精霊は、精霊の子なら誰でもなれる。先代精霊が死ぬか、精霊であることを手放すかして、子供がひとたび精霊服をまとえば、その子が次の精霊に決まる。精霊服も出せないほど魔力が弱ければ無理だけど、そんなことほとんどありえない。一般の人だって、精霊服のすべてを使うことはできなくても出すことぐらいできるのだ。ひとりに決まったら、どんなに優れたきょうだいがいても変更はきかない。
「ヒュナは精霊になりたかったんだ。なるつもりだった。ユールのことを守ると決めていた」
ユールは、なにも言わない。顔はいちおう、お兄ちゃんの方へ向けられているが、ここから見える横顔に波風はない。
「それだけがヒュナが頑張っていける理由だったんだよ。それがなくなって、恐れをなした騎士団は二人と関わることをやめて、二人きりになって……いろんな気持ちの、ぶつけるあてをヒュナは間違えた」
いまは長袖の下に隠れた場所に、ユールはいくつも傷を持っていた。あれは全部、そういうことだったのか。
「ユールは、最初から物静かではあったそうだけど、それでももっと、笑ったり、怒ったり、ちゃんとそういうことができてたんだ。だけど……」
自分の核心に迫る話をされているというのに、ユールは唇をまっすぐに、ちからを入れた様子もなく結んで、ただじっとしている。
「いまのユールの、心の状態は俺にもまだ分からない。ただ、これがユールの本来じゃないっていうのはみんなも分かるだろう。それにいまのユールが、分からないとか、どちらでもいいと言うことは、それはそれで現在の本心だということも」
アクアが自信なさげにうなずき、グロウは明確に「はい」と答える。ゴッドは腕組みのままなにも言わず、ユールはやっぱり微動だにしない。あたしはというと、正直なんだかよく分かんなくなってきていた。
ヒュナさんとユールの間に深い溝があることは分かった。お兄ちゃんがそれをどうにかしてあげたいと思っていることも。でも、どうにかの中身はなんなのか、あたしには想像もつかない。だから率直に聞いてしまう。
「お兄ちゃんはどうしたいの?」
あたしが口をつっこんでも、ユールはこちらを見向きもしない。
「俺は、ユールとヒュナがまた二人で、お互い傷つかずに暮らしていけるようにしてやりたい。そのために、ヒュナはユールを大事にできるようにならなきゃいけないし、ユールは本来安心して過ごせるはずだった時間を取り戻さなくちゃいけない。だけど俺一人で対応して、それぞれに完全に誠実でいることは難しい」
「だから俺たちが人間界にユールの居場所を作ればいいってことですか」
ゴッドの声は、さすがのあたしにもただのまとめじゃないと伝わるくらい、ぴりぴりとした響きだった。アクアが困惑したようにグロウを見やる。お兄ちゃんはなんてことないように、笑ってその圧を受け流す。
「そうだよ。だから、指針を与えるなんて言い方は変だったな。アクアとユールに対しては、大人としてアドバイスのつもりだけど、ゴッドとグロウと、それにルビィにはお願いってことになる」
「言葉の問題はそれでいいとして、精霊が五人とも人間界に拠点を移すことが最善なのはなぜか、説明がついてません」
「……さすがに甘くないね。ゴッドは人間界に行くのは嫌か?」
お兄ちゃんはあたしが相手のときみたいな聞き方をした。怒らせるんじゃないかとひやひやしたけど、ゴッドは態度を変えることなくなにか答えようとして、
「そういうことやないがです」
グロウの一言に阻まれた。
「うちは大筋、クルスさんの言うことには賛成です。精霊をやる以上、アクアともユールともえい関係でおりたいし、ここまで知ってほっちょこうとは思いません。けんど、指針と言うたがは間違いで実際はお願い、というがは違うがやないですか? うちらあにとってもなにかしら指針のつもりやったはずです」
「グロウ、もういい」
なぜかとめにかかるゴッドを、グロウはまるきり無視し、お兄ちゃんに答えを求める。
「うーん、グロウもよく気がつくなあ。これはちょっと、気分を害するかもと思って言わなかったんだけど」
「気にせんとってください。うち、クルスさんが親身で考えたことでは嫌な気持ちにはならんと思いますき」
諦めたようにソファに背を預けたゴッドと、真摯な態度……なのかそう見えるだけか不明なグロウの温度差の中、お兄ちゃんは最後の理由を説明した。
「今までの生活に戻りたいなら、すでに自分たちで生計を立てている二人には、人間界で暮らすデメリットこそあれどメリットはないと思う。だけど俺は、グロウにもゴッドにも、学校へ行ってほしいんだよ。たしかに、人間界の学校で教わることはこっちでは役に立たないだろう。他の生徒も子供っぽくて鬱陶しいかもしれない。でも、そこなんだ。学校に通っている間は子供でいい。二人にもそういう時間が与えられるべきだと、俺は思ってる」
なんともお兄ちゃんらしい考えだった。うちはお金がなかったから、お兄ちゃんはどうしても秘塔をやめて働かなくちゃいけなかった。お兄ちゃんも子供でいていい時間を諦めた人だけれど、だからこそチャンスがある子を放っておけないんだろう。
グロウはちゃんと分かってくれたようで、少し声が柔らかくなる。
「納得しました。ただ、うちは子供でおる権利もほしゅうはないし、学校へ行ったところでクルスさんの配慮の通りにはいかんと思います。この人は余計」
ちらとグロウがゴッドを見やる。ゴッドは「もういい」の言葉通り黙っていた。
「けんど、クルスさんがそうやってうちらあのことまで考えてくれちゅうことはありがたいです。うちはメリットはのうても特に反対するつもりはないですき」
「そうか、よかった。ゴッドは? これじゃ納得いかないかな?」
お兄ちゃんの嫌みのない笑顔には、ゴッドも威圧をなくして、
「グロウがそう言うならいいです。そいつが決めたら俺はどうしようもないんで。あとは、精霊をまとめて置いておく場所がどうして魔界じゃいけないのか、ですね」
最後は女王様に向けた言葉だった。しばらく話を聞くだけだった女王様が、すいと全員に視線を巡らせる。これまでとは違った緊張感に背筋が伸びた。ここからはひとの話じゃなく、精霊の話が始まる。
「あなた方にとって、最も通う価値のある学校が秘塔であることは承知しております。ですが、秘塔に入学するとなれば、精霊という立場を隠すことはできません。神魔戦争があり、精霊狩りがあり、そして今回の事件のこともあります。何者かが精霊に悪意を抱いている状況が、ハノルス一人の逮捕で解消されたとは考えられません。あなた方はまだ、公にされるべきではない」
女王様はきっぱりと断言した。だけど、
「あのー、誰が新しい精霊かって、もう知ってる人いっぱいいるんじゃないですか?」
お兄ちゃんのお店の常連さんや、グロウとゴッドの仕事上の知り合いや、ユールとヒュナさんに関わっていた騎士団。アクア以外はみんな、誰かに精霊と知れてしまっているはずだ。