「こっちは? もう出れる?」
今夜の本題はこちらのほうだ。風呂を上がってから寝間着のグロウと違って、外出の用意を済ませているゴッドが当然にうなずく。
「ああ。自力で半年かけたってんなら、値段はちょいふっかけ気味でいいな」
ノートに記されているのは天界在住のとある女性の個人情報。ゴッドにはそこへ仕事を取りに行ってもらう。要するに営業だ。
二人の顧客としては典型的なプロフィールは、グロウもすでに覚えてしまっている。開いたページを見ることもなく、再びノートを閉じる。ぱたり、という軽い音とは対称的に、わずかに重力が増すような思いがした。
「素人がそれでどっぱあの情報集めれちゅうがやろう。期間はそれによってあんたが決めて。もちろん半年以内で」
半年。それはグロウとゴッドが初めて二人だけで成した、依頼者なき仕事とまったく同じだった。連絡の絶えた父が、精霊狩りに遭ったと確定させるのに要した期間。
彼女も同じように、手探りで走っていたのだろうか。もとは主婦の未亡人だ。シュレイン・サンダーの教えを受けた二人より、よっぽどその道は険しかったろう。
なんて、グロウは多少そんなことに思いを馳せたりもするのだが。
「ま、ふた月ありゃいけるだろ。期間短めで見積もった方が値も上がるしほかの仕事も増やせる。前のペースで入れらんないなら単価上げてかなきゃな」
未亡人に会いに行く、当のゴッドはなんらの感慨もない。グロウにとっては好ましい傾向であるが、今日ばかりは最後の言葉にひやりとする。
グロウの言動の端々から、ゴッドはいまの生活が漫然と続けば家計が逼迫すると予感している。実際はグロウがあえてそう臭わせているだけで資金は潤沢だ。
ゴッドをこれまで以上に外へ出す理由が必要だった。学校に通う以上、仕事、そして精霊狩り探しに充てる時間は限られる。ユールを見つけたように、他の案件で引っかかる枝葉のごとき情報も重要な手がかりだ。大がかりなことがやりにくいなら、そんな些細な情報も積極的に拾い集めなければならない。
単純に、焦っていた。そしてこの焦りは、ゴッドに発覚すれば諫められる類のものだと自覚している。
「無理はせられんで。仕事が途切れんことのほうが大事ながやき」
誤解に触れない程度にたしなめて、壁の時計を見上げる。ゴッドもそちらに目をやって、
「行くか」
と立ち上がった。グロウは部屋から持ってきた黒いファイルを手渡す。契約のための書類と、移動陣の利用料金。荷物はそれだけだ。
それから、最後の支度として。
「じゃ、いってきます。門限は?」
そこにスイッチがあるかのように、ゴッドがゆっくりと目をつむって、開く。
「学校間に合うたらえいわ。いってらっしゃい」
再びグロウを映した瞳は、夕陽色の輝きを消して薄闇に紛れていた。ゴッドはそのまま、真っ暗な玄関へと、開けっ放しのドアをくぐっていく。
見送りは嫌いだ。それでも意地のように、グロウは緩く音を立てて閉まる扉を、睨むほどの強さで見つめていた。
◇
五月末日。気の早いことに、あたしたちの学年は全部のテストを返却してくれた。通知簿に載る成績も、数字に間違いがないかのチェックのために配布される。
見る気のしないあれこれをもらったそばからかばんに詰め込んで、ホームルームが終わるなり廊下へ逃げ出す。学級通信を配りながら、先生はやたらとこっちを見ていた。初めてのテストとはいえ下から10番以内の人は~とか言ってたときは、ほとんどあたしに向かって話しかけてるようなものだった。やめてほしい。
今日は誰と帰ろうか。椎羅が掃除だから、ここで待ってれば椎矢や楓生が集まってくるかもしれない。そう思って窓にもたれていると、階段のほうに熱斗の姿が見えた。隣に柊もいる。
「熱斗ー」
聞こえないかもと思う距離だったけど、熱斗はすぐに振り返って、昇降口へ向かっていたのを引き返してくる。
「どうした?」
「どうもしないけど、あ、熱斗だー、と思って」
「なんだそれ。誰か待ってんのか?」
決まった誰かを待っているわけではなかったけど、熱斗が教室を覗くのでそれにならってみる。柊も同じようにしているのかは熱斗の背にぴったり隠れてしまって分からない。真顔で正面向きっぱなしだったら怖いけど、そっちの可能性が高そうだった。
教室では、椎羅が奥の窓際、河音と依川が教壇のところに立っている。河音は依川待ちで、あとの二人は掃除だ。
「あ」
ふいに熱斗がそんな声を上げた。見上げると、その目はもう教室を離れている。視線の行く手はあたしの背後だった。
振り返って声の意味を知る。そこには怪訝な顔の椎矢と、見るからに迷惑そうな表情の楓生がいた。
「苑美、えーと、椎羅の掃除まだ?」
知り合いとも言えない距離の上級生はひとまず避けて、椎矢が尋ねる。
「んー、そろそろじゃない?」
「ほんとだ。姉さん、こっち気づいてないわね」
あたしと椎矢がそんな会話をしている間に、楓生と熱斗は必要なアイコンタクトを終えたらしい。熱斗は素っ気なく手をひらりとやって、昇降口へ戻るため背を向ける。そのとき、椎矢があたしの袖を引いた。
「ねえ、あれ冬山柊じゃない?」
いまのいままで、熱斗に隠れて見えていなかった柊が、思いっきりこちらに顔をさらしていた。そしてあたしたちには目もくれず、すぐに身を翻して熱斗のあとをついていく。
「楓生の知り合いの先輩と、友達? 知り合い? なの?」
心底面倒くさそうな表情になっていた楓生が、椎矢が振り返った瞬間に曖昧な笑みに切り替えた。
「さあ……どうやおね。聞いてみちょくわ」
そつのない口振りだったけど、あたしには副音声が聞こえた気がする。『また厄介事が増えた』と。