熱斗の案内で向かった先は、学校の隣にある公園だった。公園の半分はフェンスで囲われ、小さな運動場になっている。フェンスは熱斗の背より高く、植物が巻き付いていてほとんど見透かせない。
「あの向こう」
と指さして、熱斗はフェンスを回り込む。角のところに、制服姿の女子が二人、肩を寄せあって身を屈めていた。カバンも二つ、その背後に転がされている。
「楓生、椎矢」
呼ぶと二人が瞬時に振り返る。そして、
「しっ!」
唇の前に指を立て、鋭い息の音。肩をすくめて近寄ると、いちばんフェンス寄りの場所を譲ってくれた。耳元で楓生がささやく。
「そーっと見いよ。声出されんで」
うなずきながら、葉っぱの向こうへ顔を出す。フェンスの次の角にほど近い場所にベンチが置かれ、そこに椎羅と柊が座っていた。なにか話をしているらしい。手前の椎羅は頻繁に胸の前で手を動かし、時折声が高くなるとここまで聞こえる。柊のほうはほとんど見えないけど、どうせまた表情一つ変えないで話を聞いているのだろう。
椎矢と楓生の後ろへ引っ込む。いつの間にか熱斗の姿はなくなっていた。ほんとにあたしのために戻ってきてくれたんだ。
「ここ来てどのくらい経ったの?」
三人して少し角を離れ、内緒話の音量で尋ねる。
「20分弱ってとこかしら」
「なに話してるか聞こえる?」
「たまに聞こえるわよ。姉さんの声だけだけど」
椎矢の口調は、教室で椎羅の柊さんトークを聞き流すときより淡々としていた。どうも、覗き見の熱はとっくに冷めているらしい。
黙っている楓生に聞いてみる。
「ねえ、これ楽しい?」
「楽しゅうておりゆうわけやないし。仲介したからには、うまいこといきゆうかたしかめる責任があるろ」
なるほど、と納得してしまってから気づく。それは建前だ。楓生がしてるのは覗き見じゃなく、見張りなのだ。
昨夜まで、楓生は柊といろいろ話し合っていた。柊相手にいろいろ話してたっていうほうが正確だけど。椎羅が聞いてきそうなことに対してどう答えるか。それがほとんどだったと思う。
たとえば家族、たとえば好きなもの、友達、出自、この先の予定、などなど。正直に答えるとまずいものが、あたしたちにはたくさんある。それをごまかす準備が必要だった。
ちゃんと聞いてなかったけど、お姉さんがいること、熱斗と仲がいいこと、家はまあまあ近いこと、は事実に沿って答える手はずだったと思う。フィクションで対応する部分についてはよく分からない。
「あっ」
椎矢がまた角へ首を伸ばした。椎羅の声が少し大きく聞こえてくる。……内容は聞き取れない。角まで行けば聞こえるのかもしれないけど、そこまで心惹かれなかった。楓生は先ほど言ったとおり、責任を持って耳をそばだてている。
あたしは黙って立ち上がった。気配で察したのか、楓生がちょっと振り返って小さく手を上げる。言わなくても大丈夫みたいだったから、あたしはそのままきびすを返した。
「ただいまーっ」
「おかえり。早かったね」
ひとりで家に帰ると、アクアが冷蔵庫の前で飲み物を探しているところだった。依川はそれほど待たなかったのか、すでに制服は着替えている。
「あたし麦茶」
「うん。……柊と椎羅、どうだった?」
飲み物を迷っていたらしいアクアは、結局コップ二つに麦茶を入れてダイニングテーブルに持ってきた。受け取って、半分まで飲んでから答える。
「楽しそうだったよ、椎羅は。柊はまあ、いつも通り」
「そっか」
なんで先帰ってきたの? とは聞かれなかった。聞かれてもそれはそれで困るけど。
しんとした中で麦茶だけが減っていく。そういえば、やたら静かだ。
「ゴッドは? 先帰ってたみたいだけど」
尋ねると、アクアはそうなの? と目を丸くした。
「おれが帰ってきたときは誰もいなかったけど。靴、あったっけ」
「あったよ、たぶん」
「じゃあ部屋にいるんじゃないか?」
おっしゃるとおり、というやつだった。空っぽになったコップを流しに置いて、二階へ上がってみる。
荷物を自分の部屋に放り込んで、いちばん奥のドアを開けた。ゴッドの自己申告により、ノックはしなくていいことになっている。
「あれ?」
誰もいなかった。電気はついておらず、窓はカーテンが半分開いていて、まだ明るい空が見えていた。
グロウとユールが一緒に帰ってきて、あらかじめそうなると知っていたかのように、四人前の夕飯が用意された。ゴッドはその日の間は帰ってこなかった。朝は普通にあたしやアクアを起こして回ってたから、夜中にでも帰ってきたのだろう。
そういうことがしばらく続いた。椎羅は放課後、三日に一度くらい柊と会って、ゴッドはときどき夕方から夜中にかけていなくなる。
ユールはヒュナさんとも会っているらしい。お兄ちゃんが週末ごと迎えに来て、ついでにあたしやみんなの近況を聞き、ご飯も一食作っていく。
はっきりとは見えないなにかが動き出していた。
「柊さん、お姉さんとなにがあったんだろ……」
昼休み、向かい合わせにくっつけた机で椎羅がぽつりとこぼした。
あれから、あたしは二人の会話を聞きにいってはいない。椎矢もついて行ったのは一度だけだそうだ。グロウも表向きはそういうことになっている。
椎羅の言いたいことは、なんとなく分かった。思わず肩が強ばる。楓生は知らないふりをするかと思ったけど、ああ、と訳知りな息をついた。その正面にいた椎矢が、
「楓生はあのこと知ってるの?」
その口振りにまたもひやっとする。でもそうだ、椎矢と椎羅はきょうだいなんだから、家で聞いたのか。近頃こんなことばかりだ。
「うちも又聞きやけどね。そのへんがまあ、悩みみたいなもんとは聞いちゅう」
曖昧な答えに、椎羅は視線を落としたままだ。
「そう……そうなの。そこに悩みがあるのは分かったの。でも、それ以上は話してくれなくて……」
「ていうかよく聞いたわね、そんなデリケートなこと」
「だって、聞かれてイヤなことありますか? って聞いたら、なんでもかまわないって」
うーん、柊っぽい。それと比べると、楓生が仕込んだ回答ぼやかし術はちょっと不自然なようにも思えた。あたしも多少は、あの理解しがたい無言の人が分かってきたのかもしれない。
主犯の楓生は、落ち込む椎羅をじっと見て、やや唐突なことを言った。
「どこぞ出かけてみたら? 柊誘うて、一緒に」
「えっ?」
椎羅が顔を上げ、蛍光灯の光が白くその頬を照らす。
「それって、デート!?」
梅雨のさなかのことだった。人間界で初めて迎える、季節の転換。雨ばかりの毎日は新鮮で、ただ少し空が重い。そして残念なことに、二度目の定期テストが近づいていた。