=風の精霊ウィンディ=

五月 4

「ええ、個人的な付き合いから情報が伝播していくことはとめようがありませんし、とめる必要もないと考えます。そのような人々は、あなた方の生活の隅々までを知っているわけではないでしょうし、知っている人がいたとしても、だからこそ他所にそれを開示するようなことはないでしょう。しかし秘塔の生徒は一定のスケジュールに従って行動し、個人情報は名簿に、じゅうぶんな裏付けのあるものとして詳細に記載されます。秘塔入学を知り、個人を特定すればほとんど確実に直接接触できますし、我々も万全を期しますが、名簿を窃取すれば生活拠点や家族まで知られることになります」
 人間界の学校もそうだったことを思い返して、なるほどなあ、と聞いていた説明に、アクアがおずおずと、心から不思議そうに疑問をぶつけた。
「えっと、あの、人間界の学校へ行くにも、名簿とか、いろいろ本当のこと書けなかったりしますよね。魔界ではそういうことできないんですか?」
 常識では考えられない発想に、女王様でさえすぐには答えられない。発言したアクアが戸惑うほどの沈黙を、お兄ちゃんがあわてて解した。
「あのな、建前上ではあるけど、精霊は女王家のものじゃないんだ。女王家は騎士団みたいに精霊を使うことはできないし、精霊が女王家の権力を利用することもできない。ルビィが人間界に行ってたことは、非常時の協力関係。だからグロウたちも、犯人を捕まえるのに協力するのは当然だけど、非常事態が終わってからも女王家にあれこれ言われるのはおかしいって思ったんだ」
「じゃあ、いま女王様がみんなに人間界に行ってほしいっていうのは……?」
 かなりきわどい質問だった。あたしでさえ控えていたというのに、よく知らないってすごいことだなあと感心してしまう。
 そんなあたしたちの内心に対し、女王様は意外にもわずかに唇をほころばせた。
「実際のところ、問題がないとは言えません。クルス・ウィンディ個人の願いに手を貸したとすれば公私混同ですし、あなた方に直接人間界行きを命じたとすれば過干渉です。ですからこれは、クルス・ウィンディの提案をもとに女王家と精霊とが合同で計画をし、実行に当たるものとします。それでもどこかからはケチのつく論法です。魔界内部で私が権力行使をする根拠としては非常に弱い。これが魔界ではいけない理由です」
 女王様はどこか愉快そうにしているが、かなりの無理を通すつもりらしい。仕事はできるけどお堅くて厳格な人、というイメージが少しずつ崩れていくような気がした。
 けれどその印象をまた塗り変えるように、続く声には威厳が満ちる。
「それから人間界でなくてはならない理由。こちらは単純です。常時敵対状態にある天冥両世界に対し、魔界は永遠に中立です。天界や冥界に精霊が拠点を置くことは、一個人としてであったとしても認められない。少なくとも私の代のうちは」
 魔界のなにかを背負っている人は、あたしたちを含めてたくさんいる。けれどいま、魔界を代表できるのはこの女性一人だ。そう思わせる力強い言葉だった。
「人間界は異質な世界です。天冥行きとは異なり、人間界行きの移動陣は一般利用に供しておりません。これだけで悪意ある者があなた方に到達する可能性は大幅に減らせるでしょう。ハノルスの例があり、安全が保障できるわけではありませんが、人間界で不審な何者かからの接触があればルートは絞られます。彼もまた、天界か冥界に黒幕を控えさせていたと考えています」
 ぴりりとした緊張が場を覆った。あえて口に出しはしないけれど、アクア以外はみんな分かっている。女王様は、いや――女王家は、天界や冥界を疑っている。それも、こんな無茶を言ってまで精霊を動かさなければならないほど、はっきりと。
 慎重になるのは仕方ない。あくまでいまは世襲が続いてる、というだけの女王家と違って、精霊はそのちからさえ血筋に乗せられている。精霊をつなげる者はあたしたち五人の他になく、誰もが次世代という保険を得るには若すぎる。自由を犠牲にしてでも安全なところにいてくれと請われるのも当然ではあった。
 結局これはお願いじゃなく、覚悟を固めるための時間だったのだ。
 もはやゴッドもこれに対抗する理屈は持たず、もともと賛成だったグロウと、むしろよろしくお願いしますという姿勢のアクア、言われるがままのユール、そしてあたしが合意したことで、話は決着した。
 お兄ちゃんは満足と安堵の窺える笑顔にちょっぴりのさみしさを乗せて、一週間後、あたしたちを見送った。

 そんなこんなで、五月も末。どたばたと始まった人間界暮らしもいまではそれなりに落ち着き、学校に通う、という習慣への違和感はほとんどなくなっている。
 身支度を完成させ、リビングへと舞い戻る。ベランダの大きなガラス窓が開いていて、グロウが洗濯物を干していた。窓際に置かれた洗濯カゴへ駆け寄って、服をハンガーに掛ける作業を引き受ける。なにかとワンテンポ遅れるアクアは、いまご飯が済んだところらしく、台所に近い方のドアから出ていく姿が見えた。
「アクア、今日は大丈夫そうだね」
 ドアが完全に閉まるのを待ってから言うと、グロウはぴたりと手をとめて目を丸くした。
「……あんたもちったあ気が遣えるようになったもんやね」
「どういうこと」
「あんた、こないだまでは本人に向こうてなんでも言いよったやか」
 フィーのことを思い出してしょんぼりしているアクアに「どうしたの? 大丈夫?」と聞いて泣かせたことを掘り返される。あのときグロウには「どう見ても大丈夫やない人に大丈夫? らあて聞かれん!」と叱られた。
「だって、心配だったんだもん。グロウは心配じゃないの?」
「そら心配よ」
 あたしの用意したハンガーを全部物干しにかけ終わって、グロウはベランダから上がって洗濯カゴも日向に干す。
「けんど、うちらあが可哀想がったちアクアが立ち直る助けにはならん。うちにもあんたにも、理解しちゃれんもんがあるがやき」
 ゆっくりと窓を閉めて鍵をかける。この家がある住宅地はわりあい静かな場所だけれど、それでも窓が閉じられると部屋の静けさが増すようだった。
「それって、女には分かんないってこと?」
 アクアがどうしても落ち込んでしまってだめなときに、頼りにされているのはゴッドだった。それに気づいたとき、あたしはかなり意外に思ったけれど、グロウに言わせれば当然の成り行きらしい。
 グロウはその話をしたときと同じように、なんでも知っていそうな顔であたしをはぐらかす。
「はずれ。もっと簡単で、うちらあには、特にあんたにはもっと理解できんこと」
「もうそれ絶対分かんないじゃん」
「分かるにようばん」
 慣れない言い回しだったけど、ばっさり切り捨てられたことは伝わった。ちぇー、と言いつつ、そんなに無理なら仕方ない、と諦める気持ちが強い。グロウは最後の片づけのために台所へ入っていく。
 時計代わりについているテレビを見ると、いつもの天気予報が終わりかけていた。遠い南の町では雨の季節が始まったらしい。
「ルビィ、うちの分もかばん持ってきちょいてー」
「はあーい」
 そう声をかけられて、この町の天気は見ないまま廊下へ出た。きっと今日もいい天気だ。

2014/12/10