=風の精霊ウィンディ=

夜、明けて朝 1

 椎矢が豪語するだけあって、磯はとんでもなかった。ナマコとかイソギンチャクとかアメフラシとか、この世のものとは思えない訳の分からない生き物がウヨウヨいた。
「虫じゃない? おっきくない? 気持ち悪くない~? なんで持てるの!? 椎羅ヘビとか嫌いじゃん!」
「ナマコは噛まないし毒もないもの。くちどこか分かんないし」
「びろびろ出てるの腸だから、反対がくちじゃないの。あ、カメノテ」
 毎年来てるという椎羅と椎矢は、得体の知れない生き物を平然とすくい上げて、あまつさえこっちに、
「ぎゃー! なげっ、投げないでよ!?」
「あはは、別に怖い生き物じゃないんだから。ぶよぶよだし、当たっても痛くないわよ?」
「そういう問題じゃなーい! あ」
「あ」
 ナマコは、岩の縁にしゃがんでフナムシを観察していた河音をかすめ、
「あっうわっ、――」
 驚いてバランスを崩した河音と一緒に、どぼんと静かな海に落ちた。
「ちょっと姉さん、なにやってんのよ」
「ごめーん! 早瀬くーん、大丈夫ー?」
 椎羅の呼びかけに、河音は水面から顔だけ出して、
「大丈夫ー」
 と答える。そして落ちたあたりをざぶざぶかき回したかと思うと、
「これ? ……投げたの?」
 ナマコを拾い上げて複雑そうな顔をしていた。
 一部始終を面白そうに見ていた楓生は、そのやり取りにもけらけら笑って、気が済んだのかすっと立ち上がる。
「そろそろ戻る? もう夕方近いで」
 言われてあたしは顔を上げた。まだ空は青いけど、太陽が岬の輪郭に差し掛かっていた。来たときは岩全体が見えていた磯も、気付けばほとんどが海の中になってしまっている。
「海、広くなってる」
「そうね、もう磯遊びにはならないわね」
 椎矢がざぶり、海水の入ったバケツを返す。河音も浅いところを回って浜へ上がる。
「戻ろっか。うーん、けっこう疲れた」
「ずっと外だものね。バケツとか、これで全部だっけ。忘れ物ない?」
 椎羅がプラスチックのスコップや熊手を集めて、椎矢の提げたバケツにまとめる。あたしは磯を離れつつつ振り返ってみて、
「あ! 柊がいない!」
「いまさらなに言いゆうがで。途中で別荘戻ったやん」
「わたしもついて行ってたじゃない。気づいてなかったの!?」
 楓生と椎羅を盛大にあきれさせた。なんでだろう、日差しに弱そうだからか、熱斗がひとりじゃつまんなくて呼び戻したか。まあなんでもいいや。
「おなかすいたー」
「これからみんなで作るのよ」
「えー。なにを?」
「晩ご飯よ。カレー」
 とかなんとか言いながら、あたしたちは砂浜を引き上げた。

 別荘では熱斗と柊が麦茶を入れて扇風機をつけて涼んでいた。ふたりとも、とっくに来たときの服に着替えている。柊の髪は朝より低い位置でまとめられていた。
 あたしたちも塩水を流すために順番にシャワーを浴びる。水着のあちこちから出てくる砂にびっくりしつつ、洗濯もして洗面所の窓の外に干した。
「さあ、ここからが腕の見せどころよ!」
「見せる腕なんてあった?」
 椎羅は意気込み、椎矢が首を傾げる。海で遊ぶのはけっこう疲れたけど、休む間もなく夕食作りだ。椎羅は柊みたいなポニーテールにして、半袖なのに腕まくりのジェスチャーまでして、やる気満々のご様子。
 カレーはうちの夕飯でも出たことがある。けど、作るのは初めてだ。箱の裏面に書かれたレシピを読んでいると、冷蔵庫から材料を取り出していた楓生に、
「まあそんながはだいたいよ」
 と言われた。楓生は知らない台所にもかかわらず、慣れた手つきで包丁やまな板を探し出してすすいでいく。
「包丁二本だけ? ピーラーある?」
「あるわよ。あと包丁は子供用がそのへんにあったはず。分担どうしましょ」
 椎矢が必要な道具を次々そろえながら手持ちぶさたなあたしたちを見回し、
「柊さん、ご飯炊いてもらえますか?」
 椎羅は素早く柊に仕事を振っていた。残されたのは、あたしと河音と熱斗。……こういうのは早いもの勝ちだ。
 流しのそばにレタスとトマトときゅうりが並んでいるのを見つけて、あたしは台所へ滑り込んだ。
「あたしレタスちぎるー」
「ちぎるって……まあいっか、包丁足りないし」
 シンクの前、柊の隣に場所をもらって、お料理スタートだ。

 台所は広かったが、七人で作業するのは無理があった。早々と担当を決めた椎矢と楓生、苑美、柊が水周りに立ったため、あぶれた河音たちはダイニングテーブルを作業台にすることにした。
 左から、ピーラーでじゃがいもを剥く椎羅、芽取りをしてひとくち大に切る熱斗、ひとりでにんじんを担当する河音の並び。思えばまともに野菜の皮を剥くのは初めての河音は、手をけがしないよう細心の注意を払いつつも、隣で繰り広げられる謎のコンビネーションが気になって仕方ない。
 あれだけ柊さんを連呼していた椎羅だが、一緒に米五合を計量してからは特に柊に構うこともなく、自然とこのポジションに収まっている。ご飯係の柊は当然いちばんに仕事が終わってしまって、河音の後ろで苑美と一緒にサラダの野菜を洗っていた。
 熱斗は一度だけなにかを言いたそうな顔をしたきり、黙々と作業に没頭している、ように見える。だが、椎羅の皮むきのほうが時間がかかっていて、待たされるタイミングで浅いため息をつくのが聞こえた。
「明坂先輩って、柊さんのお友達なんですよね」
 ちょうどそのとき、椎羅がそう声をかけた。
 河音は楓生のでっちあげを思い返す。同学年の河音たちは幼なじみのご近所さんで、熱斗が楓生の親戚で、柊は熱斗の友達。つまり……。
「そーだけど」
「明坂先輩に聞きたいことがあるんです。先輩は柊さんのお姉さんのこと知ってますか?」
 椎羅は熱斗の冷たい返事にもめげずに、迷いなくその爆弾を投げ込んだ。指を滑らせそうになる河音とは違い、熱斗は、
「知ってるけど」
 と即答し、水を張ったボウルからじゃがいもを取り上げる。けど、の続きがなんなのか、具体的には分からないが、拒絶であることは間違いなかった。
 だが椎羅は真剣な、それでいて穏やかな表情を保ち、丁寧に作業を続ける。
「柊さんが話してくれたんです。お姉さんのことで悩みがあるって。わたし、力になりたくて……今日もいろいろ考えてたんですけど、柊さんに直接聞くのはあんまりよくない気がして」
 熱斗が手を止めた。
「見たのか」
 ひらりっ、と左手が動いて、示したのはおそらく腰のあたり。椎羅は顔を上げてこっくりとうなずいた。
 あ、と河音も思い当たる。柊はたくさん傷を持っていた。そのほとんどはヒュナによる治療が施され、跡形もなく消えたが、なにかの名残みたいな痣はまだその背をまだらに青く染めていた。
 今日はずっと水着の上に熱斗の着ていた緑のパーカーを羽織って、不自然でない程度に隠されていたはずだ。けれど、柊の一挙手一投足を熱烈に見つめていた椎羅は気づいてしまったのだろう。
「……お前になにができるかなんて、俺には分からない」
 さすがに熱斗も言葉を選んだ。椎羅はどれだけこの会話に備えていたのか、そっけなく目をそらした横顔をひるまず見上げる。
「でも、先輩は自分ができることを探してやってるんですよね。それはどういうことですか? わたしにはできないことですか?」
「手動かせ。聞いてどうすんの」
「ヒントにします、わたしにできることを探すための。いまはなんでも知りたいんです。お願いします」
 椎羅が最後のじゃがいもを剥き終えて、熱斗に差し出した。はらはらと見守る河音の前で、熱斗は黙ってそれを受け取った。返事がないことに椎羅は文句を言わなかった。

2016/6/5 (修正 2023/5/11)