=風の精霊ウィンディ=

ハノルス 1

 足音がする。硬い土を歩く靴音だ。人の声も、すこし離れたところからいくつも聞こえる。
「準備できたで。こっち」
「俺がもらおうか?」
「いいです。鍵お願いします」
 揺れている。靴音が消える。人の温度が心地いい。日差しはなく、空気はすこしひんやりしていて、あたしは目の前の温もりにすり寄った。ああ、でもやっぱり背中がちょっと……。
「あ、起きた」
 すぐそばで声がした。低い、ふと漏らしたような響き。お兄ちゃんじゃない。それだけ判断して目を開ける。まばたき。もうひとつ。
「…………」
「だいじょぶか?」
「ん。……ここどこ?」
 あたしはゴッドにおんぶされて、見知らぬ家の中にいた。天井は板のままで壁は白く、狭い。廊下だ。前と左に木のドアがある。
「グロウの家だ」
 言いつつゴッドが振り返る。
「クルスさん、ルビィ起きました」
「お兄ちゃん?」
「ルビィ!」
 玄関に立っていたお兄ちゃんが安堵の表情を浮かべる。
「よかった、心配したよ。具合は? 痛いところはないか?」
「平気。それより、なんでグロウの家に? しかもお兄ちゃんいるし、どうなってるの?」
 背中が寒いと思ったら精霊服は消えて制服に戻ってるし、ゴッドも制服姿だ。庭園に溢れていた草のにおいはなく、自分の汗がちょっと臭う。太股に傷の存在感はあったけど、痛いと騒ぐほどではない。あくびをすると頭も体も、すうっと晴れていく気持ちよさがあった。
 それを見たゴッドがため息をつく。
「お前はさっきまで寝てたつもりか?」
「え? ……あっ」
 そうだ。ネイチャー様の庭園でふらふらーっとなって、真っ暗になって、あれは倒れたってことになるんだろうか。
「ま、そんなんだったらもう大丈夫だろ。立って歩け」
 呆れ声で言われ、おんぶも解除される。おなかのあたりがさっと冷えて、ちょっと残念だ。せっかくいい気分だったのに。
「魔力の使いすぎだ。後先考えずに魔法連発してっから倒れんだよ」
「う……。でもでもじゃあ、あれがあたしの上限ってこと? 魔力には自信あったのに」
 確かにつらかったけど、あの程度でカラカラになるようじゃ困る。アルサにはよく「ルビィは魔力が強いから」って褒められたけど、あれはアルサと比べての話だったの?
「まあまあ。疲れてるんだからそう熱くならないで」
 お兄ちゃんが左手のドアを開け、その先の階段へと促す。だけどあたしは納得するまで動く気になれない。ぐっと顎を上げてゴッドを見上げる。
「……最初っから上限いっぱい使えるやつなんているかよ。あればあるだけ使えるってもんじゃねえ。上限なんて体が消耗に慣れてからだ」
 そう断言され、肩を押される。
 慣れてない。ということは、慣れればもっと戦えるし、あたしの全力はもっとすごいってこと、だよね。
「ほら、さっさと行け」
「……えへへ。ありがと」
「なんのお礼だよ」
「いいの!」
 なんだか一気に気持ちが軽くなった。あたしは素直に階段を上がって、お兄ちゃんに並ぶ。
 階段は一度壁にぶつかって、そこを曲がった突き当たりに廊下とドアがあった。廊下は左右に延びて途中で曲がり、ドアは目の前に一つ、右にも一つ。
「こっち。失礼、開けるよ」
 お兄ちゃんが正面のドアをあたしの後ろから軽くノックし、返事を待たずに開ける。そこには、
「あっ、ルビィ!」
「元気そうやん」
「…………」
「あらクルス。ルビィちゃん、目が覚めたのね」
 アクアと、グロウと、ユールと、知らない女の人がいた。
 部屋は客間のようで、家具はベッドと、折りたたみらしい椅子とテーブルだけ。窓にはレースのカーテンが引かれて外は見えない。そういえばグロウの家ってどこなんだろうと思ったけれど、それより気になったのは椅子に座って微笑む、知らないはずの人だった。
 くせのない、まとまった長い黒髪。ちょっときつそうな目元に透けるような白い肌。青い瞳の色はどこか冷たく澄んでいる。分厚い氷を思わせる色だった。姿勢がいいからか背はすらりと高く見え、見た目も雰囲気も大人っぽい。
 知らないはずだ。そもそも大人の女のひとに知り合いなんて、女王様ぐらいしかいない。だけどあたしには、どうにもそのひとに見覚えがあるような気がしてならなかった。
 そのひとがにっこり笑って答えを出す。
「こんにちは、初めまして。ヒュナ・スノークスって言います。あなたのお兄さんとお付き合いさせてもらってるの。クルスから聞いてるかしら?」
「あー! お兄ちゃんの彼女ー!」
 綺麗なひと――そう言っていたのを思い出す。ほんとだ。めちゃくちゃ美人だ。しかもスタイルもいい。それから、
「ユールにそっくり……!」
 あたしとお兄ちゃんはあんまり似てないけど、ユールとヒュナさんは誰が見ても一目で姉弟とわかるほどよく似ていた。
「ルビィ、挨拶しなさい」
 戸口で立ち止まっていたらお兄ちゃんに背中をこづかれた。
「えっと、ルビィ・ウィンディです! お兄ちゃんをよろしくお願いしますっ」
 慌てておじぎすると、ヒュナさんは楽しそうに笑ってあたしの手を引く。
「こちらこそよろしくね、ルビィちゃん。さあ座って。傷の手当てをしましょう」
 ベッドの真ん中辺り、ヒュナさんの前に連れてこられる。ヒュナさんはそこにいたユールを、
「ユール退いて」
「はい」
 どこか硬い声で足下の方へ寄らせた。
「手当て、ってヒュナさんがするんですか?」
「そうよ。安心して、こういうの得意だから。わたし薬屋さんやってるの。城下の定期市でも常連なのよ」
 言いながらヒュナさんは、テーブルの上の救急箱を開ける。見ればアクアの手に、いくつかガーゼやテープが巻かれていた。陣を解こうと必死になっていて擦りむいたのだろうか。もとの制服姿で腕や脚までは見えないけど、ほかに怪我をしている様子ではない。よかった。
 こちらも制服で窓にもたれるグロウと、開けっぱなしのドアの前に立つゴッドは、どちらも無傷のようだった。みんなが無事なのはいいけど、あたしだけこんな怪我しちゃって、ちょっと恥ずかしい。
 そう思いつつユールの方へ目をやって、あたしはすぐそらすはずだった視線を動かせなくなった。
 ヒュナさんが持ってきた私服だろうか、半袖のTシャツと膝丈のズボン。そこから覗く棒きれみたいな手足は、あちこちに乾いたひっかき傷みたいな痕をつけている。腕には痣みたいな青っぽい部分もあり、部屋の明かりはそう強くないのに、生白い肌にはそれがくっきりと浮いて見えた。

2014/10/10 (修正 2023/3/23)