=風の精霊ウィンディ=

白昼 2

「ルビィ!」
 近づくほどに強くなる波をかきわけて、ゴッドは見え隠れする頭へ呼びかけた。残る距離は数メートル。それを半分ほど詰めたところでルビィが振り返った。髪はびしょ濡れで精霊服も消え、焦りに染まった顔に手を伸ばす。ルビィもやみくもに振り回していた手を差し出してくる。
 そのとき、
「っ上!」
 ルビィが叫んだ。同時にすさまじい衝撃が降ってきてからだが深く沈む。息を止めるのが間に合わず海水が喉へ流れ込んでくる。幸い水深自体はゴッドの身長程度しかなく、ぼんやりと見えるルビィの足を目印に地面を蹴ると、海面に顔を出すことができた。
 が、
「ゴッド避けて!」
 激しくむせてなんとか一回息を吸ったところで、強烈な一撃が今度は後ろから襲いかかった。どぶん、と沈み込む音を聞きながら、ゴッドは海の上で暴れるものの正体を理解する。
 あれは風だ。ただの海風ではない、ルビィの魔法による風。
 ルビィの落ちた場所から絶えず飛沫が上がっていたのは、水面を掻く手のためではなく、繰り返し海を叩く風のせいだ。底まで足も届かないはずなのに、ルビィはしっかりと呼吸をして水面から顔を出していた。おそらく風で無理矢理水面を押し下げ、安全地帯を確保していたのだろう。
 そうであれば、ルビィのそばでは何度水面を目指しても無駄なことだ。ルビィの浮かぶ場所だけが水位が低く、海は常にそこへ流れ込もうとし、風は魔力の限り、ひたすらにそれを阻み続ける。
 だがルビィを置いて離れるわけにはいかない。これほどのパワーを発揮しておきながら、ルビィはちっとも岸に近づけてはいなかった。そのうちに魔力が尽きて溺れるのは目に見えている。
 ゴッドはできるだけルビィの近くに寄って浮かび上がった。ごう、と駆け抜けた風が背後に着弾して盛大に波が立つ。まだ息も整わないうちからルビィが首にかきついてきて、ゴッドは必死で小さな体を支えた。
「落ち着け、大丈夫だから、っう!」
 足がつけば落ち着くだろうと、膝に立たせてやろうとしたが、ルビィの膝がみぞおちを直撃して息が止まる。
「あっごめん!」
 ルビィはそう言うが、腕には首を絞めんばかりにちからがこもり、足はずっとじたばたを繰り返してそこら中を蹴ってくる。
「いいからっ、ちょっと落ち着け!」
「でもでも、これ止まんないし」
 言う間に風が元に戻りかけた水面を力強く押し下げた。受けたときより見る方が衝撃的だった。ルビィの後ろだけ海が数十センチも盛り上がっている。非常識な光景だった。
 それを作り上げている少女はゴッドにしがみついて叫ぶ。
「なんで止まんないのー!? あたしのなのに!」
「止めたら溺れるからだろ」
「でもっ! ゴッド来たからもういいって思ったのに、全然止めらんないよ!」
 これだけのエネルギーが制御不能になっているという事実にぞっとする。ゴッドは時折ルビィの蹴立てる海水を飲まされながらも、魔法を止める手立てを探した。
 ルビィは足場を確保しただけでは足りず、頭によじのぼる気かと思う勢いで、肩を支えにからだを持ち上げようとする。風はその周囲からも吹き出している。どうやら飛び散る海水を払っているらしい。
 そのあたりで察しがついた。
「ルビィおまえ……顔が濡れるのそんなに嫌か?」
「へっ?」
 肩までを水面から出したルビィを見上げる。その顔には髪からのしずくが幾筋か流れているのみで、頬はほとんど乾いている。頭のてっぺんにもすでにアホ毛が立っていた。
 ゴッドはというと、両手をルビィを抱きかかえるのに取られているなかで何度も海水をひっかけられ、視界と呼吸を確保できているだけ僥倖という状態である。
「なるほどな……」
 水をかぶりたくなくて無意識に使っている魔法。それを止めるには。
「ルビィ、覚悟決めろ。一回潜るぞ」
「ええっ!? やだやだ無理ー!」
 どーん、とひときわ強烈な風がルビィを中心に弾ける。危うく腕からすっぽ抜けそうだった。
 その水飛沫が落ちきらないなか、ぶんぶん首を振っていたルビィがはっと顔を上げる。
「あれ!」
 その声に、ゴッドも視線の先を振り返った。

 救助に向かったゴッドを見送って、降り注ぐ光輪を一通りグロウが撃ち落とし、生まれた一瞬の空白。正面を向いたままのグロウに、アクアは、
「なにを書いたらいい!?」
 と問いかけた。
 ここは砂浜だ。道具はなくてもいつでも書ける。そうやね、とグロウが策を述べようとしたときだった。
「あれ大丈夫なの!?」
「早くちゃんと助けないと!」
 別荘の裏に隠れていたはずの椎羅と椎矢が駆け寄ってくる。ふたりは海のほうを指差していた。
「あ、危ないから隠れてて!」
 アクアが止めようとするも、ふたりは意に介さずグロウの肩を掴む。グロウはクイードを気にしつつ、
「落ち着いてや。熱斗が助けに行ったき」
 しかし、
「あのねえ! みんな海初めてなんでしょ!? 絶対無理だから!」
「だいたいこういうのは、助けに行ったほうが死ぬ確率が高いのよ!」
 そこまで言われてさすがのグロウも黙った。そのことにアクアの焦りがかさを増す。ほんとうに時間がないのかもしれない。
「グロウ」
「わかった。すぐ手を打つ」
 遠く、白波立つ沖合を見据えて、グロウが縁のない眼鏡に指を添える。アクアも、椎羅と椎矢の不安に満ちた視線を受けとめきれず、海に目をそらした。
 ゴッドはもうルビィのところへたどり着いているようだが、水柱があまりに激しく立ってふたりの姿はほとんど見えない。ルビィがあの細い手脚で暴れているだけで、こんなふうになるものだろうか。
 アクアの疑問を裏付けるように、グロウが低くつぶやいた。
「魔力暴走しちゅう」
「見えるの?」
「小細工をちょっとね。それより、あの状態でどう助けるか――」
 言って、グロウが目を上げる。同じ方向に短剣の先がついと動き、アクアが気づいたときにはクイードの光輪が一斉に撃ち落とされていた。
 椎羅が声を潜めて言う。
「ねえ、あのひとみたいに飛んでいって引っ張り上げるとかできないの? 陸地を伸ばすとか、海を割るとか!」
「そんなこと……」
 椎羅たちは魔法をどう把握しているのか、その眼差しは真剣そのものだ。
 ルビィがクイードの浮遊を真似してからだを魔力で持ち上げていたように、やり方を覚えて魔力量に物を言わせればできないことはないだろう。だがアクアたちにそんな魔力はないし、方法もわからない。飛ぶなんてシンプルな魔法、陣を使ったところでほとんど節約効果は見込めないのだ。
 それをうまく伝えることすらできず、くちごもるアクアに、グロウが振り返らず言う。
「アクア、それやろう。陸地にようばん、魔力を伸ばして、海割って引っ張り上げるで」
「どうやって?」
「魔法陣をユールに使わせる。ユールはもともと魔力の実体化ができるき、その補正をしちゃって。ルビィらあまでやったら届くろう」
「でも、海を割るなんて、そんなのユールひとりじゃ……」
「無理がいくろうね。やき、ルビィの魔力も使うがよ」
 再び降り注いだ光輪をグロウが払う。クイードは空中で歯噛みしていた。
「魔力が暴走してるのに? 魔法陣なんか使えるのか?」
「暴走しちゅうきこそよ。あんたの陣で、あの子の魔力を引っ張り出す。本人の代わりに魔法陣で魔力を制御するが。わかる?」
「わ、かった、けど」
「あとの回路は自分で組み立て。あとこれ、使わいてもらうで」
 いつの間に回収していたのか、グロウは左手に魔法陣を持っていた。以前学校でルビィに使わせたものだ。書き溜めがいくつか残っていた。
 グロウがそのなかの一枚を起動した。一度だけ魔力による攻撃を吸収する魔法陣。それを椎矢に手渡す。
「撃ち漏らし、するつもりないけどあったら困るき、持っちょって」
「な、なにこれ」
「お守り。河音が作ったがで。信用しちゃって」
 言うなり上空を振り仰ぐと、クイードの手から離れたばかりの光輪を、弾丸のような魔力で撃ち落とす。
「くっそはええ……ずりーぞ! どうやってんだそれ!?」
 光輪とともに投げつけられる問いをグロウは無視して、隙なく短剣を構えている。
 アクアはその光景から目を離し、地面と向き合う。グロウの腕を信じる。椎羅と椎矢を守る、自分の魔法陣を信じる。信じなくては。だってこれから、その魔法陣でルビィたちを助けるのだから。
 指先がまっすぐ、砂を掻いた。

2017/10/2 (修正 2023/5/11)