいて精霊服を消した。昨日洗ってまだ海にも入ってないまっさらな水着姿では、手に砂をつけているのも砂遊びしてただけみたいで、あの魔法陣を書いていたことが嘘みたいだ。
 ユールもいつものように言われるがまま、精霊服を消す。椎羅にTシャツを貸してしまって裸の肩を、
「あっ!」
 ゴッドが声を上げて掴んだ。
「なに?」
「お前っ、これどうした!?」
 グロウの目に一瞬で険が宿る。ゴッドは言葉で答えず、ユールの肩を押さえた手をわずかに浮かせて見せた。椎羅がきゃっ、と悲鳴を上げる。
「クイードットルセンの魔法を受けた」
 ゴッドの手の下は真っ赤だった。ユールの言うように、クイードの光輪だろう、刃物傷みたいにぱっくり切れている。すぐにまた傷を塞いだ手の下から、二筋にわかれて血が垂れる。
「汚れてない布」
 グロウが言って、ゴッドが精霊服を消すけど、Tシャツは着ていない。
「そうだった」
 あたしを助けてくれたときに脱いだらしい。悔しそうな視線がちらと砂浜を振り返る。あたしが精霊服出し直してマントでも裂けば、と思ったけど、そんなのよりずっと早くグロウが動いた。
 精霊服を消し、ためらいなく服を頭から抜き、瞬時にふたたび精霊服を呼び出す。抜き打ちの勢いで右手が腰の後ろから短剣を抜いて布を裂いた。細長くした布の先を歯でくわえ、残りを手のひら大に畳む。
「これでどう?」
「ああ」
 ゴッドが受け取った布を傷口に当て、グロウがそれを肩に巻き付けるように縛る。見事な手際で傷は塞がれた。
 椎羅が胸を押さえながら聞く。
「大丈夫なんですか? 病院とか、縫ったりとか」
 見た感じ、ガーゼを当てているだけでどうにかなるような怪我とは思えなかった。グロウも険しい顔で、
「この処置だけで放っちょくわけにはいかんろうね」
 と腕を組んでいる。ユールだけがまったく変わらない、なにを考えてるのかわからない無表情で、いっそ涼しげな表情にすら見えた。あたしは思わずたずねる。
「痛くないの?」
「痛くない」
 唖然とするような答えだった。なんで、と言ってしまってから気づく。
「魔力感覚に切り替えているから」
 だ。そのタイミングと聞かなくてもわかることを聞いて後悔したのがぴったり同じで、あたしは悔し紛れに言葉を重ねた。
「そんなの使ってるから怪我したのにも気づかないんじゃないの?」
 けれどユールは悪びれもせずに、
「いや」
 と短く否定した。今度はゴッドが険しい顔になる。
「いつ当たったんだ? なんで言わなかった?」
「ルビィをアクアの魔法陣へ向かわせたとき。言う必要がないと判断したから」
 あまりに素っ気ない物言いに、ゴッドもため息しかない。汚れていないほうの手ですっかり乾いた頭を掻くと、
「そういうの、言っといてもらいたいのがどういう場合かってのはあとで教えるとして……まあ、もういいだろ。魔力感覚も戻せよ」
「嫌だ」
 抑揚のなさと釣り合わない、やけにはっきりとした高い声。どこを見るともなく、ただ目の高さの遠くに視線をやったまま放たれたその言葉は、奇妙な力強さをもって響いた。
「痛いのは、嫌だ」
 もう一度、感情を押し殺しているのか、なにもこもっていないのか、さっぱりわからない声が言う。
 みんなが絶句するなかで、いち早く立ち直ったのはグロウだった。
「魔力はまだ余裕あるがやお。やったらかまんき、とりあえず怪我、洗うて消毒ばあはしちょかんと。椎羅、椎矢、ここって救急箱とか置いちゅう?」
 ふたりが顔を見合わせる。椎矢がこくりと頷いて、
「あったはず。たぶんおじいちゃんの部屋だったと思う」
「傷洗うならこっちがいいわ。外にも水道があるの。建物の中、座れるところないでしょ」
 椎羅の示す倉庫を見やりつつ、グロウは、
「そうやね、ありがとう。椎矢は救急箱お願い。熱斗、ついてって、場所聞いてあんたが取ってきて。苑美は欲しいもんあるがやったら冷蔵庫見てきいや。あと、椎羅、いちばん早い帰りのバスは何時?」
 てきぱきと指示を出して、最後にそんなことを聞いた。
「たしか五時……四十分ぐらいだったわ。着くのも出るのも、午前と午後に一本ずつしかないのよ、ここ」
 帰りのバスは、午前の便がちょうど出て行った頃だという。今日の午後便で帰ることになるんだろうか。でも、それまでまだだいぶ時間がある。
 とりあえず、あたしは飲み物を探しに行くことにした。ちょっと立ち話をしただけなのにもう背中が汗だらけだ。

2018/6/26 (修正 2023/5/11)