なんで? と聞くより早く、まあ説明するき、と遮られる。
「こないだ、学校で熱斗と柊が一緒におりゆうところを椎矢に見られたやん。あれ、適当にごまかいてしもうてもえいけど、せっかくやき有効に活用できんろうかと思うて」
「はあ」
「事情聞いたうちらあだけやのうて、なんちゃあ知らん他人との交流持つがもユールのためになるろう。けんど、自発的にクラスで友達作れらあて最初からは無理。やき、うちが間に入れて、もとからユールのこと好意的に見てくれゆう椎羅と会わせる」
「散髪は関係あるの?」
「あんまり校内で浮く格好やないほうが、部外者に変に思われんでえいろう。結果これやけど、まあ、近くで話すときの圧迫感みたいながはマシやお。どうで?」
グロウは隙のない笑みを浮かべてあたしたちにそう語り、最後にユールと目を合わせた。
「ユール、椎羅と会うてみちゃってくれる?」
「分かった」
二つ返事どころじゃなかった。この了承に意味はあるんだろうか。
だけどまあ、悪いことではないと思う。なにしろグロウの言うことだ。あたしよりいろいろ考えてるだろうし、ユールに対しても親身なんだから。
「じゃあそういうことやき。準備せないかんことはいろいろあるけんど、うちはまず夕飯作るわ」
抱えていた用事を済ませてすっきり、といった足取りで、グロウは台所へ引っ込んでいった。
残された当のユールは、首も動かさずぽつんと突っ立っていたが、
「髪、くくってみるか? こっち来いよ」
とゴッドに呼ばれてリビングへ向かう。あたしは期待していたご飯もまだですることもなく、テレビの前でなにかの本を広げるアクアのところへ、意味もなくちょっかいをかけに行く。
「聞いてた? どうするんだろうね、あれ」
「うん」
生返事のアクアは、古びた本と向き合っている。見ればページを埋めるのは魔法陣ばかりで、文章はほとんどない。そしてどれも、どこか懐かしいような陣だった。
「あれ? この本って」
「ルサ・イルの古い作品集。フィーが持ってたんだ」
「へえ。アルサの陣かあ」
そう相槌を打って、ふと気づく。アクアから魔法陣の話を聞くのって、いつぶりだろう。
思わず肩を並べた距離からその横顔をじっと見てしまう。その表情はあたしの視線にも揺らがず、真剣で、それでいて穏やかだった。
ネイチャー様からなにか聞いてきたんだろうか。そう思ったけれど、いまは問いかけても答えてくれそうにない。
だけど、それはなんだかよいことのような気がして、あたしは意味もなくアクアの隣に座り続けていた。
切っても長いユールの髪は、結局あのまま結ばないことになった。あたしの髪みたいにばさばさ広がらないし、前より顔周りは明るくなったし、ということらしい。あたしにはまだまだ暗いままに見えるけど、相手は椎羅だ。いままでのがオッケーなら、これだけさっぱりすれば十分すぎるだろう。
もたもたしていると期末テストが迫ってくるため、決行は月曜からとなった。椎羅にでっちあげた事情を説明して、ユールに会えるけどどうする? と提案する。なんて簡単な作戦だろう。今日は始終バタバタしていたお城とは大違いだ。
顔を上げると、洗面台の鏡の中のあたしと目があった。歯ブラシに歯磨き粉をつけてくわえる。鏡に映るあたしは、歯磨き粉がまずいみたいな覇気のない顔をしていた。
なんだか、本当の日常がどこにあるのか分からなくなってくる。城に侵入者があったと聞いて、精霊としてやるべきことが降ってきた気がした。でも、それからここへ帰ってきてやったのは、学校の補修課題の数学だ。
あたしにあるべきなにかが足りない。
しゃこしゃこと歯ブラシを動かしながら、そんなことを考える。しゃこしゃこ。しゃこしゃこしゃこ。そのうち歯磨き粉の泡が垂れてきて、それを拭ったときだった。
きい、と小さな音でお風呂場のドアが開き、背後に熱と湿気が広がる。その様子は一瞬だけ鏡に映り、すぐに曇って見えなくなった。
流しに泡を吐き出して、振り返る。まだ新しいクリーム色のタオルを手に、ユールが髪を絞っていた。ぼたぼたぼた、と大きな滴が足下のマットに落ちる。腕を上げ、髪を持ち上げてさらされた背には、まだいくつかの痣があった。
普通に見えるように、とグロウは言っていた。普通に振る舞えるように、とゴッドが言っていた。
ユールは、少し短くなった髪を絞り終えると、ヘアゴムでまとめた。同じタオルでからだを拭く。あたしなんかよりずっと頼りない、薄っぺらな胴体から水気が拭われる。あばらは数えられるほどくっきりと浮いていた。
ちゃんとしている。ユールはちゃんとするべきことはちゃんとするのだ。寝間着が濡れないように髪をくくるし、お風呂最後だったから換気扇をつけるし、足拭きマットと使ったタオルを洗濯機に入れる。その動作はどれもすみずみまで滑らかで澱みない。
ときどきそれが、とてつもなく不自然に思える。痣を持った枝切れのようなからだが、こうもすらすらと動くなんて、なにかの間違いじゃないかと思ってしまう。
寝間着を着たユールが、新しいタオルを取るためにからだの向きを変える。いつも顔にかぶっている前髪が、いまはほとんど耳にかけられて、青い瞳がよく見えた。
その色の強さを目にすると、さっきのような違和感はどこかへ行ってしまった。ユールが持っているようなものを、あたしもほとんど同じだけ持っている。魔力の表出である、不自然なほどの青。だけどそれが、ユールのなにかをたしかに裏付けているような、そんな気がするのだ。
ユールはやはりなんの滞りもなくタオルを取り出して肩にかけ、息の音も聞こえない静かさで洗面所を出ていった。あたしは鏡に向き直って、あの青と変わらない強さの深い赤と見つめあう。
同じだけ強いはずなのに、いまはなんだか物足りなかった。自分相手なのに目をそらすと負けのような気がして、うがい用のコップを手探りで取ろうとする。見事に失敗してコップはからん、と流しに転がった。
6月に入って、制服は夏服に替わっていた。男子はほとんどがそのままだけど、あたしたちのセーラー服は襟とスカートまで白くなり、教室中がだいぶ明るい。差し色の赤があたしは好きだ。
そんな明るい昼休みに、午前中はうちのクラスに現れなかった楓生が切り出した。
「椎羅にお知らせあるがやけど」
「わたしに?」
聞き返しつつ、お弁当を広げる手まではとまらない。お知らせの重大さを知っているあたしのほうが、つい水筒を持つ手にちからを込めてしまう。楓生はもったいぶることなく本題を告げた。
「冬山柊と会えるかもしれん」
「えっ、うそ」
「ほんと」
「えっ!? えっ、えーっ!」