=風の精霊ウィンディ=

夏休み 6

「あ」
 真後ろ、足下から声。振り返ると河音がうつむいてしゃがみ込んでいて、かがんだあたしになにかをつまみ上げて見せてくれる。
「どしたの?」
「カニ。サンダルについてた」
 差し出された指に挟まれて、赤っぽい虫みたいなちっちゃい生き物がジタバタしていた。
「ほわー、これがカニ! ちっちゃ」
「見たことない? 沢ガニとか川にもいるけど」
「あるよ。でも海のカニっておっきいじゃん、スーパーにいるやつとか」
「あれはもっと深いとこにいるんだろ。川魚だって浅瀬には小さいのしかいないし」
「ふーん。アクアは山の子だねー」
 ついそう呼んでしまってはっとする。顔を上げると河音と目があった。同じようにしまった、という顔をしている。手から落っこちたカニがしゃかしゃかと逃げていく。
 しばらく、海の光できらきらの瞳をじっと見ていた。けど、
「……っふ、あはは」
 すぐになんだかおかしくなって笑ってしまう。河音はきょとんとしていたけど、結局眉を下げて困ったように笑った。
「ねえねえ、他にもなんかいる?」
「なんかって?」
「生き物。海にいるものってよく分かんないんだよね。虫みたいのばっかりなのかな」
「砂の中とかいっぱいいそう」
 言うなり河音は、砂浜のくぼんだところをほじくりだす。じゃぶじゃぶと後ろからおしりを波に洗われながら、あたしはその手元を見守った。

「なにそれ。すっごい!」
 突然上から椎羅の声が降ってきて、あたしと河音は揃って顔を上げた。砂山の向こうから、頭まで海水をかぶった椎羅たちがざぶざぶと陸へ戻ってくる。
「なにって……河音、これなに?」
「え? えー、なんか、トンネルみたいな」
 湿らせた砂団子を堅く丸めながら、河音が戸惑いがちに答える。椎矢がそれを聞いて砂山を回り込み、
「トンネルあるの? わ、すごい」
 浜を掘って作った水路と、その先で砂山を貫くトンネルに感心する。楓生は反対側からトンネルをのぞき込んで、
「水門? 砦?」
 と首を傾げていた。河音は足下にためてあった砂団子を、砂山の中程に設けた段へせっせと並べていく。楓生がその様子からあたしに目を移して、
「あっ! あんたそれ、うちの眼鏡!? やめてや、ゴーグルやないがやき!」
 水着の肩紐に引っかけた眼鏡を指さして抗議してくる。
「あーごめんごめん。ダメだった?」
「普通いかんろ」
「はあーい」
 ダメって言われちゃったから、眼鏡を外して返した。楓生はレンズに息を吹きかけてからかける。
「にしても早瀬くん、こういうの好きなんだ」
 よいしょ、と椎矢がトンネルの先へしゃがみこんだ。
「なんか地面掘ってたら掘り出した砂が山になってて、気づいたら掘るのより山がメインになってた」
「これ山じゃないでしょ」
「ていうかなんで掘ってたの?」
 椎羅も砂山のそばにしゃがんで、そのへんの砂を団子にし始める。
「虫だよね。めっちゃくちゃ気持ち悪いやつ」
 あたしは変わらず見ているだけだ。海辺の地面はなにが出てくるか分からない。山の斜面を固めるのは手伝ったけど、あちこち掘り返すのはごめんだ。
「そうかなあ。山にいるのとちょっと違ってて面白いけど」
「早瀬くん虫好きなの?」
「男子だー」
「好きっていうか、家に畑があって虫とかいっぱいいるから」
「畑あるの!? すごーい」
 興味津々に聞きながら、椎羅と椎矢は勝手に水路を延ばしていく。家のことを聞かれた河音は目線を上げて楓生をうかがった。あたしたちは昔から親しいご近所さんということになっているから、それぞれが迂闊なことは言えないのだ。
「そろそろ戻らん? せっかく水が通るようにしちゅうけど、潮引いていきゆうし」
 楓生の言葉に、乾いた砂を掘り返していた椎矢が手を止める。
「ほんとだわ。お昼ご飯食べて、磯のほう行ってみる?」
「そうねー。遊んでたら忘れてたけど、おなかすいてきたし」
 そう言われるとあたしもおなかがすいてきた。手の砂をはたいて立ち上がる。
「ご飯にしよー!」
 ちょうどそのとき、別荘のテラスからおーいと声がした。
「お前ら昼飯どーすんのー?」
 振り返ると掃除を終えた熱斗がテラスの柵に肘を突いていた。あたしは両腕で大きく丸を作って返事に代える。
「……わっかんねーよ!」
「食べるー! 食べます!」

 楓生が朝、お母さんと握ったということになっているおにぎりと、江藤姉妹の本当のお母さんが用意してくれたおかずが本日のお昼ご飯だった。せっかくだからと、浜に敷いてあったレジャーシートの上までお弁当と飲み物を出してきてみんなで囲む。
 あたしは唐揚げのいちばん近くに座った。椎羅はちゃっかり柊の隣に収まっている。
「椎羅、行動はやー」
「ちげーよ、あれは俺が空けてやったの」
 感心していると、クーラーボックスを運んできてそのまま座った熱斗に訂正された。あたしや楓生の友達とはいえ、熱斗からすれば椎羅たちは赤の他人だ。そんな親切はめずらしい。
 どうしてかなと思ったら、熱斗は対角線の楓生にさりげなくウインク。楓生からは、
「どうぞ」
 と紙皿と割り箸が返ってきた。うーん、分からない。
 河音はそのそばでお茶のペットボトルを開けて、椎矢が並べる紙コップに注いでいた。ひとつひとつ、椎矢がみんなに回していく。
「苑美ー。はいこれお茶」
「ありがと椎矢」
「どうも。えーと、明坂先輩も」
 椎矢が差し出すふたつめのコップも、あたしが受け取って熱斗に渡した。熱斗はそれを、少し離れて並ぶ椎羅に回した。お礼を言って紙コップをもらった椎羅は、当然のように柊へ、
「柊さん、お茶どうぞ」
「ありがとう」
「どういたしましてっ!」
 あー、そうやって気を利かせるところだったのか、とあたしは真っ先に自分のものにしたお茶を飲みつつぼんやり思った。
「あとふたつくれ」
 自分のと椎羅のと、熱斗が要求する。椎矢はなぜかすぐには動かないで、
「河音」
「あ、はい」
 呼ばれた河音がコップを渡した。
「ちょっと苑美、こっち。隣来て」
「なに?」
 あたしは椎矢に呼ばれて、寄っていっただけではだめらしくて、河音と唐揚げの前を代わってもらう。
「あれ? 苑美もこっち来たがや」
 あたしに気づいた楓生が、お皿からプチトマトを分けてくれた。
「ありがとー。なんか椎矢に来てって言われて。どしたの?」
「どうもこうもないわよ。……はあ、落ち着く」
「椎矢、男子苦手やったっけ?」
「別にそういうわけじゃないけど。まあ好きか嫌いかだと好きじゃないけど。でも楓生の親戚のひと怖い」
「っぷ」
 楓生がこらえる素振りもなく吹き出した。あたしはつい熱斗のほうを見てしまって、目があったら我慢できなくなった。
「あっはは! そうなんだ! えー、っははあははは」
「うわー、まさかとは思うたけど! 言われた! いっかん、おもしろ」
「なによっ、二人ともそこまで笑わなくてもよくない!?」
 大声で言われて、楓生は「ごめんごめん」とすぐに笑うのをやめたけど、椎矢が割り箸でタコさんウインナーを力任せに突き刺すのがおかしくて、あたしはまた笑ってしまう。
「もーっ、苑美ー!」
「だってえー」
「いいわ、もう。ご飯食べたら磯よ、磯に行くわよ。泣いて嫌がってもだめだから! とんでもないもの見せるわよ!」

 ぎゃー! とあられもない悲鳴が台所まで届いて、熱斗は弁当箱を洗う手を止めた。
 室内には誰もいない。磯から響いてきたのは苑美の声だ。楽しそうだな、と素直に思って、しかし混ざりたいとは感じない。あんなに楽しそうなら、楽しそうな様子を知ることができたのなら、来た甲斐があったというものだ。
 流しの水音にも負けず、にぎやかな笑い声が響いてくる。

2016/6/5 (修正 2023/5/11)