「ルビィちゃん、ちょっとごめんね」
ヒュナさんがスカートの裾に手をかける。ユールのことを聞きたかったけれどなぜか言ってはいけない気がして、あたしは自分でスカートをめくった。
怪我は膝上から太股までの擦り傷だ。広さはあるけど軽いものだし、血もとっくに止まっている。できることはせいぜい消毒ぐらいで、あとは触らないようにガーゼをして、毎晩取り替えるだけだ。
けれどヒュナさんは、消毒をしてから別の薬のふたを開けた。
「そんなにいろいろ塗らなくても……」
「ルビィちゃんもお薬はあんまり使わないよう言われてたのね」
つい脚を引きそうになっていると、ヒュナさんにみごと図星をつかれる。ちょうど、薬は使えばいいというものではない、とアルサに言われたことを思い出していた。
ヒュナさんはビンから軟膏をすくいながら、
「みんなにも言ったけれど、あなたたちの親御さんが薬の使用を控えなさいって言うのには理由があるのよ。世の中に出回ってる普通の薬は、成分がからだに効く効果と、魔法が魔力に働きかける効果を併せ持っているの。精霊は特別に魔力が強いでしょう。そのせいで両方の効果が強く出すぎて、効きすぎたり副作用がきつかったりするの」
ひやり、と白い指が撫でるように傷口に触れる。ほとんど固まっているとはいえ、傷にはそれなりの熱がある。触れた場所から冷えていくみたいな感覚が気持ちいい。
「だけどわたしの薬は、からだに直接響く成分はほぼ使ってないわ。素材は吸収性を第一に選んで、作用は全部魔法によるものよ。魔力はもともと自己修復がとっても上手なの。それをうまく制御することで、そうね、ルビィちゃんならこの傷、二晩で治るわ」
ガーゼを当てて、テープで固定して、おしまい。
「それからね、傷薬以外でも――」
「ヒュナ、そのへんにしておこう」
口調に熱がこもり始めたヒュナさんを、お兄ちゃんがやんわりと止めた。
「大事な話があるんだろう」
そう言われてグロウが窓から背を浮かせる。
「ルビィがなんもわからんろうき、一から話すで」
グロウの話しぶりは淡々としていた。
女王家にハノルスの連行を頼んだあと、フィル・ネイチャーの庭園であたしが倒れた。原因が魔力消耗だということは明らかだったらしく、城でも医者でもなくお兄ちゃんに連絡を取ったところ、城下で落ち合おうということになり、グロウの家に集まることになったようだ。
あたしはここで初めて、この家が城下にあると知った。ご先祖が女王家からもらった土地はどうしたの? と聞くと、そっちはほったらかしだという。家業のためにはへんぴじゃ困るらしい。
それはさておき、ハノルスを女王家に引き渡し、その場で事情を聞かれることになったネイチャー様の配慮で、精霊たちだけはとりあえず引き上げてきた。ハノルスの取り調べ後の報告や、あたしたちからの報告は後日、城で交換という約束になった。
「さっき通信鏡でも話してきたけんど、時間も時間やし今日中にどうこうは無理やと。それまでは各自……」
グロウはそこで、なにかを言い澱んだ。
「自宅待機?」
「まあ、連絡つくくにおって」
妙に歯切れが悪いが、意味としてはそういうことだろう。これでやっと、本当に家に帰れるんだ。
ほっとすると同時に、あたしはあることに気づいた。
アクアは話のあいだ中、ずっと不安そうに足下を見ていた。いまも視線は変わらず床に落ち、きゅっと唇を閉じてなにかを堪えているみたいに見える。目元にはくっきりと泣いた跡が残っていた。
いつの間にか外は夕暮れている。赤っぽい光が滲むように部屋へと入り込む。
「アクアはどうするの?」
そう聞くと、アクアはびくりと肩を揺らしておおげさなまでに目を見開いた。赤い光をぼんやりと影のように背負って、明るい水色の瞳はまだ泣きたいみたいに濡れていた。
「どう、って」
「帰る場所。あの家には帰りたくないでしょ」
「っ」
瞳に広がった涙の上で、光のかけらがふるりと揺らぐ。
「ルビィ、言い方考えや」
グロウの声にはたしかに棘があった。その表情は複雑で、あたしの発言に対する不満以上のものははっきりとは読みとれない。
「でも、どこに帰るかは決めなくちゃいけないでしょ」
「そうだな。アクアはどうしたい?」
なりゆきを見守っていたゴッドが、グロウを制して話を戻す。アクアは選択肢さえわからないみたいに黙ってしまい、お兄ちゃんが助け船を出した。
「服やなんかはネイチャー様のところにあるんだよな。どこへ帰るにしろそれは取りにいかなくちゃならないだろうから、まずは庭園へ行こう。決めるのはそれからでいい」
「……はい」
迷いの残る声で、アクアは小さく答えた。
夕暮れ時の城下町を、あたしたちは移動陣へと歩いた。
それが当然にように黙っているユールが先頭で、雑談を交わすお兄ちゃんとヒュナさんの後ろを、あたしとアクアが並んでついていく。寝たまま運ばれてきたあたしには、見たことのない景色が夜に近づいていくのは興味深くあった。
どうやらグロウの家があるのは南西地区らしい。最寄りの陣は城壁の西側だ。
フィル・ネイチャーの庭園には、お兄ちゃんが付き添うことになった。あたしは先に家へ帰って、夕飯を温めておいてと言われた。ユールとヒュナさんも自分たちの家に帰り、ゴッドはグロウのところへ残った。今回の事件で中断された仕事の、後片付けがあるのだという。
歩幅も狭くとぼとぼと、それでも前の速さに遅れないように。そうやっているうちに、気づけばもう移動陣にたどりついてしまった。アクアの顔色はやはり冴えない。
手近な陣にスノークス姉弟が並んで、ヒュナさんだけが手を振る。
「それじゃまたね、ルビィちゃん、アクアくん。クルスも、いってらっしゃい」
「いってきます、ヒュナ」
一人だけ特別な言葉をもらって、お兄ちゃんは慣れたふうに笑っている。ほんとに恋人同士なんだなあ、といまさら思った。
二人の姿が消えて、お兄ちゃんが同じ陣へと入る。アクアがそれに続こうとする。
「待って」
つい、そう呼び止めていた。アクアが振り返って、また水色の光が揺れる。
「ルビィ?」
「あのね――」
なにか。
言いたいことがあった。言わなきゃいけないことがあった。
守るって言ったのに、怪我させてごめんね。フィーを失わせてごめんね? そうじゃない。そうだけど、そうじゃないんだ。
「あたし、もっとがんばるよ」
西の空は赤く燃えていた。まぶしい逆光のなかに、昼間を切り抜いたような水色が輝く。ずっと苦しそうに結ばれていた唇が、なにかを返そうとして半開きのまま止まる。
眩しそうにこちらを見る目をしっかりと見返した。眩しいのはあたしの方なのに、なんだかおかしい。
「なんかあったら言ってね。絶対、」
絶対、次は守るから。アクアが泣いてだめになってても、あたしは泣かないから。
そういうものを全部、一言に詰め込む。
「約束、守るから」
それはアルサとの約束であり、アクアとの約束でもあった。ほんの何時間か前、とっさに押しつけてしまった約束をちゃんと結び直す。
アクアは小さくうなずいて、今度こそ泣くかと思ったら、ふわりと笑った。
「ありがとう、ルビィ」
「ん。じゃあね。いってらっしゃい」
お兄ちゃんがいってきます、と答えて、陣が動く。ふたりを完全に見送って、あたしは息をつくようにつぶやいた。
「アクア、フィーにそっくりじゃん……」
あの柔らかな笑み。親子や姉弟でなくても、ふたりは家族だったのだと気づかされる。そして、そのたったひとりが失われたことを思う。
振り返ると、東の空のはじっこから、もう夜が城壁を越えようとしていた。移動陣へと踏みだそうとして、やっぱりやめる。
「アサナギ! ユウナギ!」
なんだかいまは、ひとりで帰る気にはなれなかった。