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別荘の中へ入ると、外の音がほんのすこし遠くなった。椎矢はそのことにほっと胸をなで下ろす。
なにが起きているのかさっぱりわからなかった。外を覗こうにも、大きな窓が割れて、ダイニングにはそこら中にガラス片が散らばっている。椎矢も椎羅も裸足だ。水着の上から、椎矢は河音のパーカーを、椎羅は柊のTシャツを一枚着ただけ。幸いどこも怪我はしていないが、このままだとどうなるのか。どうしようもなく心細い。
「柊さん……」
玄関にしゃがみこんだ椎羅が呟く。震える手がTシャツの裾を握りしめている。こんなときでもそのひとにそうやって頼れるんだ、とどこか冷静に思う。
椎矢は手のなかに抱えたものを見た。河音が持っていたウエストポーチ。ここまで逃げてくる道中、足下に落ちているのを見かけてつい拾ってしまった。なにかあてがあるわけではない。彼らを頼っていいのかもわからない。
楓生と苑美は大切な友達だけれど、その彼女たちも見たことのない格好をして、聞いたことのない名前で呼び合っていた。この海の砂浜とは違う、砂色のマントが脳裏をよぎる。暑そうだな、と、こんなときなのにどうでもいい感想が浮かぶのがおかしかった。
ひとつ、深い呼吸をする。椎矢は意を決して、ウエストポーチを開けてみた。
「なにこれ」
出てきたのは、いくつかのペンと、糊綴じのメモ帳と、それを千切ったらしき紙切れ。取り出すと、その紙にはメモらしくない厚みがあって、整った円のなかに意味不明な幾何学模様が書かれていた。それはさきほど、楓生に渡された――
「お守り?」
「きゃっ」
いつの間に立ち上がった椎羅が、椎矢の手元を覗きこんでいた。驚いた弾みで、ウエストポーチの中身がぼろぼろこぼれる。慌てて拾おうとした瞬間だった。
地響きのような轟音とともに建物が揺れた。最初のと同じだ。けれど今度は、建物自体が一度目の揺れで弱っているのか、天井と床板が激しく軋む。椎矢は椎羅と抱き合って、それでも立っていられなくてその場に座りこんだ。
「と、止まった?」
なんとか揺れが収まって、顔を上げる。玄関の照明が外れて、すぐそこまで垂れ下がっていた。
「出ましょ。ここも危ないわ」
泣き出しそうな椎羅を立たせる。椎矢の声も震えていた。
玄関のドアが開くとは思えない。ガラスの破片を避けながら窓へ向かう。すっかり割れ落ちた窓の向こう、テラスを降りたところには楓生がいて、
「伏せて! 次が来る、うちも防げん!」
その向こうには、巨大な光の輪。
たしか楓生は、大きなナイフみたいな刃物を持っていて、それでもって無数の光の輪を弾き落としていた。あれはそのときの小さな輪っかとは違う。まだ楽しい夏休みだった別荘を地震のように揺らしたのは、あの光の塊なのだと直感する。
「ふ、防げないって」
蚊の鳴くような声は楓生には届かない。喉が締めつけられるような恐怖で体が強張る。伏せろと言われたことさえ吹き飛んでしまった。
楓生がテラスの柵を跳び越えてくる。逃げてと、言おうとしたけれど涙が滲み出すだけで声は出なかった。
光の輪が激しく回転しながら迫る。その視界に、黒い手甲が滑り込んだ。
「っしゃ!」
鋭い声は楓生のもの。そして光輪は眼前に迫り、――消えた。
急激に変化する光の量についていけず、椎矢はぱちぱちと目を瞬いた。
「はあっ……間に合うてよかった。椎矢、ようこそそれ拾うちょってくれたわ」
楓生が大きく息をついて、指先に捉えた紙切れをぐしゃりとつぶす。そこでやっと、河音の「お守り」を抜き取られたのだとわかった。
あれがいまの光輪を消し飛ばしてしまったのか。ただの小さな厚手のメモに、よくわからない図形を組み合わせたような絵の紙切れが。
椎矢は遠く砂浜に膝をつく河音を見やった。苑美となにかを言い合っている様子だ。見慣れないうす水色の服から出た肩が、昼に近づく太陽を浴びてひかって見えた。頼もしい、のかはわからないけれど、椎矢たちの部屋に突入してきたときの困惑と怯えからかけ離れた表情は、椎矢には想像しづらかった。
けれど、楓生たちはある程度信用して、あてにしているらしい。
「河音の荷物、これ以外にある?」
「あるわ。玄関のとこに落としてきちゃった」
椎羅が答えるなり、楓生は黒い靴のまま窓から室内へ入っていく。
「ここにおるわ。うちやったら普通の撃ち方の分は全部落とせる。さっきみたいながも、河音の魔法陣で防げるし、まあほとんど撃ってこんろう」
言いつつ楓生は、ウエストポーチとその周辺に散らばった小物を拾い集めている。椎矢たちが倒したダイニングテーブルの裏に隠れると、楓生はそこへ留まるよう指示してひとり窓際に戻り、
「うーん、うちいるろうか。まだ柊はよう使わんがやないかなあ」
その独り言を聞きつけた椎羅がテーブルから顔を出す。
「柊さんは!? 無事なのっ!?」
「ちょっと椎羅! 隠れて――」
姉を引っ張り戻そうと膝で立ったとき、椎矢も気になって外を見た。片膝を立てて低く構えた楓生の背中越し、二人組の少女と戦っているらしい先輩たちの姿が見える。そしてすこし離れたところでは、
「え?」
苑美と河音がキスしていた。ように見えた。
「ええ?」
ほんの一秒にも満たなかったから気のせいかもしれない。でも、いや、まさか。
次々起こる理解を超えた出来事に、脳が疲れているのだろう。そう結論づけて、椎矢はテーブルの裏に座りこんだ。もう一歩も動けない気分だった。