=風の精霊ウィンディ=

六月 3

 魔法陣を利用したコンロが二口。片方には使い込まれた鍋が乗ってふたをされている。中身がある様子はない。流しのタイルは乾いているのに、さっきまで使っていたかのようにスポンジが転がっていた。食器を干すカゴには二揃いの食器が伏せられ、その上には布巾がかかっている。
 ダイニングテーブルに目をやる。空っぽのマグカップが二つ、端のほうから黄ばんだなにかのチラシ、封筒、四つ折りの布はハンカチか布巾か。ペン立てがあって、刺さったペンを蜘蛛の巣がつないでいた。カバーを掛けた大判の本も埃をまとっている。そのページのあわいから出ている栞さえも。それがみんな、テーブルの奥半分へ、押しやられたように身を寄せていた。
 ゴッドは、アクアがそれを眺めるのを待っていてくれた。生活感、ではない、なにか生々しいものを前に、ゴッドは怖いくらい無感動な目をしていた。アクアが見ているのに気づいて、その目の端がふっと緩む。
「ここ、やだろ」
 その自然さにアクアは救われて、同時に気づく。
 この家はもう、彼の家ではない。ゴッドはたしかにこの家の持ち主ではあるけれど、この家の住人ではないのだ。
 ここの時間は停止している。空っぽの鍋からふたを取ろうと、埃っぽい本を開こうと、止まってしまった時間を再び動かすことはできない。なぜなら、ゴッドにその気がないから。彼はこの場所ではお茶の一杯もいれないのだろう。それどころか、もしかしたらあの蛇口からはもう水は出ないのかもしれない。
 強烈な違和感に包まれて、けれどアクアは部屋の姿に見とれた。理由は分からない。好きな場所ではないはずだ。証拠に、
「こっちはまだマシだから」
 そう呼ばれてほっと軽くなるものがあった。
 いざなわれるまま、右の扉をくぐる。正面を向いたままではすれ違えないほどの、ごく狭い廊下がまっすぐ伸びていた。左の壁にいくつか並ぶドアを、ゴッドは一瞥もなく全部通りすぎる。その先には壁しかないはず。不思議に思いながらもアクアはついていく。
 謎はすぐ解けた。廊下の端から、なんの前触れもなく急な階段が始まっていて、ドアはそのいちばん下にあった。
「地下室?」
「半地下。平地じゃないとこに無理矢理建ててるからな。靴、そのへんに脱いどいて」
 言いつつゴッドが鍵を開ける。そういえば玄関は施錠されていなかった。なんとなく、アクアにもこの場所の扱いが分かってきた。
 階段の下はドアを開けるとそれだけでいっぱいだ。靴は階段に乗せて、部屋へ入る。
 簡単な部屋だった。床は狭いが天井は高い。机と椅子に、ハンガーラック、ベッド、家具はそれだけ。天井近くに小さな窓があり、ぼんやりとした光の筋が降りている。かろうじて明かりの陣は生きているらしく、ゴッドが壁に触れると、弱くはあるが照明がついた。灰色の部屋に彩度が広がる。同時に、キッチンのときにはなかった、止まった時間が歩みを再開するような安堵が満ちる。
 壁の際まで薄茶一色の古びたカーペットが敷かれ、収納する先のないものはその上に直にほっぽられていた。いくつかの本の山、洗濯物か脱ぎっぱなしか分からない衣類、個人の部屋には似つかわしくない、壁掛けの大きな通信鏡まで。
 雑然とした床にはしかし、一本の道のようになにもないスペースがあり、ゴッドはそこを通ってベッドに向かうと、散らばっていた新聞を片側に寄せ集める。ちらと見えた見出しからして、天界で発行されているもののようだ。
「そこ座れよ」
「はい」
 言われて座ったベッドの半分は、足側のようだった。枕はないが、新聞を積まれている側に棚がついている。そこには錆びたのも含めて5本、腕時計が転がっていた。
 ゴッドは通信鏡を抱えて机に上げ、椅子を引く空間を作って座る。柱のような光の中に埃がたった。それを待って、やっとアクアは家に招かれた感覚を得る。自分でも分かるほど露骨に肩のこわばりが解けてゴッドに笑われる。
 その唇が笑みのまま言う。
「俺に聞きたいことあんだろ。言ってみ」
 責める色は一切なかった。ただ鋭く、切り込まれる。
 アクアのことなのに、正解を握っているのはゴッドのほうだった。
 身を固くしても、色調も、空気も、物の気配もぼんやりとした部屋に、アクアは飲み込まれるように座っている。ゴッドは脚を組み、頬杖をつき、無駄なちからは少しも使わず、この部屋と自身を切り離している。
「聞きたいこと……」
 つぶやいてみて、同じようなことをグロウにも言われたことがあると思い出す。人間界の家で過ごした最初の夜。分からないことだらけの自分は、結局どうしようもない弱音だけをこぼしていた。
 いまの内心はあのとき以上に不鮮明で、靄のような疑問は質問のかたちにもならない。波のように打ち寄せては唐突に引いていき、また戻ってくる不安。それだけだ。
 ゴッドがいてくれるいまこの瞬間、不安は少し遠くにある。どうしてだろう? と思った。
「怖い……いろんなことが、なにが怖いのかも分からなくて、怖くて、だけど……」
「うん」
「だけど、ゴッドにいてもらうとちょっと平気、っていうか。そう、怖くてどうしようもないとき、ゴッドのとこ行こう、って思う」
「そうか」
 たぶん、ここまでは夜毎助けを求めていたときに話している。その続きを、問われる側のゴッドが掬いあげるような視線で促す。
「……なんでかなあ?」
 思っていた倍は弱りきった声が出た。ぎゅっと鼻の奥が痛んで、瞳の表面が熱くなる。涙はぎりぎり出なかったけど、顔は泣いている自覚があった。ゴッドが仕方ないなというふうに、椅子ごと正面から向き合ってくれる。
「お前が俺んとこに助けてーって来るのは、俺なら分かってくれるって期待してるからだよ」
 聞けと言っただけはあって、ゴッドの答えは明瞭だった。
「期待……」
 なるほど、無意識ではあったけれど、彼の聡さに期待していたというのは……聡さ?
 それだけだろうか、と疑問に思ったことも伝わっていて、ゴッドは期待の内訳まで明かしてくれる。
「俺はお前と似たような経験してるからな。それで俺ならこの怖さも不安も分かってくれるし、対処法も知ってるはずだと思ったんだろ」
「似たようなって、おれ、そんなの知らない、けど」
 さすがに今度の言葉はすとんとは落ちてこなくて戸惑う。
「頭で分かんないことも別の場所が勘づいてたりすんだよ」
「別の場所って?」
「んー、本能?」
 馴染みのない単語を出されて、アクアはぱちぱちと目を瞬いた。その一言に集約されるほど、この問題はシンプルでも致命的でもないつもりだった。
 その疑問さえ汲み取って、ゴッドは当然のことのようにアクアの内面を語る。
「居場所がないって思ってるだろ」

2015/3/6 (修正 2023/3/25)