結局お兄ちゃんはひとりで帰ってきた。
ふたりが庭園に着いたときには、城の職員は引き上げたあとで、ネイチャー様は「おかえりなさい」とアクアを迎えた。アクアは特に迷いも見せず、とりあえず明日までをそこで過ごすと決めたという。帰ってきたお兄ちゃんは、新しいネイチャー様の見た目の幼さと、態度や声音の老成ぶりにいたく驚いていた。
それから、兄妹水入らず――アサナギとユウナギはいるけど――と思われた我が家に、なぜかスノークス姉弟が招かれた。お兄ちゃんが彼女のヒュナさんを呼ぶのも、そうすると一人で留守番となるユールに気を遣うのもわからないではない。だけどあたしとお兄ちゃんにばかり笑顔を振りまくヒュナさんと、必要最低限ぎりぎりのことしかしゃべらないユールのいる食卓は、正直に言って異様だった。
スノークス家の跡目問題については、まだまだ真相が見えていない。せっかくだから聞いてみたかったけど、誰もそんな話をしたくないことはあたしでも感じ取れた。でも、重大なことを知ってるお兄ちゃんが「教えない」と言わないってことは、そのうち話すべき時はくるってことだろう。
ハノルスのことだってまだまだ片づかない。一度に全部解決させなくたって、ひとつずつやっていけばいいんだ。アクアの帰る場所も、ユールとヒュナさんの事情も、グロウとゴッドの探す精霊狩りも、ハノルスとアルサのことも。
明日はまず、アクアに会いに行こう。そう決めてリビングでぼんやりしているうちに、あたしは深い眠りに落ちていた。
その知らせは突然だった。
制服も着替えないまま眠っていたあたしは、いつもより早く目覚めて昨日入り損ねたお風呂に入り、お兄ちゃんお手製のワンピースに着替えた。朝食の席にヒュナさんとユールの姿はない。昨夜のうちに帰ったのか、泊まって今朝出たのか、気づけば自室のベッドだったあたしにはわからない。ヒュナさんに手当てされた傷は、言われたとおり驚異的な早さで治り、かさぶたも半分剥がれていた。
今日は店を休みにしたというお兄ちゃんはゆっくりと家事をこなし、アサナギとユウナギは目の届く範囲をうろちょろしている。神魔のあと、ほんのちょっとしか味わえなかった日常が戻ってきた。そう思っていたとき、通信鏡に連絡を表す光が点った。
「なんだろ」
鏡の枠に埋め込まれた、魔法陣を内蔵する小さな石に触れる。通信に要する微量の魔力が吸い上げられて、鏡面に映るものが切り替わる。
「あ、グロウ? おはよー」
映ったのは数日は見ないかと思っていた顔だった。寝癖に部屋着のあたしとは違い、グロウはぴしりと身なりを整え、顔色には昨日の疲れもない。
「のんきに挨拶しゆう場合やないで」
第一声がそれだった。挨拶くらい……と思うとともに、朝の眠気が振り払われる。なにかあったんだ。
「どうしたの? お城でなんかあった?」
「なんかもなにも」
レンズ越しの黄色い瞳が、手元を見るためかわずかにそらされる。遠くから「じゃあ先行ってる」と言うゴッドの声に、グロウは振り返らずに「了解」と返した。
なにかがもう動き出している。そんな予感とともに、あたしは聞いた。
「どうしたの? ハノルスが脱走したとか?」
安易な予想だった。
「違う。自殺した」
あたしはお兄ちゃんに行き先だけ伝えて、一目散に城へ向かった。応接室もなにもなく、騎士団施設に接する牢棟へそのまま通される。あまり使われた形跡のない、こぎれいで小さな建物だった。その玄関を入ってすぐに、グロウたちが揃って立っていた。ゴッドだけがいない。案内をしてくれた職員は、会釈をひとつして慌ただしく建物の奥へ駆け込んでいく。
「どうなってるの!?」
ここに来てしまうと挨拶なんか出なかった。グロウが先ほどより落ち着いた声で言う。
「いま死神が来たとこ」
死神。死んだ人は自分の魔力をコントロールできない。残された魔力を安全に消化するにはある程度の知識やコツがいるため、有資格者にしかその行為は許されない。それが、死神だ。
その葬儀屋が来たということは、ハノルスはもう。
一瞬だけ静まり返ったロビーに、重く扉の動く音が響いた。そちらへ目をやると、通路の手前、壁に沈み込むような色合いの目立たない扉が開いていた。
そこから顔を出したゴッドが、
「話ついた。来い」
と呼ぶ。なんのことだかさっぱりわからず首を傾げるあたしをよそに、グロウがすたすたと歩き出す。アクアとユールも無言でそれに倣うので、あたしもみんなを追いかけた。
全員が入って、戸口にいたおじさんの職員が扉を閉める。中は壁際に簡素な机が二つ並び、奥に小さな応接セットだか休憩テーブルだかの置かれた、詰め所のような部屋だった。
女王様が、そこに背筋を伸ばして腰掛けていた。みんな知っていたことのようで、あたしが目を丸くした以外に動揺はない。
ハノルスは事件の重要人物だ。女王様が出てくることに驚きはないが、話をつけるとはどういうことだろう。答えは女王様からもたらされた。
「この日記は、机の上に、見えるように置いてあったものです。見られることを前提として書いた可能性もあります。その内容がどこまで真摯であるか、保証はできません」
そんな言葉とともに、テーブルの上に一冊のノートが差し出される。表紙は、もとは白かったのか、端の方から黄ばみ、うっすらとグレーに汚れていた。タイトルはない。署名も。けれどそれがなんであるかはひと目でわかった。
これはハノルスの日記だ。
「私はすでに内容を確かめました。あなた方についてのことも多く書かれています。悪意も、多分に込められています」
女王様は、あたしたちに読んでほしくないみたいに日記に手を載せたままだった。実際そうなのだろう、交渉にあたったらしいゴッドが、
「それを分かった上で読むかどうかは各個人が決める、そういうことになったはずです」
と女王様の制止を拒む。
前の精霊も知っている女王様には、あたしたちはまだまだ子供にしか見えないのかもしれない。だけど精霊を継いだ以上、この世界では大人だ。あたしもそれは頭でわかっているだけのことで、子供扱いの方が慣れているけれど、ゴッドの態度はむしろ大人扱いが当然であるかのようだった。
「ええ……その通りです」
起伏のない表情にすこしだけ影を落として、ノートから手がどけられる。グロウがいちばんに手を伸ばした。
あたしも気になるけど、そのうち回ってくるなら急ぐ必要はない。それよりも黙りっぱなしのアクアが気になった。ユールはさすがにこういうやつだとわかってきたから別にいい。
「アクア、大丈夫?」
気の利いた声のかけ方なんて思いつかず、とりあえずそう聞く。大丈夫じゃなさそうだから言ってるんだけど、アクアは、
「うん」
とだけ答えてグロウがページを繰る指を見つめている。昨日の別れ際の笑顔はなんだったんだ。
「ねえ、全然大丈夫そうじゃないんだけど。昨日ネイチャー様となんかあった?」
あの落ち着きすぎたネイチャー様となにがあるわけもないだろうけど、あたしには他の切り口が思いつかない。