=風の精霊ウィンディ=

夏休み 3

「まずは海でしょー」
 だいぶ明るさを取り戻した顔で、椎矢が人差し指を立てる。
「それからお昼はお弁当……だけど、用意あるの?」
 ぴーすを作って、椎矢が尋ねた。楓生は、
「もちろん。夕飯以降の食材も、椎羅と相談して人数分構えてきちゅうで」
 昨日の買い物はショッピングモールのスーパー部門にも及んだ。あんまり興味なくて奥までついてかなかったけど、そういう買い物をしてたのか。お弁当は渡されてないけど、まあどこかの荷物に入ってるんだろう。
「じゃあ基本は予定通りでいいのね。夜はカレー作って、次の日も海で遊んで、物置に道具あるからバーベキューできるみたい。あと花火! 今日やってもいいけど、できたらあとのお楽しみかしら」
「今日も明日も海ってこと?」
「そうよ、それが最大の目的だもの。別に泳がなくてもいいのよ。砂遊びもできるし、ちょっと行けば磯もあるし、ボールとかトランプとかもあったと思うわ」
 そう聞くとなんだか面白そうだ。人間界の遊びは、まだおしゃべり以外に知らない。それが二日も楽しめるなんて、思ってたよりいいかも。
「早く着かないかなあ。あたし海初めて」
「そういえばそんなこと言ってたわね。枝葉川からならそんなに遠くないのに――あ」
 ふいに椎矢が座席から身を乗り出し、あたしの後ろの窓を指さす。
「海、見えるわよ」
「えっ、どこ!?」
 振り返ると、晴天が窓の大半を占め、その下に、白い光をきらきら映す水面があった。
「うわあ……」
 近いところは真っ青に、遠くなると黒々と、海はどこまでも広く横たわっている。地平まで……違う、これは、水平線ってやつだ。
 くちをついた言葉はひとつ、
「海だあ」
 ため息みたいにこぼれ落ちる。窓枠に突っ伏していた河音がなにごとかと顔を上げて、
「……海だ」
 あたしとまったく同じことを言って楓生を笑わせた。前の座席では、椎羅が窓に貼りついて柊に海を示している。促されて海を眺める柊の目は、夏の光を反射して海と同じような色をしていた。
 これはなんだか、すっごく、楽しいかもしれない!

 途中から貸し切りになったバスは、ぐねぐねした山道を速度を緩めずに上って河音をさらに酔わせ、ボロボロさびさびのバス停に停まった。アナウンスされた名前が聞き取れなくてバス停を見ると、そちらも日焼けで掠れて読めなくなっていた。
 山のにおいに混じって、不思議なにおいを含んだ風が吹く。遠く、ざわざわと風の鳴るような音もする。たぶん、これが初めての海のにおいと音なんだろう。
 椎羅と椎矢は慣れたもので、
「うーん、一年ぶり!」
「こっちよ。足下気をつけて」
 屋根もベンチもないバス停の、裏というかそばというか、茂みが割れているところへ入っていく。ぐったりしている河音のリュックを引き受けて、二人の後ろへ続く。茂みの奥では、いちおう石で段差を作ったと言えなくもない、という程度の階段が、蛇行しながら急な斜面を下っていた。
 木に囲まれて視界は悪い。階段は途中で急に曲がって、その先からにわかに光の量が増した。
「うわー!」
 海。あとはまっすぐなだけの階段、簡単にコンクリで舗装された細い道、グレーの砂浜。その先はもう、打ち寄せる波、白い光、ずっとずっと、もう、海だけだ。
「海だ……本物だあ」
「階段で止まらんとってくれる?」
 後ろから楓生に小突かれた。慌てて狭い階段の降り口を飛び退いて、でも興奮は覚めそうにない。
「ごめん、でもでも、本物! 海だよ海!」
 おなか側にかけたリュックを押さえながら波打つ水面を指さす。一足先に舗道を行っていた椎羅が、やっぱり興奮気味に両手を広げた。
「これからここで泳ぐのよ!」
「えーすごい! お、泳いで大丈夫? ちょっと怖い……でもなんかすごい!」
 思わず椎羅のところまでダッシュしてしまう。追いついて、どちらからともなくぱちんと手を打つ。
「ここが別荘。あっちが物置。向こうは岬で、反対をぐるっと回って次の岬越えると、ちょっと漁師町になってるの」
 まず指さされたのは、二階建ての家。明るい木の色で、一階にテラスが出ている。道より陸側は主に砂利で、そこにボートがひとつ置かれ、それを挟んで物置が建っている。こちらは体育倉庫みたいなシンプルな造りだ。道はその戸口へと続いていた。
 岬というのはそのさらに向こうだろう。山の地形が海へ突きだし、露出した岩肌が波に打たれている。振り返ると、降りてきた階段の奥にも、だいぶ遠いけれど同じような地形があった。
 ここは海岸線がへっこんだ、内側の左端に当たるようだ。見渡す湾の中にはあたしたちしかいない。海を貸し切り……うそみたい。
「部屋案内するから来てー」
 もう建物に入っていた椎矢が、テラスへサンダルを出しながら呼ぶ。
「はあーい」
 と返事をして、あたしはこれも初めての、別荘の中へと足を踏み入れた。
 玄関前にはテラスの高さまで、道と同じ色のコンクリで階段が積んである。シンプルな玄関を入ると、正面には階段。左手に進むとドアなしでキッチンダイニングへと続く。テラスへの窓の枠、大きな木のテーブルと椅子、カウンターとその奥にキッチンセット、そして食器棚も床も壁も、同じ明るい色の木でできている。
 同じ色ばかりで分かりにくいけど、階段の裏に当たるところにドアがあって、中は――
「苑美、スリッパ!」
 後ろから声をかけられた。
「家じゃないんだから、足汚れるわよ。はい」
 追いついてきた椎羅にスリッパを手渡される。足の裏は意識すると少しざらついている気もするけど、見ても汚れてなかったのでそのまま履いた。
「ありがと。このドアなに?」
「トイレよ。隣が洗面所とシャワー。それより、寝室は上なんだけど部屋割りどうする?」
 そういえば、予定と人数違うんだった。ぞろぞろと室内へ上がってくる面々と順に顔を見合わせる。
 楓生がテーブルに荷物を置きながら聞いた。
「部屋とベッドいくつやっけ?」
「わたしと椎羅の部屋はベッド二つ、お父さんとお母さんの部屋も二つ、あとはいつも弟とおじいちゃんが一緒に寝てるとこがあって、そこはベッドくっつけてあるわ」
 テラスの窓を閉めながら、椎矢がすらすらと答える。「そうやね」とひとつうなずいた楓生は、たぶんもう全部を決めている。部屋の数だって椎羅から確認済みに違いない。
 そうして発表されたのは、
「椎羅と椎矢は自分らあの部屋やお。ご両親の部屋、うちが苑美と借りてかまん?」
 問われた椎矢は、椎羅と軽くアイコンタクト。ふたりともほんのちょっと戸惑っている。
「わたしたちはいいけど……早瀬くんたちはそれでいいの?」
「女子四人、男子三人、部屋三つ、順当やお」
 まあ、その通りだ。椎羅と椎矢からすれば、どの程度の知り合いかも分からず学年も違う三人が一緒ってどうなの? というところだが、実際は同じ家で暮らしてる面子だ。二泊ぐらい部屋がひとつになったところでわずらわしいことはなにもない。

2016/1/20 (修正 2023/3/25)