=風の精霊ウィンディ=

五月 8

 白かった。
「なにこれ! 真っ白じゃん!」
 文章で答えるための、マス目の解答欄が五つ、見事になにも記入されずにハネられていた。他にも、字数指定のない広い解答欄がぽっかり空いている。記号で答えるところは丁寧な字で埋められて、きちんと丸をもらっていた。
「ここも改善すべきだな」
 ゴッドが深刻そうにつぶやく。けれどすぐに明るい声になって、
「ま、初回でこんだけできたらじゅうぶんだ。よくやったなユール」
 とほとんど手放しで誉める。それでいいの? ともっとひどい点のあたしは言えない。
「あった」
 微妙な気持ちになっていると、やっとテストを見つけ出したアクアが三枚の紙をテーブルに広げた。科目はあたしやグロウと同じ、国語、地理、生物だ。
「おおー」
「平均弱やない?」
「じゃあいい方だろ」
 どれもグロウの書き留めた平均点より、5点10点低いぐらい。曖昧な反応にアクアはそそくさと解答用紙を引っ込めようとする。あたしは慌ててフォローを入れた。
「あたしと比べたらすごいよ!」
「お前と比べてどうすんの」
 国語の10点を指先で叩いて、ゴッドがあきれる。
「ユールと違って全部書いてこれっていうのがまた」
「じゃあゴッドはどうだったの?」
「英語68、数学61、歴史88」
 散らばったテストを回収しながら聞くと、ゴッドはさらりと3科目分の点数を明かした。ていうか点数覚えてるんだ。あと、いいのか悪いのかいまいち分からない。
 微妙な顔になるあたしに対して、グロウは即座に聞き返す。
「歴史? ……あんたまっこと役に立たんもんばっかり好きやね」
「役に立たないから娯楽で面白いんだろ。あと前提知識少なくてテスト自体楽」
 二人が言うように、魔界、それから天界と冥界では、人間界のように歴史は重要視されていない。あたしも授業で聞いてびっくりしたけど、人間界はたった2000年で大きく様変わりしている。だけどあたしたちの世界は、今の世歴が始まった頃も、その前の世歴が回っていた頃も、まったくと言っていいほど変化していない。そりゃあ、ときどきはものすごい魔法陣の発明があったり、大きな自然災害があったりはするみたいだけど、いつの時代も「なにが普通か」は変わらないものなのだ。
 そんなこんなで歴史を覚えることなんてないから、たぶんあたしの点はゴッドのと足しても100に届かないだろう。
「みんなどうしてそんなに覚えられるの?」
 アクアがあたしの心を読んだみたいなことを聞く。グロウとゴッドは顔を見合わせて、
「父さんの特訓で……」
「レンさんのしごきで……」
 二人してあいまいな言い方をしかけ、グロウが言い直す。
「まあ無理くり、理解できんでもとにかく覚えるみたいな教育されちゅうがよね。ユールもそんな覚え方しちゅう感じするけど」
 とにかく記憶力がいい、ってことだろうか。難しいことは頭の中をすり抜けてしまうあたしには、想像もつかない感覚だ。
「さて。うちそろそろ買い物行かんと。晩ご飯なにがえい?」
 グロウが自分の答案をまとめて立ち上がる。あたしもテストを回収しながら手を挙げた。
「はいはい! カレー!」
「先週したもん言いなや。弁当にも入れれんし」
「えー?」
「じゃあ一緒にスーパー行こうや。アクアは?」
 黙ってテーブルを離れようとしていたアクアが、名前を呼ばれて顔を上げる。
「行こう。着替えてきいや」
 にっこり笑ってそう言ったのは、すぐそばにいたあたしじゃなく、向かいのグロウだった。
「……あたしも着替えてくるっ」
 グロウが早かっただけかもしれない。それでもあたしは、一瞬でも誘い方を迷ったことがなぜか無性に情けなくなって、アクアを追い越してリビングを出た。
 家の北側を通っているせいか、廊下はやけに涼しい。へんな感じだ。アクアだけじゃない、あたしの中にもなにかがもやもやしている。
 階段を駆け上がって部屋に入る。しばらくアクアが上がってくる気配はなかった。

 夜の早い家だ。ここでの暮らしにはだいぶ慣れたグロウだが、いまだに静まり返った10時のリビングには不思議な感覚を抱かされる。
 足音を潜めて滑り込んだリビングにはゴッドだけがいた。自室で階段を下りていくのを聞きつけていたから、グロウの把握通りだ。
 台所の電気しかついていない中を暗いほうへと歩き、とっくにグロウのことには気づいている背中に、わざわざ声をかけてやる。
「アクアは寝えた?」
「やっとな」
 カーペットに直接座って、ゴッドは小さなノートを広げていた。今朝渡しておいた連絡用のものだ。グロウはもういらないであろうそれを取り上げ、ソファに腰を沈める。
「どうしょうね」
 独り言みたいな、曖昧すぎる問いかけを、ゴッドは丁寧に拾ってくれた。
「時間かけたって無駄だな。これ以上よくなる兆しがない」
 話題は、フィル・ネイチャーの死に変わりから一ヶ月が経とうとする現在も塞ぎ続けているアクアのことである。
 グロウは心からアクアを案じながらも、努めてそれをゴッドに任せきりにしてきた。アクアの落ち込みぶりを気にかけてはグロウに相談しようとするルビィに対しても、そうするよう勧めてきた。
 そうしろと言ったのはゴッドだった。理由は、グロウにもルビィにも、アクアがいま直面しているものは共有し得ないから。
「アクアも、たぶんどっかでは分かってるんだろうけどな。最初はフィーがいない、会えないのが寂しいばっかりだったけど、それも聞かなくなったし。でも自力で気づけるかっていうと見込みねえんだよなあ」
 さすがに疲れた、とゴッドが天井を仰ぐ。グロウは進展らしきその話に首を傾げる。
「見込みないかえ? あんたのこと嗅ぎ分けたばあやき、そのうち自覚しそうなもんやけど」
「あんなのは本能だ。人に頼るしか方法がない子供だから、追いつめられてなんとか見つけた。それだけだよ」
 頼る相手をゴッドに決めたのは、意外にもアクア自身だった。ひとりで眠れない、どうしようと起き出してきたアクアに最初に付き合ったのはグロウだったが、気づいたときにはゴッドが名指しで呼ばれるようになっていた。「懐かれた?」と尋ねたグロウに、伽を終えて下りてきたゴッドが返したのは「ばれた」の一言だった。
「本能ねえ。それで同じ境遇通ってきたあんたを見抜いたと」
 アクアと同じように、まだ無力だったゴッドが後ろ盾を失って父に引き取られてきたとき。あの頃のことは、二人の間であまり話題に上らない。グロウも当時はいまほどに他人を推し量れなかった。グロウが父の指導でめきめきとちからをつけるまでの、およそ一ヶ月のみ、ゴッドは隠し事を許されていた。
 さすがに、動揺ばかりであろうあの期間にまで踏み込むほど無遠慮にはなりたくない。グロウはゴッドが話題を畳むに任せる。
「まあご指名いただいたからにはちゃんと片づけますよ。ルビィも心配してるし。今日も、ゴッドには分かってあたしとグロウには分かんないことってなに? だってさ」
「似いちゃあせんで」
「似せてねえよ」
 ゴッドの伝聞は一言一句そのままであることが多い。それをいつものようにからかって、手元のノートを付箋のついたページで開く。

2015/1/7 (修正 2023/3/25)