「ユール、来るで!」
倒したダイニングテーブルの裏からグロウが叫んだ。テラスに面したガラスは半分ほど割れ落ちている。その前に、ユールが細身の剣を構えて立つ。
アクアはテーブルの端から顔の半分だけを出して様子をうかがった。宙に浮かぶ長髪の男の姿と、その足下で剣を振り上げるルビィが見える。男は両手に光の輪を作り出してくるくると回していた。その手が高く掲げられ、光輪が放たれる。
ルビィの突風が轟音をたてて光輪を追う。風はかろうじていちばん後ろの輪に追いついたが、ほとんどがなにも邪魔されることなく割れたガラスを越えた。
きん! と鋭い音が連続で響く。遅れて、弾かれた光輪が床に、天井に、テーブルの角にぶつかって木肌を焼いた。
アクアは反射的にテーブルの裏に引っ込んで息を詰めた。椎羅と椎矢は互いを守るように丸くなっている。ただひとり、当たらないという確信の面持ちで立つグロウが、被弾した室内を見回して渋面を作る。
「持ち堪えれそうにないね」
光輪にこめられていた魔力は、ルビィの風とは比べるべくもない量だ。しかしあの男の技術力は相当のものらしく、着弾した箇所は指が差し込めるほどえぐれていた。
「裏から出るで。ついてきて。ユールは後ろをお願い」
しゃがんだグロウに先導されて、テーブルの陰を這うように勝手口へ向かう。その間にも光輪の鋭い飛翔音が聞こえてきて、アクアは何度もその場にうずくまりたい衝動をこらえた。
別荘の裏手に出て、ようやく人心地つく。できるだけ戦闘から遠い物置の方へ回ろうと歩き出したときだった。
「待って!」
先頭のグロウがばっと両腕を広げる。次の瞬間、驚き立ち止まったアクアたちの目の前になにかが降ってきた。
人間大のそれは別荘の表側から斜めに突っ込んできて、重い音とともに地面に激突する。衝撃が風を生み、砂埃が立つ。それが収まりきるのを待たず、グロウの鋭い指示が飛ぶ。
「逃げて!」
情けないことに、椎羅と椎矢のほうが反応が早かった。裸足にもかかわらず踵でターンして、玄関の方へと走り出す。アクアもそれを追おうとして、
「アクア、精霊服!」
グロウの声に止められた。見ればグロウはすでに精霊服を呼び出して、腰の後ろから短剣を抜いている。
どうすべきか。精霊服を出せと言われたということは、戦力に数えられたのか。でもなにができるだろう。迷っている間にも、消えかかった砂煙の向こうで金髪の女が立ち上がる。
魔法陣、それしかない。そう思って筆記具の詰まったウエストポーチに手を掛けたときだった。
「わり、そっち行った」
ゴッドの声が聞こえたかと思うと、渦を巻く炎の塊が別荘と物置の間を貫いて女を飲み込んだ。熱はない。魔法だ。それでも顔の前に手をかざしてしまう。
「なにしゆうがで!」
「悪かったつったろ!」
炎が薄れ、アクアは手を下ろす。
「ひ、」
ぞっとした。能面のような無表情の女と目が合った。同時に、
「バネットちゃ~ん、やっちゃって~」
頭上から、場違いなほど甘ったるい声が降ってくる。声の主はふりふりのワンピースを着て大きな帽子を被った、子供みたいな女だった。身構えるも、降りてくる気配はない。
ざり、と砂を踏む音にはっとして視線を戻す。表情のない女が足を肩幅に開いてどっしりと立ち、そこへ、
「こっちだ!」
精霊服姿のゴッドが飛び込んできた。女は生身の腕で重い剣を受け、ゴッドはすぐに後ろへ離れる。
「ルビィがもうひとりの相手してる。上の女はこれを操ってるだけだ。お前が言ったんだからあの二人どうにかしろよ」
「わあっちゅう! アクア行くで」
グロウが振り返ってアクアの肩を叩く。アクアは促されるままその場を離れるしかなかった。肩越しにうかがうと、能面の女が別荘の表へ不自然な軌道で跳躍していくところだった。ゴッドのおかげで追ってはこないらしい。
ほっとしたのも束の間、玄関に近い方の角まで来ると、椎羅と椎矢が真っ青な顔で駆け寄ってきた。
「楓生! 早瀬くん! 苑美が!」
壁の端から顔を出すと、波打ち際でルビィと長髪の男が戦っているところだった。どういう魔法なのか、軽々と宙を舞いながら光輪を打ち出す男に、風を引き連れたルビィは翻弄されていた。砂色のマントが水を吸って、足下で重そうにもつれている。上空へと放たれる風は力強いが、男にはほとんど当たっていないようだ。逆にルビィは男の光輪を避けるのに苦労している様子だった。
ルビィの魔法は強い。けれど、男の魔法はそれに張り合うほど上手い。技術の差がルビィを水際へと追い詰めていた。
「グロウ!」
アクアは助けを求めた。だがグロウは軽率には動かない。待って、と言った声は冷たいほどに落ち着いていた。そうなるともう、アクアにはグロウを信じて待つしかない。
しかし、数秒となく事態は急変した。
男が海岸線を離れて海の上へと飛翔する。ルビィがそちらへと剣を振り上げるが、風はその距離を追ううちに拡散してしまう。その結果を見届けることすら待たず、ルビィは砂浜を数歩逆戻りして、海へと走って、
「っだああああっ!」
明らかに無理をしている声とともに濡れた砂を蹴る。跳躍の勢いを風で押し上げて押し上げて、海上まで体を運ぶ。そして、
「あっ」
ぼちゃん、と海に落ちた。
海面が白く波立つ。その間からもがく手が何度か見えて、すぐに波間に隠れてしまう。
「ルビィ!」
考える間もなくアクアは駆けだしていた。今度こそためらわず精霊服を出す。日に焼けた砂浜を半ばまで走ったところで、目の前で光が弾けた。避けようとして倒れ込む。同じような閃光が立て続けに周囲で炸裂する。
起き上がるのが怖くて顔だけを上げた、その視界で逆光になったユールが、細い剣を手に投げつけられる光輪を弾き返していく。ほっとして身を起こすと同時に、グロウがぐいと腕を引っ張った。
「こっち。策もないのに飛び出して、ルビィと変わらんやん」
「ご、ごめん」
「えいわ、アクアにもしてもらうことあるき。ゴッド!」
グロウに呼ばれ、金髪の女の前を離れたゴッドが精霊服を消した。
「あーくそ、魔力もったいねえ。ユール、交代だ」
そう言って光輪を一セットしのいだユールの肩を叩き、Tシャツを脱ぎ捨てて海へ飛び込んでいく。
助けに行ってくれた、そう思うことでいくらかほっとした。だがルビィの手は浮き沈みしては何度も見えなくなる。ゴッドがたどり着いてもすぐに救出できるわけではない。どうしても焦りは募っていく。
グロウが短剣を逆手に握って立つ。男が光輪を放つと同時に器用な指が剣をくるりと回し、その切っ先から凝縮した魔力が弾丸のように撃ち出された。狙いは違わず、すべての輪を撃ち落とす。
「面白くなってきたぜーっ!」
男はグロウの手腕に競争心を煽られたらしく、両手に再びいくつもの光輪を回し始める。溺れるルビィに追撃する発想はないようだ。
「魔法陣、書ける?」
グロウが振り向かずに言う。アクアはうなずいて、それからあっと気づいて「書く!」と答えた。
ウエストポーチはどこかに放り出してしまって、手にはなにもないけれど。なにを書くべきかもまだまったく思い浮かばないけれど。それでも魔法陣を書くことだけがアクアにできることで、するべきことだった。
「えい返事」
斜め後ろから見たグロウは、その決意をくみ取ったかのように笑っていた。