=風の精霊ウィンディ=

七月 1

 月が変わってすぐ、期末の試験範囲が発表になった。授業は一学期のまとめにかかり、テストとともに夏休みの宿題についてもお知らせされる。椎羅と椎矢の弓道部は、もともと少ない練習が一切なしになった。
 あたしは次も成績が悪いと、夏休みまで学校に呼び出されて補習を受けることになるらしい。それを避けるべく、テスト直前の日曜日に、椎羅が勉強会を開いてくれた。
 場所は江藤家。あたしも楓生も、これが初めてのお呼ばれだ。
 最寄り駅から電車に乗って、西のほうの香島というところで降りる。駅には二人が迎えに来てくれていて、しゃべりながら歩けば10分ほどの道のりはすぐだった。
 あたしたちのいるところより静かな住宅街の、少し奥まった場所に家はあった。明るい庭付きの三階建てで、かなり新しいように見える。日曜なのにお父さんとおじいさんは仕事でいなくて、六つ下だという弟と、エプロン姿のお母さんが迎えてくれた。友達のお母さん、というのもあたしは初めてだ。
 どんな人か気になったけど、椎羅と椎矢はさっさとあたしたちを部屋に引っ張り込み、お母さんからはジュースとお菓子だけをもらってきた。机もベッドもたんすも、みんな対で揃っている部屋に、折りたたみのローテーブルを出して勉強会が始まった。
「まあ、わたしたち集まってしゃべりたいだけなんだけどね」
 そう言っていた椎矢は、なんだかんだであたしの勉強をいちばんよく見てくれた。
「苑美そこ、またマイナス見落としてる」
「えっ、どれどれ?」
「ほらこれ。計算が全然できないわけじゃないんだから、もったいないでしょ」
 グロウにも同じこと言われたなあ、と思いながら顔を上げると、楓生は黙々と英単語を書き取っていた。家で散々頼ってるせいか、いまはあたしのほうを見向きもしない。
 椎羅はというと、歴史のプリントに赤シートを乗せつつ、チョコの包装をいじくっていた。
 しばらくはそうやって、いちおう、めいめいに不安がある科目の勉強に励む。あたしは先生が直々にくれた問題を解きながら、ときどき部屋を見回していた。子犬のイラストのカーペット、夜空模様のカーテン、机の下のマットにはお菓子の絵が散りばめられている。絵がいっぱいの部屋だなあ、という印象だった。本棚の中身も、教科書やノート以外はピンクや赤の背が並んでいる。全部同じ雑誌の少女漫画だそうだ。
 そういえば、人間界の普通の家というのも初めてだった。決まったスケジュールばかりの学校に通っていると、ここで生活してまだ数ヶ月ということを簡単に忘れてしまう。アルサといたときはよくよそのお家に泊まらせてもらっていたけど、いつかここへ泊まる日も来るんだろうか。
 ぼんやりとそんな空想が始まって、手が疎かになる。それを飽きたと見たのか、椎羅が突然、ねえ! と声を上げた。
「夏休みって、楓生と苑美はなにか予定ある?」
 名前を並べて聞かれ、ついあたしたちは顔を見合わせる。予定……そんなものはないとも言えるし、分からないだけとも言える。何事もなければあたしは自宅に帰りたいけど、城から追加の報告がない以上、そうなるとは断言できない。
 楓生が先に答えた。
「うちは今んとこなんも聞いちゃあせんけど。どっかでおばあちゃんく行くばあで」
「あっ、あたしもなにもない! はず!」
 手を挙げてしまって、椎矢に「なにそれ」と笑われた。が、椎羅はそんなこと気にせず、目を輝かせて言う。
「じゃあ、一緒にお泊まりに行かない!?」
 さっきまで考えていたことと微妙に重なっていて、あたしは思わず固まった。楓生はそんなこと知る由もなく、
「お泊まりち、どこで?」
「おじいちゃんの別荘! ここからバスで一時間半ぐらいのとこ、海のすぐそばにあるの。古いけどおっきくて、目の前のビーチが一人占めできるの!」
 ハイテンションの椎羅に、椎矢もいつもより興奮気味に続ける。
「ビーチって言っても、石もいっぱいで南国の砂浜って感じじゃないけどね。でも、バーベキューとかできるし、たまに人に貸してるから掃除もできててきれいよ。それになんといっても、子供だけで行けるのよ」
「子供だけで、って?」
 聞いてから、失言だったと気づいて口を押さえる。そうだ、あたしたちここでは子供なんだ。
 だけど椎矢たちはそれを「どうして子供だけで行けるの?」と取ったようで、
「わたしと椎矢でお願いしたのよ。中間テストの点が良かったら友達と大人抜きで別荘を使わせてほしいって。ギリギリだったけど、条件はクリアできてたの!」
「わたしたち、中学生になったら絶対やってみたいと思ってたのよね。もっと先でもよかったんだけど、楓生と苑美と一緒に行きたいと思ったの」
 ね、と双子が微笑み合う。あたしと楓生はまたも顔を見合わせたけど、椎羅と椎矢のようには通じあえなかった。あたしは楓生が答えを出すのを待つ。
「それ、日とか決めちゅう?」
「日付はまだ。でも夏休みに入ってすぐよ。食料品とか持ってかなきゃいけないから、二泊三日ぐらいね」
「ふうん、えいやん。でも夏休み入ってすぐと言うたら……」
 楓生が言葉を切り、三人の視線があたしに集う。
「苑美! 絶対に補習は回避してね!」
 椎羅がこの勉強会を開いたのは、つまりはそういうことだった。

 江藤姉妹への返事は、行きたいけど親に確認を取ってから、ということになった。うまい言い訳だと思ったけど、この世界では常識的な対応らしい。その後はあたしがなんとしても補習に引っかからないよう、熱意のこもった指導が行われた。おかげで頭の中は数字と記号とアルファベットでぱんぱんだ。
 電車が見慣れた町に到着したのは、まだ明るい六時前だった。路線バスを横目に、駅前から続く大きな通りを川に向けて下る。
「明日の放課後も、教室に残ってやるって言ってたよねえ。もしかして、これから毎日やらされるの?」
「あんたはそればあしちょったがようない?」
「そうだけど、それよりもっと大事なことあるでしょ」
 お泊まりに行けるか行けないか。それはあたしの補習と、お城の侵入者のその後にかかっている。
「あれについては、今晩にでも通信鏡で聞いてみちょくわ。それでは話せんようやったら、放課後にでもちゃっと行ってくるし」
「えー? 楓生だけ勉強会抜けるの?」
「うち万が一にも補習はないもん。それに、週末まで返事待たせれんろ」
「そうだけどー」
 あたしたちが相談するのは、あくまでお家の人という設定だ。親並みに行動を制限できる人と週末まで会えない、なんて二人にはとても言えない。
 運よく、行く手の信号が青になる。その手前で、楓生が足を止めた。
「苑美、そっちやない。スーパー寄って帰るき。昼はあんたのお兄さんがしてくれることになっちょったき、冷蔵庫なんもないで」
 日曜だから、お兄ちゃんは午前中からうちにきて、昼ご飯を作って食べて、ユールをヒュナさんのもとへ連れ帰っている。グロウは材料持ち込みで一食担ってくれるのをかなりありがたがっていた。
「……ほんとだったら、お兄ちゃんに許可取ったりするとこなのかな」
 親に聞いてみなきゃとか、あたしにはよく分からない。なにもかもお兄ちゃんには事後報告だったし、親らしかったのはアルサのほうかもしれない。グロウには、ちょっとだけ分かるはずだ。厳しいお父さんがいたと言っていたから。
 グロウは、大きすぎる眼鏡の向こうで少し笑った。
「そうしてみたら? クルスさん、ユールと一緒にもんてくるろ」
「でも」
「えいやん、そんながも人間界の楽しみの一環やない?」
 すぐに信号が変わって、グロウは歩き出してしまう。その背中に、あたしは車の音に負けないよう答える。
「そうだね、聞いてみる!」
 そんな「楽しみ」を持てるのは、精霊ではもうあたしだけなのだ。

2015/8/20 (修正 2023/3/25)