=風の精霊ウィンディ=

六月 2

 いい庭だ。この場所に来てそんなことを感じるようになったのは、アクアにとってここが帰る場所ではなくなってからのことだった。
 正確には、以前は帰る場所ですらなかった。訪ねるとか、帰るとか、出かけるとか、そういったことはアクアの知らない外の世界で営まれているものだった。この庭園はすべてを受け入れてくれる居場所で、大切な人との暮らしの場だった。
 谷風が草をなでつけるように吹く。小さな軒の下に立って、アクアは風に乱れる川面を離れがたく見つめた。見渡すすべてに思い出しかない。思い出になるとは思ってもいなかった、日常の端々がこの谷には満ちている。
 新たにこの庭園の主となったフィル・ネイチャーは、フィーと好みが変わらないのか、主張の強くない質なのか、家の中に自室を整えただけで、庭を大きくいじりはしなかった。からだの小さいこともあってか、手入れの行き届かないところは感じられるが、アクアはそんな自然の変化については黙って見過ごすことに決めていた。
 対岸に、役目を終えた花が茶色くなってかがみこんでいる。あれもフィーなら取り除いていたろう。そう思っていたときだった。
「帰らないのですか?」
 すぐ隣からの声に、思わずその場を飛び退く。振り向けば、開けっ放しの窓から小さな子供が顔を出していた。
「ね、ネイチャー様」
 五歳かそこいらの子供である。けれどその微笑みは老人のように穏やかで深みのあるものだった。実際彼女がどれほどの人生を経てきた実感があるのか、それは分からない。アクアよりは経験も知識も豊かであることだけはたしかだ。
「いつまでそうしているのです。早くしないと暮れますよ」
 新芽のような緑色の目が、まだ明るい空を見上げた。その目は左にひとつしかない。あるべき右目は魔力のかたちで、いまはアクアの中に収まっていた。眼窩も持たない顔の半分は、緑色の髪で覆われている。
 光の角度からして、それほど待たずに夕暮れが始まりそうだ。指定されたタイムリミットを考えると、ここで粘るのも限界だろう。
「……はい」
 持ち出す予定であったものを抱え直して、アクアは名残惜しく庭園の全景を目に映した。これから落ちていく太陽が、水に葉に反射してまだ眩しい。ようやくためらいを振り切った背を、ネイチャー様が優しく送り出す。
「いってらっしゃい、アクア」
「はい、いってきます」
 そう返して、下流に位置する魔法陣へと歩き出しながら、アクアはふと思った。彼女にこのあとどこかへ行くと言っただろうか? 振り返ると不可思議な子供の姿はどこにもなく、窓からはレースのカーテンだけがそよと覗いていた。

 公共の移動陣というものは、アクアにとってはまだ不思議なものだ。
 人間界の家に置かれている鏡に内蔵した移動陣は、城の地下にある移動陣のあるひとつにしかつながらない。
 けれど、魔界のあちこちに設置されている一般的な移動陣は複数の陣を接続対象としている。陣に魔力を流す際の始点によって行き先を選択できるそうだ。どこへでも行けるというわけではないが、その柔軟さには驚かされた。柔軟すぎて、まだ接続が覚えられない。ひとりで行けるのはフィーの庭園くらいである。
 だから初めての場所にきちんとたどり着けたとき、アクアは安堵のあまり出迎えの人にすがりつきそうだった。
「よしよし。ちゃんと来れたな」
 移動陣のすぐ前に待ちかまえていたゴッドが、緊張の解けた肩を抱いて軽く背を叩く。
 庭園から城下、城下から知らない町、知らない町からまた知らない町をふたつもみっつもたどって、そしてここ。クルスの店を出て、アクアはゴッドからそんな道のりを記した紙切れを受け取っていた。それから、「ネイチャー様のとこで用事が済んだら来い」という言葉も。
 ゴールに設定されていたのは、昔々に炎の精霊が女王家から賜った土地、つまりゴッドの実家の最寄り移動陣だった。経由地はどこも城下のような管理人つきではなく、見ず知らずの人に道を聞くだけでかなりの精神力を削られた。
「ううう~……疲れた……怖かった」
 知らない場所を転々と移動してきたあとで見る知った顔は、こんなにも安心するものか。深々と息をついて、アクアはおとなしく甘やかされる。
 たどりつきはしたが、周囲は木の影も濃い森のようで、ゴッドがすぐそばで待っていてくれなかったらここに来て心が折れていたかもしれない。
「悪いな、いろいろあって城下周辺からの直通は切ってもらってんだ」
 いろいろ、というと神魔のことかとあたりをつけて、アクアは首を横に振った。最近聞いた話では、フィーの庭園も城の地下以外とは長く接続拒否していたというし、そうめずらしいことではないのかもしれない。
 それよりも、来いと言われたときに聞き逃したことのほうが気にかかる。どうしてここへ呼んだのか、アクアにはまだ謎のままだ。
 けれどゴッドはそれを問う隙を与えず、アクアの肩を離して、
「じゃあ行くか」
 すたすたと魔法陣を離れていってしまう。そうなるとアクアは追いかけるしかない。
 水の精霊の土地ほどではないが、足下は悪い。わずか数歩で、草もなく整えられていたのは移動陣の周囲のみだと知る。
 いちおう、獣道ではない、石を敷いた道はあった。しかしその石には苔が蒸し、山道ということもあって斜面に沿うように傾いている。陣が設置されていた場所は、あそこだけ平らに均されていたようだ。
 足下も気になって仕方ないが、頭上にもあちこち枝が張りだしていて注意がいる。アクアはとにかく、前を行くゴッドのテンポに合わせることにした。
 目的地には二分も歩かなかった。これも傾斜の緩いところをどうにか平らにしたのであろう、木々の開けた狭い土地に、一軒の家が建っていた。
 まだ魔界の普通は分からないが、小さな家なのだと思う。季節もあってか重たく葉の茂った枝に埋もれるように、暗い茶色の屋根が見えた。城下で見る通気のいい家よりはしっかりしていて、ルビィの家ほどどっしりはしていない印象だ。
 ゴッドが屋根と同じ色に塗られたドアを開けた。足下は煉瓦かなにかで固められていて、その隙間もだいぶ草にやられていた。
「どーぞ」
「……おじゃまします」
 いらっしゃい、とは言われなかった。僅かな違和感。家の中はぬるい昼の温度を持って、外の荒れ様を思わせない空間であるのに。
 廊下はなく、玄関はキッチン兼ダイニングに直結していた。
 玄関には明らかにゴッドのものではない靴が二組出ていた。邪魔なもののように隅に寄せられて埃にくすんでいる。フィーと住んでいた家はある程度土足でもいいことになっていたけれど、ここは靴を脱ぐ家だ。なのに、
「靴のままでいーから」
 そう言って、ゴッドは荒れた道を通ってきた靴で板敷きの床に上がる。アクアは一瞬ためらって、おそるおそる小さな段差を踏み越えた。ざらりとして奇妙な感触だった。
 部屋も奇妙な部屋だった。
 左手の壁はタイル貼りで、こぢんまりとしたキッチンセットがはまっている。反対の壁に天井まで詰まった細長い食器棚があり、隣にはドア。残る空間はほとんど木のテーブルと椅子四脚に取られていた。正面には光の射す窓があり、若草色のカーテンが開け放されていた。窓が汚れているのか、光はぼんやりとしている。
 それだけならよかった。狭い空間を狭いまま使う暮らし方には覚えがあり、アクアには心地のよいものだった。
 けれど、ここはなにかがおかしい。

2015/2/8 (修正 2023/3/25)