=風の精霊ウィンディ=

夜、明けて朝 2

「うう、まだあっつい。料理って暑いね……」
「うちは毎日しゆうがやけど」
 ぼそりとこぼされた言葉に、あたしはぎょっとして楓生を見た。目が合うと、楓生はにっと笑って、
「さすがにあんたも慣れてきたみたいなね」
 みんなで作ったカレーも食べ終え、だらだらと片づけをしてみたり、椎羅と椎矢にトランプを教わったりしているうちに、プールのあとみたいな眠気が襲ってきた。日差しを浴びて海で遊ぶのは、思っている以上に疲れるものらしい。もう寝ようか、と誰が言い出したか分からないくらい自然に、あたしたちは寝る支度に移っていた。
 あたしが楓生のらしくない失言に目を見開いたのは、椎羅たちと交代で歯磨きをしにきたときだった。でも、
「あー、そっか、椎羅と椎矢に聞かれなきゃいいんだもんね」
 きれいだけど新しくはない別荘は精霊たちで暮らす家に似たところがあって、椎羅と椎矢が一緒だと学校みたいで、あんまり考えると混乱する。
「難しいよー。学校ならまだ楓生と河音だけだからいいけど、今日は熱斗も柊もいるし」
「明日もおるで」
「そうだったー。寝起きとか大丈夫かな。グロウ朝ご飯なにー? って言っちゃいそう」
「心配せいだち、朝もカレーよね」
 楓生はあきれたように笑った。カレー、と聞いてふと思い出す。
「そうだ、ありがとね」
「なに?」
「あんなに暑いのに、毎日ご飯作ってくれて」
 ありがと、ともう一度言うと、楓生は歯ブラシをくわえたまま一瞬黙って、
「……どうも」
 とくぐもった声で答えた。

 寝る前に片づけを、と思ったのに、ダイニングテーブルは意外と散らかっていなかった。椎矢はトランプをケースに戻して、オセロを箱にしまって、テーブルを拭いた。それだけでもうやることはなくなってしまう。
 いくつか最後まで残っていたコップは椎羅が洗ってくれている。先に寝にいくのも気が引けて、椎矢は片づけたトランプをもう一度引き出した。スペードのエースから、順番に並べてみる。
 流しから、小さく笑い声が聞こえた。
「なによ」
「なんでもないわよ。ただ、今日、楽しかったなあって」
 振り返ると椎羅はすぐに手元へ目を落としてしまう。表情はうかがえないが、水音に負けないよう、すこし張られた声は楽しそうだ。
「ごめんね、椎矢にいろいろ内緒にしてて」
「もういいわよ。先輩までいるのはびっくりしたけど」
 スペード、ハート、クラブ、ダイヤ。トランプを四つの山に分ける。
「ごめんてばー。でも、椎矢も楽しかったでしょ?」
「それは……苑美がナマコで大騒ぎしてたのは面白かったわね。あの子ああいうの平気なタイプかと思ってた。でも男子はやっぱ苦手よ」
「早瀬くんとスピードしてたじゃない。楽しそうだったわよ」
 ジョーカーを取り分ける手がぴたりととまった。
「だって苑美と楓生がオセロしてて、椎羅もいなかったのよ! 冬山先輩にも明坂先輩にも話しかけられるわけないじゃない」
 明坂にあの落差で見下ろされるのはとにかく怖いし、冬山の得体の知れない静けさも、椎羅のように大人っぽくてクールなんて喜ぶ気にはなれない。苑美と楓生の輪の中に逃げ込んでしまえばよかったが、ひとりトランプをシャッフルしている河音を放っておくのもしのびなかった。
「柊さんも明坂先輩も怖くないわよー。スピードしてる椎矢のほうが怖いくらい。まさかあそこまでぼこぼこに負かしちゃうとは思わなかったわ」
「早瀬くんが弱かっただけよ」
 それはそれ、ゲームなのだから仕方ない。椎羅のからかうような「ひどーい」には答えてやらず、山に分けたトランプをまとめた。箱に差し込むと、なめらかな紙のカードはすこんと底まで落ちていく。
 椎羅も洗い物が終わったらすぐに上がってくるだろう。もう寝室に行ってしまってもいい、と思って椅子をたったときだった。
「これ借りていいか」
 階段の降り口から声がして、明坂が顔を出した。椎矢の表情は自然とこわばる。やっぱり男子は苦手だ。
 これ、と指されたのは扇風機だった。別荘は無人になる期間が長いため、使っていないと傷みやすいエアコンは入れていない。扇風機は寝室の数だけそろえてあって、リビングには弟と祖父の部屋のぶんを下ろしてきていた。
「どうぞー。いま準備しますね」
 椎羅が洗い物を終わらせつつ言う。椎矢は対応は椎羅に投げて、無言で扇風機のスイッチを切り、コンセントを抜いた。早く持っていってもらいたくて階段まで運ぼうとしたが、明坂はいつの間にかすぐそこまで来ていて、
「どうも」
 としゃがんだままの椎矢の前から扇風機を取り上げる。思わず目を丸くする椎矢とは対照的に、椎羅は手を拭き拭き、
「おやすみなさーい、また明日」
 大好きな柊先輩相手でもないのに、愛想のいいことだ。明坂は、あれで扇風機の礼は言ったことにしたのか、椎羅に一瞥をくれただけで二階へ引っ込んでいった。
「感じわる」
「ふふん、でもわたしは負けないわよ」
「は?」
 疑問は椎羅の目を見ればすぐに解ける。冬山絡みだ。
「あのね椎矢、明坂先輩は柊さんの友達なのよ。このなかでいちばん直接柊さんと接点があるのよ。ダイレクトな外堀なのよ」
「外堀から埋めるって? ……深くない?」
「たとえマリアナ海溝でも、柊さんがその向こうにいるならわたしは埋めるわ! それに、同時に船を探したり橋を架けたり飛行機を手配したりだってするわよ!」
 よく分からない比喩を連発する姉に、椎矢は「まあがんばって」以外にかける言葉を持たなかった。

 ゴッドが扇風機を取りに出ていってしまうと、部屋にはアクアとユールだけが残された。とたんに、しん、と夜の静けさが広がる。波の揺れが残る体に、その静寂は心地よくもさびしい。
 アクアはいつの間にか用意されていたタオルケットの山から、白い一枚を引っ張り出した。涼しいと言えるほどの夜風ではないが、扇風機が来てこのタオルを羽織ったら、寝るにはちょうどいいだろう。
 ぴったり並んだふたつのベッドに、枕もふたつ。片方は椎羅と椎矢の弟が使っているもので小さく、もう一方はおじいさんの分でごつごつして硬い。これを適当に譲り合って眠らなくてはならないのだが、さてどうしたものか。
 わっ、と離れたところで笑い声があがった。ルビィとグロウの部屋からだ。声はすぐに潜められて、でもまた、何度か大きくなる。アクアはユールに目をやった。結んでいた髪を解いて、ほつれかけの毛先もそのままに、しずかに正座している。
 そういえば、ユールとふたりきりで話したことはあったろうか。いつも的確にユールの言葉を引き出すグロウやゴッドはいない。突き飛ばすような勢いでアクアを動かすルビィもいない。
「……ユール、」
 なに? と尋ね返してはくれない。おそるおそる、正解を探るように言葉を選ぶ。
「えっと、寝る場所を決めようかなって……じゃなくて、決めないと、いけないから……どこで寝る?」
 ユールが顔を上げた。濃い青色の瞳に正面から見据えられて、思わずたじろぐ。返事はない。ユールがどこそこがいいと希望するとは、アクアも思っていなかった。たぶんこれは、どこでもいい、という言葉が、意思が、出てこないということ。
 こんなユールと何日にもわたって放課後のおしゃべりを楽しんだという椎羅を、アクアは心から尊敬した。
 返事を得られないまま、端と端に置かれた枕を見て、
「じゃあ、枕小さいのと硬いの、どっちがいい、とか」
「どちらでもいい」
 抑揚のない、けれどはっきりとした音の、どこか高い声。返事があったことにアクアはほっとした。
「枕高くても、首痛くなったりしない?」
「しない」
「なら、そっちにしたら……?」
「分かった」
 ユールの真後ろにあるおじいさんの枕を指さすと、ユールはそちらを見向きもせずに答えた。ただそれぞれが座っている場所そのままで寝ることにしただけだが、なんとか決まった。会話もできた、ということにする。
 けれど用件を終えてしまうと、部屋にはまた沈黙がおりる。目の奥から、じわりと眠気がしみてきた。よく知らないキャラクター柄の枕に頭を乗せて横たわる。ユールは相変わらず、眠ろうとする気配もなくただじっとしていた。ゴッドがなんと言って出ていったか、アクアはもう忘れてしまったけれど、その言葉のどこかにまだ寝てはいけないと判断させるものがあったのだろうか。ユールは常に言葉を額面通りに受け取る。待ってろ、とか、そういうことを言っていたかもしれない。
 白いタオルケットを肩まで引っ張りあげる。ユールは待つつもりかもいれないが、アクアはもう目を開けていられなかった。ベッドは真ん中が空いている。川の字に寝るならマットの隙間をどうにかしなければいけない。でも、はまりこみそうなのはユールくらいか。
 瞼越しのまぶしさが遠のいていく。夜風と海の音が混じる。いまだ背中を波に揺さぶられながら、アクアはまっすぐ眠りのなかに沈んでいった。

2016/9/17 (修正 2023/5/11)