アクアは首を横に振りかけて、
「そういやアクア」
ゴッドに呼ばれて顔を上げる。
「なにされてたか聞いたか?」
言いつつ、ゴッドは不思議なジェスチャーをする。右手で頭を指さして……どういう意味なんだろう。きょとんとするあたしとは反対に、アクアは「あっ」と声を上げた。
「ご、ごめん、聞いてない……それに、フィーの記憶はもう……いまのネイチャー様には見えないって」
そういえば、あの時ゴッドはいなかった。でも、聞いたとか聞いてないとかなんの話? フィーに聞きたいことがあったみたいだけど、グロウも止めなかったし、知ってるのはアクアとゴッドだけってこと?
ゴッドはアクアにはあっさり「そうか」とだけ答えて、ちょうどノートを閉じたばかりのグロウに、
「おい、報告抜かってんぞ」
「なんので?」
「フィル・ネイチャーの記憶」
やっぱり、この二人の会話は言葉が削られすぎてわからない。
全部通じているグロウは、痛いところをつかれた、というふうに顔をしかめた。
「しもうた」
「つーか俺も言ってなかったか。どうしてもって訳じゃねえから、まあいいよ」
ゴッドは深く追求せず、グロウの手から日記を取り上げる。
「はい。お前は読むだろ」
「ゴッドはいいの?」
「もう見た」
手渡されたノートを開く。読み始める前にアクアの様子をうかがうと、日記の外側にじっと目を留めていた。
日記は前の冬から始まっていた。寄る辺のない不安と、漠然とした不満。原因も対象もはっきりとは書かれていない。ただそういう思いが膨らんでいく様だけが記される。
ひとつひとつの言葉は過激だけれど、どこか淡々とした、いろんなものを諦めたような寂しい文章だった。
計画、という言葉が出てきてから、多少具体的な記述が増える。行く場所がある、話すことがある、会う人がいる。詳細はわからないけれど、ハノルスには裏に協力者がいたようだ。けれど、あたしを取り逃すという失態以降、その助力はあてにならなくなっていく。そこからは吹き返すように不満がぶちまけられていた。
最後の日。何もかもうまくいかない、誰も彼も信用できない。そんな主旨の長い文章には、たびたびルサ・イルが「父」という表記で登場した。
父の期待に答えられなかったとか、父に愛されていると思えないとか。ハノルスが生きていたら、そんなわけない! と叫んで殴るくらいはしてやりたかった。アルサは自分の子供に無理な期待をかけたりしない。アルサが自分の子供を愛してないわけがない。
だけどハノルスは、アルサがそういう人だってわかってて、それでもアルサを疑ってしまって、そんな自分に耐えられなくなって――。
『父を好きでいられる自信がない。そうなる前に死んでしまいたい』
その一言で日記は終わっていた。あとはただ、真っ白なページが続く。
やっぱり、アルサは帰らなきゃいけなかったんだ。あたしにばっかり構ってる場合じゃなかった。ハノルスがこんな事件を起こしたのも、アルサを信じられなくなったのも、死ぬことを選んだのも……アルサが神魔中、ハノルスをほったらかしたせいだ。
ノートを閉じる。アクアは読む気になれなさそうだったからユールに渡した。
「どうやった? 手がかりらしい手がかりはなかったけど、ルサ・イルとおったあんたやったらわからん?」
グロウはこの日記を、純粋に、事件の真相を知るための情報源として見ていた。あたしはそんなふうに、冷静な分析なんてできず、ただ思ったことを吐き出す。
「アルサのせいだよ。アルサがちゃんと、ハノルスに会って好きって言わなきゃいけなかったのに……」
「そのことだけど、やっぱりハノルスの把握は間違ってたんだな?」
ゴッドの声色も、普段となんら変わらない。ざわつく胸がすこし落ち着くような気がして、あたしはゆっくりとうなずいた。
「そうだよ。アルサはどんな人でも好きになっちゃうんだもん、自分の子供を嫌いなはずない。ほんとはちゃんと好きって言ってもらえたはずだよ。ただ、アルサが会いに行ってあげればよかっただけなのに」
「そうか。問題はルサ・イルがどうしてハノルスと会わなかったのか、というか、会えなかったのか、だな」
「……それって、あたしがいたから?」
特別だとかなんとか、ハノルスが叫んでいたことを思い出す。もしあれが本当だったら――
「違うろう」
背筋を這うような不安を、グロウがきっぱりと断ち切った。
「ルサ・イルの子供は腹違いばっかりって、あんたも聞いたがやお? それが平気やったら、よその子預かっちゅうばあで実の子避けたりはせんわね」
「そっか……でも、じゃあなんで?」
「それは調べてみんことには。けんど、可能性が高いがは……」
「――神魔?」
ぱたん、と小さな音を立ててユールが日記をテーブルに返した。グロウが言葉を切り、女王様に視線を移す。
「よろしいでしょうか。それではこちらは城で保管させていただきます。今回の事件背景についても城で調査を進めます。しかしあなた方の推測の通り、明らかにすべきは神魔戦争でしょう。神魔と名付けられた期間は終わったとはいえ、あの出来事の余波は今も残っています。そしてこれからも影響がないとは言い切れません」
精霊も、フィル・ネイチャーも新しくなって、だけど神魔の痕跡は色濃く残っている。精霊狩りはまだどこかにいるかもしれないし、騎士団は機能停止したままだ。
これから、魔界を守るってなにをすることなのか。精霊として考えなくちゃいけない。
「お疲れのところ申し訳ありませんが、今後のことについてお話があります。城の面会室へお集まりください」
女王様はそう言って立ち上がった。詰め所の扉が重苦しく開く。落ち着き始めた喧噪の中を、役目を終えた死神が早足で去っていくのが見えた。