「そ、れは……そんな」
否定しなくては、と思ったのに声が詰まった。居場所ならもらった。精霊のみんなを巻き込んで、一緒に人間界に残ってまで作ってもらった居場所なのだ。それこそ、ゴッドは本当に巻き添えを食ったようなものだった。ここまでしてもらって、居場所がないなんて、言えない。なのに、
「じゃあアクアは自分の家ってどこだと思ってる?」
ふいに投げかけられた問いにもアクアは答えられない。くちごもって、聞き方に引っかかるものがあることに気づいて問い返す。
「……ゴッドは、どこを自分の家だと思うの?」
精霊狩りで母親を亡くし、ゴッドはグロウの父親に世話になっていたという。グロウの父も精霊狩りに遭ってからは、人間界へ来るまでグロウとふたりで生活していたはずだ。そしてゴッドが生まれ育ったであろうこの家の有様。似たような経験、と言われた意味がやっと見えてくる。
澱んだ部屋の空気に反して、ゴッドはあっさりと答えた。
「いまはない。でも、人間界にしようと思ってる」
「しようと思ってるって」
「それがいちばんしっくりくるし、丸く収まるかなって。まあいいんだよ、俺のことは。お前は?」
「ま、待って! ないとか、考えるとか、そういうのありだと思わなくて……」
フィーのいない庭園、精霊たちのいる人間界、まだ玄関を開けたこともない湖の畔の家。フィーがいないから庭園には戻れなくて、人間界には猶予をもらって仮住まいしているだけで、いつかはあの湖畔へ行かなければならないのだと、思い込んでいたことに初めて気づいた。
選択肢だなんて思ってもみなかった。あらかじめ引かれた道筋だと思っていた。与えてもらった居場所に馴染めないのは自分が悪いのだと落ち込んでいた。
腹のなかにフィーの存在を感じるたび、庭園の匂いを思い出して焦がれ、そのくせ実際に谷風に吹かれると追い出されたような気分になる。それなのに、草の上にしゃがみこむと抱きしめられたように動けず、小川のせせらぎに指を浸すとそのまま溶けてしまいたくなる。アクアはいつも、庭園から持ち出すつもりでいた物の半分しか鞄に入れずに人間界へ帰っている。
「おれは……おれは、人間界の家が、ほんとはいまの家なんだと思う。でもやっぱりフィーの庭にいたくて、でも、あそこにはもうフィーはいないのに」
「フィーがいなきゃ自分の家じゃないと思うか?」
アクアは頷いた。考えるまでもなくからだが動いていた。だって、と、あとから思考が追いついてくるよりゴッドの言葉が早かった。
「そうなるよな。つーか、フィーのいない家なんか自分の家じゃないって思いたいか」
ぎくりとした。
「分かるよ」
アクアと同じだと言うくせに、その人には不安も戸惑いも幼さもない。かつてあったと言われても、にわかには信じがたかった。陽の色をした目は熱も揺らぎもなく、余裕をもってこちらを見ている。
「ゴッドは、どうしたの? この家、戻って来れなくなってどうしたの?」
「ん? ああ、それなら見てきただろ。こうした」
親指がドアを指す。この部屋の、明らかにあとから取り付けた鍵、扉の前まで来て脱いだ靴。時の止まったキッチンと、誰かが脱いだままの靴と、鍵の開いた玄関。
ゴッドは自ら選択して、ここを戻らない場所にした。それを、ばっさりと評する。
「まあいま思えば気が急いてたよな。お前には薦めない」
「……じゃあおれどうしたらいいんだよ」
「保留にしとけば? だって、ちょっとずつはあるだろ、居場所。しばらく考え中にしてても誰も困らないだろ」
「え」
それは思ってもみなかったようで、なのに図星を突かれたような、不思議と腑に落ちる提案だった。
フィーと暮らした庭園に中途半端に残してきたものたち。誰かといればほっとするのに一人で眠れない人間界の家。まだ一歩も立ち入ったことのないまま、時折脳裏に浮かび上がる湖畔の家。そういえば、学校にいるときはそういうものをすっかり忘れている瞬間がところどころにある。
全部すこしずつ、アクアの居場所だ。
なにもひとつだけを選んで、ほかをこの家のように捨ててしまわなくてもいいのだ。怖さは、まだどこかひとつへ落ち着くことなどできないのにそうしなければいけないかのような、自分のなかの焦りが作っていた。
「そっか。考え中で、いいんだ」
「焦ってこういうことにするよりは絶対いいだろ」
だからゴッドはアクアをこの部屋まで連れてきたのか。ようやく合点がいった。ただ、このときのアクアにはゴッドの目的を理解するのが精一杯で、どんな思いでアクアをここへ呼ぶ決心をしたのかまでは考えることもできなかったが。
「そういえば、魔法陣はどうしてる?」
束の間の安心が簡単に揺らいだ。口ごもるアクアに、ゴッドはそれ以上の負荷を掛ける気はないようで、
「それはいいか。俺、魔法陣のことはわかんねえし」
と、視線を外して問いかけも取り下げてしまう。
返事を求められなくなって逆に、アクアははっきりと答えたくなった。フィーに習った魔法陣をまた書くと。書いていれば自分を保てるような気がする、あの感覚が戻ってきたみたいだった。
だがアクアがその決意とともに顔を上げると同時に、やっとというふうに、ゴッドがなにかの終わりの息をついた。
「これくらいだな、いま言えるのは。まあ先のことびびんなくてよくなったら、ちゃんと寝れるし起きれるだろ」
「はい……」
と、うなずいてしまってからはっとする。
「それって、もう夜来ないでってこと……?」
ひとつ胸が軽くなったとしても、きっと布団のなかでひとり丸くなったときには思い出してしまう。自分のなかに半分しかいないフィーのこと。まだ、フィーの話をして、聞いてもらって、言葉で、心で思い描いて、もう半分を埋めていくことでしか、アクアは故人を思う気持ちを整理できない。迷惑なのは百も承知だったけれど、断られてしまってはまだ困るのだ。
そんなアクアの不安を、ゴッドはしっかりと否定する。
「ちげーよ。ひとりで寝れないなら仕方ないだろ。俺は誰がいても寝れるし」
「よかった。ありがとう、ゴッド」
「どういたしまして」
なんでもない軽さで言われて、やっと手の緊張が抜けた。寒くも暖かくもない、ぬるい空気をゆっくりと吸い込む。目で見るほど埃っぽさは感じない。澄んでいる、とまでは思わない。
どう言葉にすればいいか、迷っていたらまた助け船を出された。
「まだ怖いか?」
「はい。でも、大丈夫」
「そっか」
なにが、とは聞かれない。立ち上がったゴッドの肩に差した窓からの光は、いつしか夕に色づいていた。すい、と彼はすぐにそこから外れて、光の中には埃の渦しか残らない。アクアもかけていたベッドをたつ。
「じゃ、帰るか」
自分の家にいるのに帰るだなんてへんな話だ。けれど、それがこの場所にはしっくりはまるのだと、アクアにも思えた。
「えっと、おじゃましました」
「はいはい」
土足の廊下へと戻ると、玄関でもない部屋のドアが施錠される。自然な手際を見ているうちに、アクアはふと先月のことを思い出した。
うちに来ないかと定に言われていた。なんでもない遊びの誘いだったのに、あのときは返事を躊躇った。いまならどうか。
「ゴッド」
「なに」
「今日、呼んでくれてありがとう。それから、定にも家に呼ばれてて、今度、行ってみる」
ひとつ思い切ったつもりだったが、ゴッドは振り返ることもなく、
「いいんじゃねーの」
と返して玄関のドアを開けた。二人が出て手を離すと、風のちからだけでぱたりと閉まる。それを目で確かめもせずに歩きだしたゴッドを、アクアはまた木の根を避けながら追いかける。
家を離れると道はすでに薄暗い。振り返れば眩しい夕日だけが目にしみる。そこにあるはずのものは影になって見えなかった。なにか置き去りにするような帰路だった。
◇
ふと人の声が聞こえて、あたしははっと目を覚ました。机に伏せていた上体を起こすと、腕の中にたまっていた体温が風に溶けていく。机の上の補習課題は半分ちょっとしか解けていなかった。
声は廊下から聞こえる。アクアたちが帰ってきたみたいだ。外はすっかり夕暮れているし、そろそろ晩ご飯の時間だろうと思って、あたしは窓を閉めて部屋を出た。
一階に降りた時点でいつもと違うざわつきに気がついた。リビングへ入ってみると、ダイニングテーブルの前でユールがグロウとゴッドに囲まれていた。
「……なにあれ」
「さっきユールが帰ってきたんだ」
離れて見ていたアクアが、隣に来て言う。手にはネイチャー様のところから持ち出してきたらしい本があった。
「あ、おかえり。それで、なんで囲まれてるの?」
「ただいま。ユール、髪を切ってもらうって言ってただろ。でもグロウが思ってたのと違うみたいで……」
「思ってたのと?」
どんなおもしろいことになっちゃってるんだろう。そう思って近寄ってみる。
「おかえりー。ユール、どうどう?」
エプロンをつけたグロウが、こちらに気づいて振り返る。その動きでユールの正面が空いて、
「ん? あれ? えっ?」
見えたのは、お兄ちゃんのところで別れたときと変わらない姿だった。前髪は鬱陶しいほど長く、首筋から肩まで伸びた毛先は不揃いにがたついている。
「髪、切ったんだよね? 変わってなくない?」
「ああ」
紛らわしい返事だ。たぶん、前半に向けられたものだろう。
「いちおう、短うはなっちゅうがやけどね」
「まあ印象は変わんねえよな」
グロウが背中側を覗き、ゴッドは一歩引いて全体を眺める。あたしはぐるっと一周、ユールの周りを回ってみた。
「……うーん」
背中にばさりと垂れていた髪が、肩にかかる程度になっていた。後ろ姿の重そうな感じが、多少は軽くなった、と言えなくもない。しかし再び正面から向き合うと、鼻筋をなぞるような長い前髪が変わらず鬱陶しい。前より目にかからなくなってる、と思えなくもないが、気のせいと言われたら納得してしまう範囲だ。
「どうしたかったの、これ」
髪を切らせると言い出したグロウに聞いてみる。返事は簡潔だった。
「椎羅に会わせようと思うて」
「誰を?」
「ユールを」