=風の精霊ウィンディ=

夏休み 5

 熱斗と柊に、
「女子は時間かかるよなー」
「いってらっしゃい」
 と見送られ、晴天の浜へ出る。乾いた枯れ枝混じりの砂利を下ると、灰色の玉はどんどん小さくなり、やがて砂になる。手の届きそうな距離まで何度も海がせり上がり、濃く潮のにおいが漂った。
 潮風のにおいには、森のにおいとはまた違った生き物の気配が満ちている。薄暗く深い森から染み出すようなあの香りと、光をぎらぎらと反射し、どこまでも開けた海の姿はかけ離れてどこか似ていた。落ち着かない足取りで、砂の濡れていないところだけを歩く。海に触れるのはまだ怖かった。
 そこへ、
「河音ー!」
 大きな声と、砂利を踏む音。振り返ると、サンダルを手に裸足で駆けてくる苑美の姿が目に入った。荷物はほかになくて、ぱっと明るい赤地に白い水玉の水着姿だ。
「あつっ、いたっ」
 と陽射しに焼けた不安定な足場をそれでも走って乗り越えて、河音の目の前でぴたりと停止する。ひまわり付きの麦藁をぐいと押し上げ、苑美は笑った。
「見て見て。いいでしょ」
 やせっぽちの手足を広げてそう言われ、河音は「そうだね」と答えるしかない。気に入ってるって表情だから、それでいいはずだ。
「苑美、靴履いたほうがいいわよ!」
「ちったあ手伝いーや」
 椎羅と楓生が、それぞれパラソルとレジャーシートを抱えて浜へ下りてくる。椎羅は紺のミニスカートにピンクのキャミソールを合わせたような水着、楓生のは緑とグレーのボーダー柄のセパレート。
 小道を外れたすぐそばにシートを広げ始めた楓生と、その隣に閉じたままのパラソルを置いて、椎羅が駆け寄ってくる。そして苑美と同様河音の目前までやってきて、
「どうかしら、この水着。柊さん悩殺できちゃうと思う!?」
「は?」
 悩殺、というのはつい先日定との無駄話で覚えたばかりの単語だった。苑美は隣で漢字変換に時間を要しているようだが、河音には分かった。が、分かったがゆえに椎羅の発言は理解不能だ。
「姉さん、なにバカなこと言ってんのよ」
「きゃん!」
 いつの間にか背後まで来ていた椎矢が椎羅の頭をはたき、河音はハッと混乱から覚めた。
「いったーい!」
「痛いわけないわよ」
 頭を押さえての訴えを、椎矢は手に持ったなにか薄いものをぴらぴら振って退けた。苑美が真っ先にそれに飛びつく。
「なになに!?」
「ボールよ。見たことないの? 空気で膨らませるやつ」
「初めて見た! ねえこれって」
「それより!」
 ボール、になるらしきぺっちゃんこのビニールで盛り上がる苑美を腕で制し、椎羅が真っ正面に河音を見据えた。先ほど突拍子もない難題をくらった河音は思わず後ずさる。
「もうやめなさいよ、早瀬くん困ってるわよ」
 見かねたように椎矢が言う。しかし椎羅は拳まで握って、
「でも、早瀬くんしかいないのよ、意見を聞ける男子! じゃあ、そうだ!」
 なにやらひらめいた様子。ぱっとその場を飛びのき、
「なにしゆうが?」
 シートとパラソルをセッティングし終えてすぐそこまで来ていた楓生を見事輪の中に巻き込み、
「この中で、誰の水着がいちばんいいと思う!?」
「はあ!?」
 けっこう遠慮のない呆れ声が出た。それでも強く要求されるとつい従うように視線が左右してしまう。見れば椎矢の焦げ茶のショーツパンツに黄色いタンクトップという服みたいな水着は、椎羅とペアになってるみたいにも思える。姉妹でお揃いなのかな、なんてことを考えていると、
「早瀬くんも真面目に取り合わなくていいから!」
 椎矢になぜか機嫌の悪い声で止められた。椎羅は椎羅で、まだ目に期待を浮かべている。もうなにがなんやら。
「えっと、みんな学校より明るいなあ、って、思った」
 苦し紛れに、昨夜ショッピングモールの水着コーナーでも抱いた感想を口にしてみると、
「なにそれ、当たり前やん」
 意外にも楓生が笑ってくれて、しかもけっこう楽しそうで、
「それよりさあ、これどうやってボールになんの?」
 苑美はまだビニールをいじり回していて、
「そこに吹き口あるじゃない。空気入れるのよ」
「あ、でも最初かなりきついわよ。できる? しゅこしゅこいる?」
「しゅこしゅこ? それも知らない! なに?」
「椎矢が出してきちょったやつやお。あんたやったらなしでも膨らむがやない?」
「そうかな、やってみる!」
 なんだか分からないけれど、夏の海は明るくて賑やかで、学校よりも華やかで、なんだか分からなくても大丈夫そうだった。

 しゅこしゅこを借りて膨らましたビーチボールはさておき、とにかくまずは海だ。靴を濡れない場所に置いて、あたしは波打ち際に足を踏み入れた。
 海水に濡れて黒っぽくなった砂は、温度だけじゃなく触れた感触すら乾いた場所とは違う。ほんのりぬるくて、きゅっと締まったように硬い。少し踏み込めば踝が水面に隠れるのなんてすぐで、この地面がはるか沖まで続いてるのがとても不思議に思えた。ここから数メートルも進めば、海は底なしに青くなる。
「どう? 初めての海は」
 足首まで水に浸けて立ち尽くすあたしを、椎羅がひょいとのぞき込んだ。
「ほんとに初めてだからなんて言っていいかわかんないけど……おっきいねえ」
「ふふ、そうね」
 魔界の家からは砂の地平線が見える。その先には海があるけど、見に行ったことはない。いま目の前にその海があって、広がる水平線へと、椎矢がぱしゃぱしゃと歩いていく。
「腰くらいの深さまでだったら、普通に入っちゃって平気。それより深いとこは、場所によって急に深くなるから気をつけてね」
 そう言ってざぶんと頭まで潜り、数秒後にすこし離れたところから顔だけを出した。
「苑美は水嫌いやき、泳ぐほどのくまで行かんろう」
 言いつつ楓生は眼鏡を外してあたしの手に押しつける。
「持っちょって」
 そうしてざぶざぶ、椎矢の浮かんでいる辺りまで進んでいく。椎羅も手首にかけていたゴムで髪をまとめると、
「いいなー、わたしも!」
 と海に入っていってしまった。
「あーきもちい。海入ったらすうしいね」
「でしょー。プールより体浮きやすいし、日焼け止め塗りまくっても怒られないし、海最高!」
「あ、階段あるほうは泳いでいってもいいけど、あっちの崖の下は行っちゃダメよ。流されてっちゃうから」
 なーんて、海の中では楽しげな会話と、ときどき水の飛沫が飛び交っている。あたしは正直、膝より深いところまでは行く気になれなくてひとり取り残されてしまう。
 あたしが泳ぐの好きじゃないから仕方ないんだけど、なんだか柊のことで置いてかれてたことを思い出して微妙な気分だ。ちょっとがんばってみんなのとこまで行ってみようかな、なんて思ってたときだった。

2016/3/16 (修正 2023/5/11)