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早速返ってきた初日のテストは、どれも平均点に届かないくらいという微妙なものだった。アクアとしては、意外、というのが素直な感想である。もっとひどい結果になると思っていた。よくできた、というような達成感は、いまはよく分からない。
テストが終わったこともあり、多くの部活が練習に精を出している。通学路は昨日までと比べると格段にすいていた。学校から数ブロック離れると、もう周りには制服姿が見えなくなる。
「今日、人すっくないなー」
隣を歩く定が、学校の方を振り返って言った。その声はテストから解放されたことと、河音が思ったほど素晴らしい成績ではなかったことを喜んで、ホームルーム前から弾んでいる。
依川定は、アクアが様々なことを自覚する前から、早瀬河音の友人だった男子生徒だ。河音より少し背が高く、明るい性格がそのまま顔つきに表れている。学校に戻ってから、いろいろと余裕のなかった河音は交友範囲を広げることができず、気づけば二人セットで行動するのが定番になっていた。河音の、初めてでたった一人の友達だ。
「みんな部活なのかな」
「そんなわけないだろ。あ、そーだ。五時間目あるの中一だけだって。二年から上は昼までで解散だってさ」
「そうなの?」
「昼休みトイレで聞いた」
ふうんと相槌を打ちながら、弁当を持って出かけた同居人のことが頭をよぎる。それはすぐに、定の楽しそうな声に払われた。
「つーかさ、せっかくテスト終わったんだし、遊ばね? ってか遊ぼう! な!」
「遊ぶ? ってなにして?」
河音には人間界の遊びどころか、一般的な遊び全般が分からない。期待より不安の大きい河音に、定は無邪気に提案する。
「んー、どうしよっか。オレんち来る?」
「えっ?」
「いいだろ。ゲームしようぜ、ゲーム。お前やったことないんだろ。話聞くだけもつまんないだろうしさあ」
突然の誘いにすぐには返事ができないでいるのをどうとったのか、定は、
「あ、前言ってたやつは一人用だけど、別のハードはコントローラー二個あるからな。ちょっと古いけど初めてでもできそうなのもあるし」
と付け足した。
どうしよう。行ってもいいだろうか。家の誰かに聞いてみてからじゃないといけないんじゃないか。それはいらない心配だと、分かってはいるのになんだか気になった。そうして迷っているうちに、赤信号で足がとまる。
「あ……」
分かれ道。定はここから別方向だ。
定の渡る道は信号が青に変わったところだった。特に名残もなく、定がそちらへ向かう。
「定、」
「じゃーなっ。まあ考えとけよー!」
駆け足で遠ざかる声に、河音はやっとまともに返す。
「分かった! ばいばい!」
短い信号はあっという間に変わった。ここから一人だ。ついそんなことを意識してしまって、重くなった足を横断歩道へと踏み出す。その肩に、
「よ」
「っうわ」
背後から軽く手が乗せられた。思わず立ち止まりかけた河音を押して道を渡らせ、手は離れる。振り返ると、頭一つよりも上から明るいオレンジに見下ろされていた。
「熱斗……いつからいたの?」
「ついさっき追いついたとこ。見かけたのは学校の前だけど、友達と一緒だったから声かけねーほうがいいと思って」
言いつつ熱斗は、足をとめた河音を促して歩き出す。この先は道も狭く、車も少ない住宅地だ。背中を叩いていった手に、なぜか急激にほっとする。
一人になると思うのが怖かった。原因は分かっているけれど、理由は説明できない。それが彼がいてくれるといくらか落ち着いた。その理由もまた分からないが、ゴッドはなにかを理解しているらしかった。
こうやって寄りかかっていることを申し訳ないと思うこともある。それでもまだ、自分一人で立っていられないアクアは、立たせてくれる人にひっついていくしかない。
並んで歩きながら、ふと先ほど気になっていたことを思い出し、アクアは整った横顔を仰いだ。
「今日、学校昼までだったって聞いたんだけど」
「ああ。試験だけで授業なかったから」
「お弁当いらなかったんじゃ……」
「あっち戻ってる間に勝手になんかの委員にされてて、全体の説明聞きに行かされてた。そしたら昼、柊が一人になるだろ」
当たり前のように言われるが、アクアにはまだその気遣いが新鮮だ。人間界へ行くことに唯一反対していたゴッドは、意外なことに五人での暮らしにはとても協力的だった。グロウのように分かりやすく家の中を取り仕切ることはしないが、アクアはたしかに、いてくれてよかったと思う。
具体的にどう助けてもらったか、ちゃんと言葉にはならない。アクアがいちばん分からないのは結局自分自身のことだった。
「それで、柊は?」
「弁当食って先帰ったよ。あいついちいち指示しとかねえと自分でご飯てやんないからな。弁当の方が楓生も楽だし、心配いらないし」
クルスの話だけでなく、接してみた感触としても、ユールには積極性というものが感じられない。ゴッドはそんなユールのことも気にかけて、あれやこれやと世話を焼いていた。その様子は端から見ればどちらが年上だか分からないものだった。ユールの事情を聞いても、驚くばかりでなにをどうしようと考える余裕もないアクアは、ただただ感心するばかりである。
「そ、っか」
相槌のあとをつなぐ言葉が思いつかず、会話はそこで途絶えてしまう。沈黙。ゴッドは気にしていないようだが、アクアにとってはどこか息苦しい。ペースの遅い足音が重なりそうで重ならないのを十歩聞いたところで、耐えかねてかける言葉をひねりだした。
「えっと、委員会ってなんの?」
ゴッドはそれに、めずらしくすぐには答えなかった。アクアにも分かるほどはっきりと間を空けて、声だけ優しく問い返す。
「俺の話聞いて楽しい?」
「っ」
え? と言うつもりの声さえ詰まった。見下ろす視線は決して厳しいものではない。ただなにもかも見透かされている感覚があった。
「ぜんぜん興味ないこと聞いてるだろ」
さらりと聞かされた言葉に、息をのむ。
「ほんとに聞きたいことは別にあるけど、自分じゃ分かんない?」
問いかけのかたちではあったが、ゴッドは明らかに確信を持っていた。
彼にはなにが見えているのだろう。図星なんてものじゃない、自分でも分からなかったものに気づかされた衝撃で、アクアは返す言葉を失った。無言で、こっくりとうなずく。
「そうか。困ったな」
ゴッドはたぶん、その先も、その行き着くところもすべて分かった上で、わざとらしいほど当たり障りのない返事をした。
助けてと、そう叫んでしまおうかとよっぽど思った。けれど、なにから救われたいのかも分からない。フィーを失った悲しみはたしかに感じている。いまでも、いつでも、そしていつまでも、この悲しみは胸を締め付けるだろう。悲しみから逃がしてもらうことはできない。でも、じゃあ、自分はなにから救われたいのか。こんなに苦しいのは、他のなんのせいなのか。
全部の答えを持った人の隣を歩きながら、アクアはまだためらっている。
教えてと請えば苦しみのもとは分かるだろう。分かりさえすれば助けてとも言えるだろう。しかしいまは、助かることさえ怖かった。