人間界の朝は慌ただしい。
「しちじ、だ」
枕元の時計を仰いで、あたしはかすれた声でつぶやいた。また口を開けて寝ていた。唇の端についたよだれを拭ってからだを起こす。
まだ机と椅子とたんすしか入っていない部屋をぼーっと眺めていると、こんこんとドアを叩く音がした。
「ルビィ、起きろよ――ってもう起きてたか。おはよう」
ほとんど間髪入れずに、そんな言葉とともにドアが開く。その隙間に制服のズボンを穿いた脚が入り込んで、すらりとした長身がドアを支える。両手を塞いでいるのは、洗濯物の入ったカゴ。
「おはよーゴッド」
今代炎の精霊、ゴッド・ファイアルはとてもきれいな顔をした男の人だ。年はあたしの一つ上なんだけど、神魔中から大人相手に仕事をしてきたせいか、とてもそうとは思えないほど大人っぽい。魔力の表れである瞳の色はくっきりとしたオレンジで、もともと人目を引く顔立ちをさらに華やかにしている。
そんなゴッドは他人は大嫌いらしいけどあたしたちには優しくて、あたしはなんだか、もう一人お兄ちゃんができたみたいな気分だった。
「洗濯機回すから寝間着くれ」
「はあーい」
ベッドを出て、椅子にひっかけてある制服を取って、たんすからシャツや靴下を引っ張りだして、ドアのところで寝間着のTシャツ短パンを脱ぐ。それを差し出されたカゴに放り込むと、ゴッドは、
「よし、これで全部」
そう言って部屋を出ていこうとして、ふいに閉じかけたドアを足でとめる。
「ルビィ、ここ寝癖」
焦げ茶の髪の、耳の後ろあたりを指さし、直しとけよと遠ざかりながら言う声に、あたしはスカートを上げる手をとめて、自分の頭を触ってみる。
「ほんとだ」
左耳の後ろで一束が、元気に外を向いて跳ねていた。
寝癖は叩いてごまかして、制服に着替えたあたしは一階へ降りる。トイレに寄って、手と顔を洗うために洗面所へ入ると、そこには先客がいた。
「おはよ、アクア」
「ん。おはよう」
タオルから半分顔を上げて、アクアが言う。潤んだような水色の瞳はまだちょっと眠そうに見える。顔を洗っていたらしく、耳にかかる黒い髪は先が少し濡れていた。
アクア・ウォーティは水の精霊だ。精霊としては魔力も弱く、どういう訳かは不明だけど前のフィル・ネイチャーに育てられ、かなりの世間知らずでどこか頼りない。だけど陣書きとしての腕前はかなりのもので、どれだけの練習をしているのか、細い指にはあちこちにペンだこができている。
その手でアクアは、動いている洗濯機のふたを開け、タオルを中に入れる。
「どうぞ。洗面台使うんでしょ」
「ありがと。アクアもういいの? ご飯まだ?」
「うん、まだだけど」
手を洗いながら聞いて、返事にほっとしながら顔を洗う。アクアは先月のあれから元気がなくって、夜眠れないとか、朝、やけに早く起きてしまうということが続いているみたいだった。今日はどちらもないみたいで、ひとまず安心だ。
手と顔を拭いて、なんとなく待っててくれたアクアと一緒に、リビングと続きのダイニングへ入る。
キッチンカウンターの向こうから、お弁当を作るいい匂いとスリッパの足音、それから不思議なイントネーションの声がした。
「おはよう。今日は昨日の残りないき、朝ご飯それでしいよ」
「グロウおはよー。それってこれ?」
テーブルの真ん中に食パンの袋が置かれていた。聞き返すと、眼鏡越しの黄色い瞳が冷蔵庫の隣に置いてあるトースターを示し、
「自分でやってよ。飲みもんこっちで入れちゃおき。弁当そこへ出いちゅう分はふたしちょって」
そう言う間にもグロウはてきぱきと動いている。おばあちゃんのものだという眼鏡以上に、制服の上のエプロンが似合っている気がする。
グロウ・サンダーというと、一部では雷の精霊であることより、その家業の方が有名だったりするらしい。仕事が早くて頭もいいのは、家業をやっていくためお父さんに鍛えられたからだという。グロウは自分が動くんじゃなく人を使うのが本分だと言うけど、家の中でもこうして家事を引き受けてくれる働き者だ。
言われたとおりオーブントースターに食パン二枚をつっこんで、テーブルの上の弁当箱を閉めていく。お茶の水筒もあったからそちらにもふたをした。
グロウから牛乳と、お弁当の残りの野菜を少しもらって、あったまった程度のトーストを出してきて椅子に着く。いただきます、と手を合わせたとき、アクアがふと顔を上げた。
「あ、ユール。おはよう……と、おかえり?」
「おはよう。ただいま」
定型文にしたってあまりにも平坦すぎる、そのくせ案外と通る声。玄関に続くドアの前に、気配も薄ければ肉付きも薄く、肌の色までうっすい姿があった。
「ゴミ出しありがとう。弁当かまえちゅうき出れるで」
「どういたしまして。分かった」
グロウの言葉にも抑揚のなさすぎる返事をして、ユールは台所へ手を洗いに入る。きちんとはしているんだ、きちんとは。
ユール・スノークス。先の揃わない重そうで真っ黒な長い髪と、まったくと言っていいほど表情のない痩せた白い顔。これだけではただの生気のないだんまりだが、長いまつげの下の大きな目には、あたしにも匹敵する魔力が深い青として表れ、力強い光を宿している。
先代雪の精霊は女王家の信頼も深く、騎士団のトップを務めていたが、神魔とその間の複雑きわまる問題により、今代はこのような状態だ。これでも今代精霊ではいちばん年上で、魔法の扱いには長けているが、感情についてはからっきしで……率直に言って、なに考えてるか分かんなくて苦手だ。
ユールが自分の席に置いてあったかばんに弁当箱と水筒を入れる。グロウがカウンターを出てきて他の人の分を手早くセットにしていく。
それが終わった頃にリビングの方のドアが開いた。自分の荷物と、ユールの分の学ランを手にしたゴッドが、
「準備できたか? あとグロウ、洗濯機とまってる」
そう言いつつお弁当を取りに来て、
「できている」
「ありがと、もう行くが?」
ユールが上着を受け取り、グロウは弁当を手渡す。
「いつもの時間だろ。ユール行くぞ」
「ああ。いってきます」
「いってらっしゃい」
そうして、ゴッドとユールは一足先に家を出ていった。
あたしはそれをひとつの合図として、パンの残りを牛乳で飲み込み席を立つ。
「ごちそうさま!」
まだ時間はあるけど、今日は洗濯物を干す手伝いをしなきゃいけない。ちまちまとトーストのミミをかじっているアクアを置いて洗面所へ。歯ブラシをくわえてほっぺたの中でぐりぐり動かしながら、洗濯機の中身をカゴへ移す。風呂の栓をはずして適当な歯磨きを終えると、グロウがやってきてカゴを回収していった。
くちをゆすいで、やっとちゃんと鏡と向き合う。
めちゃくちゃに結んであったセーラー服のリボンを解き、えんじ色の襟の下へ入れ直す。きちんとちょうちょ結びを作って、
「よし。――あっ」
直したつもりだった寝癖が復活していた。常に乾きがちな明るい茶色の髪に、ぴっぴと水を散らして今度こそ撃退する。よく見ればあっちもこっちも跳ねているけれど、そういう髪質だし、短いから仕方ない。頭のてっぺんなんて寝かせられた試しもない。
「ほんとのほんとに、よし?」
鏡の中、煌々とした瞳と見つめあう。光の色は、深い赤。その濃さがあたしの魔力の強さを、大きさを示している。
風の精霊ルビィ・ウィンディ。それがあたしだ。
精霊は、遙か昔に魔界の無力を嘆いた万術師、ルサ・イルに、その強大な魔力を見込まれて結成された、魔界を守るための命綱だ。ルサ・イルは初代精霊たちに魔法をかけ、その強さがいつまでも、脈々と受け継がれていく仕組みを作り上げた。
そしていま。魔界を守るべき精霊たちは、五人揃って人間界で共同生活を送りながら、中学生をやっている。