=風の精霊ウィンディ=

六月 1

 城下は昨日まで雨だったらしい。この季節にしては涼しい風を受けて、テーブルクロスの裾が揺れる。
 花柄のクロスが暴れ出しそうなのを見て、お兄ちゃんがからからと窓を閉めた。町の雑音が一気に遠のく。つられたように薄く雲が伸びて、射し込む光も弱まった。
 その薄日の中から、お兄ちゃんが改めて聞く。
「俺も聞いてかまわない話だった?」
「問題ないです。けど、城で聞いた件については特に手伝うてもらえることもありません」
 作業用の椅子にかけるグロウが、そっとお茶のカップを置いた。テーブルも本当は作業用のもので、クロスで隠してはいるけどところどころへこんだり傷ついたりしている。
「それでもいいんだよ。俺はみんなが心配だから、知っておきたいだけなんだ」
「分かりました」
 みんなの代表は自然とグロウになっていた。お兄ちゃんは入り口のそばから荷物置きの椅子を引っ張ってきてちょこんと座った。その背後、広い窓の向こうで軒に吊った看板が風に揺れている。いま外に出ているのは、お休み中の看板だ。
 お兄ちゃんの繕い屋さんは、今日は営業を休んで、精霊たちの集会所になっていた。
 あれは6月に入ってすぐのこと。人間界の通信鏡にお兄ちゃんから連絡があった。城から、次の休みに必ず来てくれと伝言があった、と。どうしてお兄ちゃん伝いなのか聞くと、城から直接あたしたちに通信を入れたのは平日の昼間で、みんな学校に行ってていなかったらしい。夜にでも通信しなおせばいいのに、お兄ちゃんに伝言を頼むなんて、ちょっと変だ。
 ただならぬものを感じたあたしたちは、週末を待って城に駆けつけ、そこでとんでもない話を聞かされたのだ。
 その内容をグロウが端的にまとめる。
「城へ数度、侵入者があったそうです。その最後の一回で、ハノルスの衣服と日記が盗まれたと」
「日記?」
 聞き返すお兄ちゃんに、ゴッドが受付の丸椅子をくるりと回した。
「ルビィに聞いてません? ハノルス・ラインのほぼ唯一の遺品です。まあ中身はほとんど恨み辛みですけど」
「聞いてないな」
 ぎくっ、と肩が跳ねる。済んだことだし言っても分かんないだろうからと黙っていた。幸いその点を責め立てられることはなく、グロウが話を続ける。
「いちおう証拠品になっちゅうがですけど、写本もあるし、盗まれたことによるダメージは特にありません。問題は犯人がなんべんも城へ侵入しちゅうこと、その正体と目的です」
「女王家はなにも掴んでないのか?」
「ええ。侵入の発覚も盗難があってからのことらしゅうて、いまはその調査で手一杯やそうです。騎士団が使えんがは大きいですね。今日も女王本人は忙しゅうて出てこれんかったみたいなし」
「騎士団か……。それで、お前たちは?」
 お兄ちゃんにとってはそれが本題なのだろう。グロウを見て、隣の折り畳み椅子に座るアクアを見て、カウンターの手前に並ぶゴッドとユールを見る。赤茶っぽい瞳には、心配と一緒に覚悟みたいなものが滲んでいた。その目は最後にあたしに回ってくる。
「あたしたちは騎士団の代わりはしないよ。だけど犯人はハノルスの裏にいた黒幕の可能性が高いって。まだそうと決まったわけじゃないけど、攻めてきたら戦うよ」
 これはまあ、精霊としては模範解答としたものだろう。魔界に危害が及ぶなら当然精霊の出番だし、直接あたしたちが標的になっても戦えるだけの魔法はある。女王家に期待できるのは、侵入事件の調査結果くらいのものだ。
 お兄ちゃんも、それを危ないからやめなさいとは言わない。
「気をつけるんだぞ」
 その一言だけにずっしりと本音が詰まっていた。あたしはしっかりとうなずく。お兄ちゃんは五人全員に向けたみたいだったけれど、他はアクアがちょっと顎を引いたくらいだった。
「あ、そうや。ひとつ、クルスさんに手伝うてもらいたいことがあるがですけど」
「手伝い? いいよ、なんでも言ってくれ」
 曖昧な笑みを引っ込めて言ったグロウに、人の役に立ちたがりのお兄ちゃんは嬉しそうに応じる。
「ユールの散髪をお願いしたいがです」
 自然とみんなの目がユールに集まった。
 見れば見るほど長い髪だ。前髪はいちばん長いところで顎先まで下り、目にもかぶって無表情さに拍車をかけている。顔の周りから頭のうしろの髪は、肩を流れて背の中ほどまで。あたしは生まれてこの方、そんなところまで伸ばしたことがない。
「本人はまぎるともなんとも言わんがですけど、やっぱりようないでしょう。校内でも目立つし、あの切り方から家庭事情まで察してしまえる人もおるがです。善意でも教師に目をつけられたら困りますき」
 お兄ちゃんはグロウではなく、ユールに尋ねる。
「グロウに髪を切るよう勧められたろう。なんて答えた?」
「姉上の許可がないからできない」
 身も蓋もない答えを聞いてしかし、お兄ちゃんは笑って立ち上がった。
「よし、ヒュナに許可をもらいに行こう。ルビィ、明日も学校なかったよな?」
「うん。え? いまから行くの?」
「早いほうがいいだろ。ちょうどヒュナも市場を引き上げる頃だし、荷物持ってやるついでに家まで行って、そしたらご飯も作ってあげられるし……」
 言いつつすでにからだは動いている。椅子を戻して、お店用のエプロンを解いて、どんどん準備を進めるお兄ちゃんにつられて、あたしたちもめいめい店を出る支度を始めた。ユールだけはこまごまと、ゴッドに指示をもらって動いていた。

 あっという間に戸締まりまで終えて、お兄ちゃんはユールの手を引いて大通りへと消えてしまった。その後ろ姿は、まるで本当の兄弟みたいだ。
「あたしのお兄ちゃんなのに」
「いつまでもそうとは限らんがやない? クルスさんがヒュナさんと結婚したら、ユールのお義兄さんにもなるし」
「そっか! それは……なんかへんな感じ」
 兄弟みたいに歩いている二人は自然に見えたのに、ほんとに兄弟って言われてしまうと違和感があった。
「しょうもないこと言いよらんと、行くで」
 グロウがお兄ちゃんたちが向かったのとは反対方向を示す。そっちは城からお店へ来たときの道だ。ということは、
「もう戻るの?」
「そうよ。うちやることあるし、あんたも補習課題残っちゅうろ」
「うっ」
 数学が30点未満の人には特別に宿題が出されている。月曜までに仕上げて提出しなくちゃいけない。
 一気に重くなった足を東に向け、あたしはそこで、妙に足音が寂しいことに気づいた。振り返るとゴッドがいない。そしてアクアもこっちへ来てない。
「アクア、どこ行くの?」
「フィーのとこに……置いてるものを取りにいこうと思って」
「そっか。いってらっしゃーい」
 アクアは魔界に戻ると二回に一回くらいはネイチャー様のところへ行っている。グロウなんかは家を空けると決まった途端、引っ越しの勢いで必要なものを持ち出してきたらしいけど、アクアの私物は大半がフィーと暮らした家に残されている。
 城下中央の移動陣へ向かうのだろう。その背中を見送って、あたしはもうひとつの疑問をグロウにぶつける。
「ゴッドはどこ行ったんだろうね」
「さあ?」
 グロウはあたしと目も合わさずに、ちょっと肩をすくめただけだった。

2015/1/26 (修正 2023/3/25)